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 5話

 眞幌の日常は特別変わったことはない。アルバイトに行き、歌をうたう。ずっと変わらない毎日だった。そう、あの男が現れるまでは。

 変な男だった。眞幌は他人には興味も注意も払わない。本当に興味がないのだ。そんな眞幌の日常にあの男は割り込んできた。

 あれほどはっきりと、眞幌には珍しく拒絶の意を示したのにわからなかったらしい。

変な男だとは思ったが、だからどうとは思わなかった。しつこく眞幌の周りをうろついていたが、眞幌に迷惑を掛けるわけではないので放っておいた。

 酷く目立つ男なのに、仕事はどうしているのか。忙しそうに見えて芸能人というのは案外暇なのか。眞幌が思ったのはその程度である。今日も後を付いてきてアパートの下にいるらしい。まだ瑛がそこにいることを不思議と眞幌は感じていた。

 簡単に夕食を済ませて耳を澄ますと、どうやら雨が降ってきたらしい。ふと、外に佇む男のことを思い浮かべた。まだ立っているのだろうか。この雨の中を?珍しく好奇心に動かされて眞幌は玄関の扉を開いた。

 アパートの前庭は空き地で薄暗い電灯がひとつある。その向こうには男が乗ってくる車が見えた。そしてその車の主は、まだそこにいた。長身のその姿が、濡れて光っているのが街灯の明かりで見えた。なぜかそのまま動けなくなり、眞幌はじっと男を見つめた。男も眞幌を見上げたままじっと動かなかった。

 どれくらいの時間が経ったのだろうか。遠目にも男が眞幌を見つめているのは分かる。部屋の外へ出ることも、ドアを閉めて部屋に戻ることも、どちらも出来ずにいた眞幌が一歩を踏み出した。外廊下のさびた鉄柵に身を乗り出すようにして眞幌は呟いた。

「来いよ」

 土砂降りというわけではなかったが、雨は静かな夜の、他の音を消すくらいには降っている。眞幌の声が届くはずはないのに、男の影が動いた。暗闇の中、その姿は雨で濡れて光って見えた。眞幌は二階の手摺りから食い入るように、近づいて来るその影を見つめていた。

 影は近づくにつれ大きくなり、はっきりとした男の形を作る。男がモデル上がりだというのは眞幌も、もう知っていた。華奢な眞幌と違い、長身で均整の取れた体躯。日本人にしては少し彫りが深いのかもしれない、男らしい顔立ち。長めの髪はいまは濡れて張り付いてしまっている。

 それすらも彼のファンが見たなら歓声を上げるのだろう。華やかな世界にいる男。自分とは違う。世界が違うはずなのに、なぜ彼はここにいるのだろう。薄暗い路地に立って。

 彼の住まいを知るわけではないが、それなりに居心地の良い部屋に住んでいるはずだった。こんな木造のアパートに毎日のように通い詰めて、いったい彼はなにを望んでいるというのか。眞幌には理解できないことばかりだった。いったい自分のなにが彼をそうさせるのか。

 誰とも関わりたくない眞幌を、男は引きずり出そうとしている。眞幌の守ってきた世界に土足で入り、根こそぎ変えようとしている予感はすでに現実になりつつあった。すでに無視できないことを眞幌は気づいている。心のどこかが警鐘を鳴らしていた。まだ抵抗をするべきだと告げる声と、覚悟を決めるべきだと諭す声。

 せめぎ合う相反する声の結果が、いまの眞幌の行動だとするなら答えはすでに出ているのかもしれない。

 男が……瑛が目の前に佇んでいた。ずぶ濡れで、そんな姿になっても圧倒的なオーラを纏っている。眞幌がその姿に軽い目眩を覚えたとき、瑛の腕が眞幌を抱きしめていた。瑛の纏っているスパイシーな香りと雨の匂いが交差して、眞幌は瑛の腕の中でもう一度目眩を覚えた。


「これで拭けよ」

 出してきたバスタオルを瑛に向かって投げた。髪からも滴が垂れるほど瑛は全身濡れていた。

「まったくなに考えてんだよ」

 呆れ声で眞幌は呟くと、狭いキッチンでやかんに湯をかけた。すぐに狭い部屋にはコーヒーの香りが漂った。眞幌の部屋に誰かが尋ねてくることなどない。自分がいつも使っているマグカップと、瑛の分を注ぐカップをしばらく見つめた。

(これしかないんだから、仕方ない)

 眞幌は言い訳のようにそう心の中で呟くと自分とデザイン違いの、唯一この部屋にある別のカップにもコーヒーを注ぐ。瑛はバスタオルで拭いても間に合わないほど濡れてしまっていた。

「呆れてものが言えない」

 怒ったように眞幌は呟いた。じっさい、かなり腹を立てていたのだが。瑛はなにも言わず、じっと座っていた。そんな瑛に眞幌は苛々してきた。

「ったく……何とか言えよ!」

 すると、瑛が眞幌の顔をじっと見て言った。

「くち……きいてくれた……」

 どこかほっとしたような表情だった。寒さでなのか、少し声が震えている

「ぁ……?」

 眞幌はいつかと立場が逆転していることに気づいた。そもそもなんでこの男を部屋に入れているのか。これではあのとき、気まずい思いをしてまで追い払った意味がない。眞幌は頭を抱えたくなった。

 これではこの男の思う壺ではないか。焦った眞幌に、それまでじっとしていた瑛がいきなり土下座を始めた。

「すまないっ!」

 唖然とする眞幌に向かって、

「歌う邪魔をするつもりはなかったんだ。いまさら手遅れだと分かっているけど、おれは君の歌が好きなんだ。本当にそれだけなんだよっ」

 頭を下げたまま、顔も上げずに瑛は叫ぶように言う。呆気にとられて固まっていた眞幌は、しばらくしてクスッと笑った。瑛が驚いたように顔を上げる。

「オマエからキミになったよ、呼び方が……」

 そう言っておかしそうに笑う。

「……っ……」

 動転したように瑛の顔がわずかに赤くなるのを、面白そうに眞幌は見ていた。それだけ瑛は本気なのだろう。あれだけ人気のある歌手の瑛が、自分みたいな素人になぜそんなに入れ込むのか分からないが、瑛が本気だと言うことだけは分かった。

『眞幌……眞幌の歌が好きだよ……』

 ずっとそう言ってくれていた友の顔が目に浮かぶ。眞幌はそれを振り払うように何度か首を振って、

「それで? どうしたいのさ。俺にどうしろと?」

 眞幌の言葉に瑛が驚いたように固まった。

「なんだよ、ストーカーみたいに俺を追い回していたくせに」

 瑛が眞幌の前に現れてから一ヶ月以上の時が経っていた。まったく常人よりも忙しい瑛のどこにそんな暇があったのかと、眞幌は呆れていた。話くらいは聞いても良かろうと、いまはそういう気分になっている。

 一時間前までは思いもしなかった展開だった。それは瑛にとってはなおさらだった。どうやら話の展開についていけないらしい瑛に、

「謝るつもりはないけどさ。 でも……このあいだはやっぱり俺も悪かったかな……て」

 謝らないといいながら、結果として眞幌も詫びていた。

「ありがとう」

 瑛は心からほっとしていた。この一ヶ月、正直言って自分がなにをしたくて眞幌に付きまとっていたのか分からなかった。

 でもいま思う。やはり謝りたかったのだ。眞幌の仕打ちを理不尽だと腹も立てたが、眞幌が歌えなくなったと知ったときは本当に辛かった。どうやって償えばいいのかと瑛自身思い詰めていたのだ。その方法がわからなかったのだ。これで少し気持ちが軽くなった。

「でさ……」

 事が好転するとタイミングを逃がさないのも瑛だった。この辺が芸能界で瑛が成功している理由でもある。とにかく物怖じしない。そして前向きなのだ。

 むしろこのところ、眞幌のことで落ち込んでいた瑛の方が普通ではなかった。何事かと、じっとこちらを見つめる眞幌を瑛はやはり綺麗だと思った。造作が美しいと言うよりも眞幌の纏っている空気がとても澄んでいて、清涼なのだ。

 『天使』と密かに名付けただけはある。清廉とか高潔とかいう単語を連想させる。本人はもちろん分からないのかもしれない。ノーアイロンの綿の白いシャツにジーンズというありふれた格好で特に目立つと言うわけでもないはずなのに。

 瑛はどんなに大勢の中でも眞幌を見つけだす自信があった。どこにいても眞幌なら瑛には輝いて見えるはずだった。瑛がそんな風にある意味、眞幌に見とれていると、

「なに?」と、眞幌が少し首を傾ける。その仕草に

(やばい!)と瑛は思った。

 なにがやばいのか分からない。そのときの瑛はまだ、その気持ちがなんであるかなど考えようともしなかったし、それの名前も知らなかった。瑛の動揺に気づかない眞幌はじっと次の言葉を待っていた。

「あのさ、だから……前の話、だめ……かな?」

 懲りもせずにいつかの話を蒸し返す。普通ならこの一ヶ月のことを思い返して、今日くらいは黙っているだろうに。眞幌は怒るより感心してしまった。なんてタフな男なんだろう。たぶん自分とは全然違う人間だ。それが少し羨ましかった。



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