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 8話

 翌日。約束どうりに瑛は眞幌の部屋へやってきた。瑛の隣の部屋だって空いていたのに、わざわざ眞幌は三階下へ越してきた。

「なんで俺の隣に越してこなかったんだよ」

 瑛は不満だった。確かに同じマンションだからエレベーターを降りるだけの近さだ。

雨にだって濡れずに逢える。けれど隣なら夜でも気軽に帰宅の時に声くらい掛けれるかも知れない。もちろん安いマンションではないから、隣の生活音が聞こえるわけではないが、なんとなく気配が分かるような気がするではないか。

 三階下では居るのか居ないのかもわからない。そう言う点では、いままでとそう変わらない気がする。

「用があるなら来ればいいじゃないか」

「そうじゃなくてさぁ」

 瑛も上手く説明は出来なかった。

「どうせ事務所が家賃払うんだから、上でもよかったのに」

 まだぶつぶつ言う瑛に

「無駄に広くても仕方ないだろう? ここだって広いくらいなのに」

「物がなさ過ぎるからだろう?」

 余計なものを置けとは言わないが、ここには何もなかった。眞幌の前のアパートは六畳一間だった。キッチンは別に付いていたが、あそこに友人と二人で住んでいたなんて瑛には信じられない。

 あそこには家具らしき物も何もなかったし、ここへ来てもそうかわりはない。さすがに床に段ボールだけとはいかないので、ベッドと小さなテーブルは買った。ウォークインクローゼットが寝室に備えてあったので、少ない洋服はもちろん、持っていたほとんどの荷物はそこに収まってしまった。

 従って、寝室には新しく買ったセミダブルのベッドしかないし、この広いリビングには小さくて新しいテーブルがひとつあるきりだった。テレビはまだない。音楽は聴きたかったので、身に余る契約金と給料で、思い切って贅沢なコンポを買った。それでも瑛の部屋にあったコンポよりはずいぶん安いはずだった。それだけである。

「なんにもねーのな」

 呆れた溜息と供に瑛が呟いたのを見て

「ごめんな、暇つぶす物もなくて」

 眞幌は謝った。ここにはテレビもビデオもない。もちろん、ゲーム機やDVD機器、最近の若者ならあって当然という娯楽に使う物が何もなかった。

「何もなくてごめん、退屈だろう?」

 自炊はするものの、それでもやはり広すぎると感じるキッチンでこれも初めて買ったコーヒーメーカーでコーヒーを容れながら眞幌は言った。

「そんなことねーよ」

 瑛はソファーもないフローリングでどこに座ろうかと迷いながら答えた。そこへコーヒーを持って来た眞幌が、頬を染めながら言う。

「ごめん、座るところもなかったね」

 恥ずかしそうにそう言う眞幌に、

「あ、いや、いいんだ。床に座るから。 どっち側に座ろうかと迷っただけだからさ。 お前いつもどっち?」

「こっち」

 キッチンに近い方を指さして眞幌は答えた。

「そう、じゃこっちにする」

 なぜか瑛はその正面ではなく右隣の床に腰を下ろしてそう言った。

「ごめん。腰痛くなるよな」

 眞幌はいままで自分が余り気にしていなかったことを思った。

「大丈夫だって……でも、ソファーくらい買った方がいいかもな」

「そうだよね」

 眞幌は瑛を呼ぶ前に買うべきだったと、内心焦った。いままで欲しいと思わなかったし、客が来るような生活をしたことがなかったので、そう言う配慮が出来なかった自分を恥じた。うつむき加減になってしまった眞幌に、

「勘違いするなよ、俺の為じゃなくて。お前だってずっと床ってわけにはいかないし、冬は寒いだろうしって、そうでも……ないか」

 瑛は床暖房の設備で、一年中暖かい床を思い出して語尾が小さくなった。床に座ってた方が暖かいかも知れない。そんな瑛に、

「そうだよな……ソファーくらい普通だよな」

 眞幌も小さな声で呟いた。奇妙な沈黙が落ちる。眞幌は自分の育った境遇を思った。施設で育ったとはいえ、自分にはいつも差し入れがあったので贅沢はしなかったが、着るものやおやつなどに不自由したことはなかった。

 それでも共同生活には違いなかったから、部屋も狭い場所を共同だったし、余り高価なおもちゃや贅沢品は避けられた。他の子供と争いの元になるからだった。だから贅沢とはほど遠い場所で育ったことは否めない。学校も高校までは出たが最低限の支出で済ませたし、それ以降も質素な生活をしてきた。

「お前……友達とか居ないの?」

 伺うように瑛が尋ねた。

「とも……だち?」

「うん、ここに来るような」

「……いない……」

 眞幌は言葉に詰まった。子供の時から育った環境と人見知りの性格があって、友人など出来なかった。ただひとり、ずっと側にいてくれた友は死んだ。いまでも辛い。彼を思い出せば、泣くほど辛い。そして忘れることは出来ない。不意に翳りを帯びた眞幌の表情を見て瑛は言った。

「決めた!!」

「なに?!」

 びっくりした眞幌が見つめると

「ソファー買おうぜ。俺さぁ仕事ない日はここに来るから」

「えぇっ?」

「ここ静かだし、眞幌が飯作ってくれそうだし。だから俺用のソファーとか買っちゃう。場所はいっぱい空いてるから、いいよな」

「えっ……ぁ……いいけど」

 眞幌は瑛の言葉に押された形で頷いた。瑛は眞幌に気づかれないように息を吐き出してほっとした。なぜだかわからないが、出会ったときから眞幌の陰が気になって仕方がない。孤独というか、なぜそんなに淋しげなのか。

 ひとりにしておけないという、そんな思いだけが瑛の中に広がる。瑛は自分の心の中だけで溜息をついた。床に直に置いてあった眞幌が入れてくれたコーヒーに口を付けて、

「……ん?」

 思わずコーヒーを見つめた。

「冷めちゃったかな?美味しくない?」

 眞幌が気にして問い返す。

「冷めたって言うか……これいつもと同じ?」

 いままで何度か眞幌の容れてくれたコーヒーを飲んだことがある。だが少し違う気がした。

「同じだけど……ぁ?」

「なに?」

「コーヒーメーカー買ったんだ。今日のはそれだから」

 コーヒー自体はいつも買っている同じ物だった。高価な物ではない。コーヒーは好きだからスーパーではなく、買う店は決まっているのだが、ただの安いブレンドだ。

 だがいままではそれを、沸かし立てのお湯で丁寧にドリップしていた。以前喫茶店でアルバイトをしたことがあって、そこのマスターに教わったのだ。

 今日は初めて買ったコーヒーメーカーで容れた。コーヒーメーカーは瑛が来てくれたときに使おうと思って買ったおいたのだ。その方がコーヒーが美味しいのかと思ったのだが。違いと言えばそれだけだ。

「いつもの方がいい?」

 眞幌が覗き込むと、

「うん……いままでの方が美味しいかも……」

 瑛は考えるように言う。

「じゃ今度から、いままで通りに容れるよ」

 眞幌が微笑んだ。微笑わらった……眞幌が笑うとどうしてこんなに嬉しいのか、瑛にはわからない。だが瑛の中で眞幌はいつも淋しげな顔ばかり浮かぶ。そんなイメージが強いので、眞幌が笑うとひどく嬉しい。なぜそんな気持ちになるのか瑛にもわからなかった。

 その日を境に瑛は何かと用事を見つけては眞幌の部屋へやってきた。いや、用事がなくともやってきたという方が正しいかも知れない。一週間に五日以上はやってくる。よほど遅くない限りは夜遅くでも来るのだ。

 おかげで眞幌の携帯電話は、毎日メールか電話の着信で鳴るようになった。携帯電話は事務所から持つように言われて貰ったものだが、はじめのうちは仕事の打ち合わせのみに使われていたからほとんど鳴ることのない代物だった。それがこのところは着歴が瑛の名前で埋まっている。

 こんなことはもちろん眞幌にとって初めての経験だった。仕事の帰りにはもちろん帰るコールがあり、帰りに寄っていいかと打診がある。余り遅いときはメールで、『もう寝た?』と聞いてくる。眞幌が起きていれば瑛も顔を出し、コーヒーの一杯でも飲んでいく。

 それ以外はほとんど食事を一緒に食べた。おかげで最近の眞幌は必ず夕食は二人分作り、瑛の帰りを待って食べるようになった。瑛はきちんとしていて、仕事で遅くなるときは『先に食べてろ』と連絡をくれる。

 忙しい身で本当にマメな男だった。だが眞幌は知らない。瑛にとってもそんなことは生まれて初めてだと言うこと。いままではどんな女にだって、そんな気を使ってやったことはないのだ。眞幌にとって、夕食を作り瑛を待つことが日課になってしまった。

 そして―――――――あの日以来眞幌の部屋は一変した。まず最初に来たのは大きなソファーだった。アイボリーの、眞幌なら絶対に買わないだろうソファー。しかもすごく大きい。

 翌日届けられたそれを見て眞幌は溜息をついた。そのソファーを見たとたん眞幌の頭を掠めたのは『汚れる』の一言だった。いつでも大勢と共用することでしか物を使ったことのない眞幌は、白っぽい物など使ったことがなかった。汚れが目立たないことが大前提。そんな眞幌に仕事から帰った瑛は、

「なに言ってんだよ、部屋が暗くなるじゃないか。インテリアはモノクロで統一するのもいいけど、やっぱり白っぽい物が一番明るくていいよ」

 瑛はなんか勘違いしている。モノクロなどという言葉は眞幌の頭の中にはない。ソファーなど、施設の応接間か学校の校長室にあるあれしか思い浮かばないのだ。

「しかもなんでこんなでかいんだ………」

 呆れる眞幌に、

「だってこれくらい大きくないと、俺が横になれないじゃないか」

 確かにこの大きさなら標準よりもでかい瑛の身体がはみ出ないだろう。

「なにも寝なくたって……」

 眞幌の抗議に

「寝っころがってテレビとか見たいだろ?」

 そんなのは自分の家でやれと言いたいところだが、

「うちにはテレビがない」

 眞幌はやっとそれだけ言って抗議した。

「そうだったな……」

 瑛が素直にそう言ったので眞幌はそれ以上言わなかったのだが。そうしたら翌日は眞幌が見たこともないような大きな液晶テレビとDVDプレイヤー。その翌日にはどこに繋げるのか眞幌にはわからないアンプが届いた。それを夜中に帰った瑛は、テレビと繋げて見せた。

「こうやって映画とか見るんだよ。すげー迫力でいい音なんだ。俺のライブ映像見てもいいぜ」

(あ、そう………)

 心の中で盛大に溜息をついて眞幌はもう反論もしなかった。その翌日には大量のDVDビデオ。確かにその中には瑛のライブもあった。

 その翌週には立派なダイニングテーブル。そして大型冷蔵庫に電子オーブンレンジetc。眞幌がもう辞めてくれと、キレかかる寸前までそれは続いた。

 だが、今日こそ怒ってやろうと思った矢先に、ぴたっと瑛は来なくなった。いつものように二人分の夕食を作って待っていた眞幌はぼんやりと待っていた。けれどいつまで経っても瑛は帰ってこない。メールも来なかった。

 なぜかひとりで食べる食欲も失せて、所在なさげにしていた。このところ盛大な荷物とともに瑛の来ない日がなかったのだ。半月前とは打って変わって、部屋はにぎやかになった気がする。けれど今夜はそれが薄ら寒い気がするのは、瑛がいないからだ。

 瑛ひとりがいるだけで、まるで大勢でにぎやかになった気がするくらいだった。ずっと静かだった自分の日常が華やかになった。眞幌は部屋をぐるっと見渡して溜息をつく。最近、溜息が多くなった。瑛の所行に溜息の連続だったのだ。

 けれど今夜のそれはいつもと違う気がする。日付が変わろうとする時間、不意に携帯が鳴った。眞幌の携帯に瑛は勝手に自分の曲をダウンロードして、自分の着信の着メロにしていた。図々しい奴、と思いながら眞幌は瑛を憎めない。

「もしもし……」

 電話に出ると、心なしか疲れたような瑛の声が聞こえてきた。

「オレ……まだ寝てなかった?」

「まだだよ」

「悪ぃ……連絡入れないで……ちょっと掴まっちゃってさ。今夜帰れそうにないや」

「気にしないで、そんなこと。それより仕事か?」

「急にさ……この忙しいのに映画の仕事入っちゃってさ……まったく予定してなかったのに、いやになるよ。その打ち合わせに引っぱり出された」

「仕方ないじゃないか。けど、大丈夫か?忙しいのに」

「そうなんだよ……時間なんかありゃしないのに。代役頼まれて断れなくて……」

「大変だな……その……身体、気を付けろよ」

「あぁ……あのさ……」

「なに?」

「ひょっとしたらしばらくそっちへ帰れないかも知れない。ごめんな。時間に余裕ないからホテル暮らしになるかも。ロケとかもあるしさ……」

「うん、わかった……」

「大丈夫か?」

「こっちのことは気にしなくていい。子供じゃないんだから。それより仕事がんばれよ」

「あぁ」

 いつになく元気のない声が気がかりだったが、夜も遅い時間だし瑛も忙しそうなのでそれ以上なにも言わずに眞幌は電話を切った。ぱたん、と二つ折りの携帯を閉じたとたん部屋の静けさに気づく。その静寂が急に耐えられないものに感じられた。

 ずっとひとりで生きてきた。施設で大勢の子供の中で過ごしてきたが、眞幌は孤独でいつも独りだった。なによりも捨て子同然で、赤ん坊の頃から肉親と暮らしたことがない。

 母親の所在もはっきりしているのに、一度も顔を合わせたことがないのだ。母親は徹底していた。事情があって眞幌を預けた母親は、金銭的に不自由しないだけの寄付を毎年施設に送り、眞幌を預けっぱなしだったのだ。

 他の子供とは事情が違う。小学校も高学年になれば、自然とわかっていた。そんな特異な境遇が優遇されていたのは、母親が有名人だったからだ。もちろん、そんなことは園長しか知らない。

 眞幌は中学生になったときに、母親の名前を教えられた。なんの感慨もなかった。複雑な事情はとっくに察していたし、かといって母親の名前を聞いたからと言って会いたいともありがたいとも思わなかった。さりとて憎んだ訳でもない。

 『関係ない』それが一番の感情だった。生まれたときから他人なのだ。いや、他人より遠い関係だった。いままでも金銭以外で繋がったことはない。これからも当然そうだろう。

 偶然にも、運が良かったのか思いがけずに身に余る収入を得られることになったいまではなおさら、これから先母親と関わり合うことはないだろう。それがなぜかほっとして、そして久しぶりに、越してきたこの部屋ががらんとして広すぎることに気が付いた。

「崇埜……」

 その静けさの中、久しぶりに親友の名を呼んだ。けれどいまとなっては懐かしいその名前は、罪の重さにも等しい。

「なんで……」

 いまはもう答えることのない友に向かって、何度目かわからない疑問の言葉を呟いた。

静かな部屋で、答えを返す人間はいなかった。



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