3話
皆口眞幌を間近で見るのは初めてだった。遠くで見たときは小柄で少女のようだと思ったが、近くで会えば当たり前だがやはりそれは若い男だった。瑛が並はずれて背が高いために身長差があったが、眞幌も百七十センチくらいはあるのではないだろうか。
髪は全体に長いわけではないが、前髪が長く瞳を半分くらい隠していた。彼の印象がいつも俯いているように見えていたのはそのせいもあるのかも知れない。
そしてたぶん彼を子供っぽく見せているのは服装かも知れないと思う。まるで学生が着るような焦げ茶のダッフルコートを着ている。前髪の間から見えている瞳は漆黒で、髪の色も同じで神秘的な感じがした。むしろ最近では、眞幌のような若い年令でこれほど艶やかな黒髪は逆に目立つかも知れない。
外階段を上がって二階の自分の部屋に向かって歩いてきた眞幌は、そこにガタイの大きな瑛を見つけて足を止めた。見ようによっては怯えて動けなくなったようにも見える。言葉を発しずにじっと瑛を見つめた。
それは物言いたげ、というよりもなぜだか理解できないと言うように見えた。瑛は『お帰り』のあとに続けて言葉を継ごうとしたのだが、それより早く眞幌の方が瑛の横をすり抜けて自分の部屋のドアを開けた。なんと鍵はかかっていなかったらしい。
眞幌は瑛に挨拶を返すでもなく、用件を聞くでもなく、何事もなかったように黙ったまま部屋に入ろうとした。
「ちょっとまった!」
瑛が気付いて声をかけたときはすでにそのドアが閉じられる寸前だった。慌ててドアを掴み、勢いよく自分の方へ引いて開けると、中でまだドアノブを掴んでいた眞幌がよろけた。
「あ、ごめん」
瑛が謝って眞幌の腕を掴んで支えようとするのと、眞幌が慌てたように腕を引っ込めるのが同時だった。一瞬眞幌の腕を掴んだ瑛の手は、同時に眞幌に払われるようなタイミングになった。眞幌がはっとしたように瑛を見上げた。
たぶん眞幌がまともに瑛を見つめたのはこのときが初めてだったに違いない。その真幌を瑛もまともに見つめる形になって、瑛は焦った。信じられなかった。どんなに可愛い女の子と出会っても慌てたことはない瑛だったから。
「あ、あのさ、なんで……」
「離して……」
「ん?」
「離してくれないかな」
淡々と抑揚のない声で言われて、気づけば瑛は真幌の腕をつかんでいることに気づいた。払われた反動で、逃げられたくなくてまた掴んだらしい。
「ご、ごめん。逃げられたくなくて」
真幌は瑛が掴んだ自分の腕をじっと見ていた。
「ここ俺のうちだし……なんで逃げんの」
自分の部屋を見回し疑問を投げかける真幌に瑛は一言もない。
「そうなんだ……けどね」
瑛は自分でも分からなかった。
「それで……なに?」
真幌の言葉はすごく端的だった。余計なことは一切言わない。瑛は少々焦った。
もともと、人見知りする方ではないし、人には好かれる方だった。モデル時代はやっかみもあって、敵視されることもあったが、芸能界に入ってからはむしろ瑛の人懐っこさは誰からも好かれた。
やることには結果を出すし、生意気だが礼儀や義理は果たすので先輩からも後輩からも好かれた。もちろん女には『超』が付くほどもてた。こんなにそっけなく、興味なさそうな迷惑顔で見られたのは初めてだった。
世辞など言わなくていいし、余計な言葉などなくていいが、もう少し受け入れてくれてもいいではないか。これから一緒に仕事をしたいと思っている瑛には拒絶するような真幌の態度は理解できなかった。
「べつにさ、怒りに来たとか、そういうのじゃないんだ。たださ……あの、なんで」
瑛が口篭もるようなことなどないに等しい。ところが真幌の態度の前に自分が何しに来たのか明確に言う言葉を無くした。ここに来てやっと瑛は理解した。
真幌は瑛が事務所を通じて申し出たことに興味を示してないのではないか。
いやまて、もしかしたら事務所の人間の言うことがちゃんと伝わっていないのかもしれない。やはり自分がはじめからきちんと話せばよかった。瑛の頭の中はフル回転して結果を出した。
なにしろ、やっかみの対象になることはあっても、自分自身を否定されたことは今までなかった。自分の言うことに耳を傾けてもらえなかったことなどない瑛だった。ここはやはり、自分が一から説明しないといけないのだと瑛は決意した。
瑛がまず自己紹介からしようと、姿勢を正した時。狭い玄関でそれまで立ち尽くしていた真幌は瑛を残してすっと部屋へ入ってしまった。
(は?)
さすがの瑛も一瞬理解できない現状だったが瞬間、我に返ると今度は怒りが爆発した。真幌は瑛に部屋に上がることも勧めずに、まるで誰も居ないように部屋の中に座り込んだのだ。
狭い部屋だから玄関に居る瑛にも真幌のやることが見える。真幌は瑛に半ば背を向けたまま、なにかを始めた。かっとなった瑛は真幌には無断で靴を脱ぎ部屋へ上がった。新しくはない、六畳一間の部屋だった。余計な荷物はない、ごく普通の部屋にみえた。やはり几帳面な大学生の部屋だと思えばこんなものだろうか。
「おじゃまします!」
勝手に上がり込んでからそれでも一応嫌みを言うように真幌に告げて、瑛は真幌の向かいにわざと座り込んだ。二人とも畳の上に直に座り込み、瑛は今度こそ真幌が無視出来ないように至近距離に座った。しかも合い向かいである。膝もくっつきそうなほどであった。
「あのさぁ、人の話くらい聞けよ。俺ずっと待ってたんだぜ」
「俺が頼んだわけじゃない」
ぼそっと真幌に呟かれた。確かにそうなのだが、瑛はキレた。
「そうだけど!! そうだけどなっ! こういう扱いはねーんじゃないの?」
怒り出した瑛の目の前に、真幌はすっと紙の束を差し出した。
「なんだか知らないけど、これが欲しいんでしょ。持ってっていいよ。 あげるから帰ってくれないかな」
相変わらず真幌は瑛と目線を合わせようとしなかった。
「なんだよ、これ」
内心の怒りをぎりぎり押さえて瑛が尋ねると、
「楽譜」
真幌の答えに目線を落とすと、確かにそれは楽譜らしきものであった。真幌に視線を戻すと、
「それが欲しいんだろう? あげるよ」
真幌が俯いたまま告げた。その言葉にかっとなった瑛は真幌につかみ掛かろうとする自分をかろうじて押さえた。
「おまえなぁ……人の話もろくに聞かないで、そりゃぁ勝手に待ってたのは俺かもしれない。いきなり部屋の前で待ったりして悪かったよ。けどなぁ、待ってた俺に用件も言わせないで、いきなりそれはないんじゃないの? 俺も非常識かもしれないけど、お前も人としての礼儀はないのかよ」
怒りに任せて言うだけ言うと瑛は立ち上がった。
「お前の歌に惚れたのに……すげー優しい歌だって思ったのに。お前がこんな奴だと思わなかった。 そんなもんいらねーよ」
言い捨てると瑛は真幌を見もせずに部屋を後にした。
その夜、自宅のベッドで仰向けになり足を組んだまま瑛はじっと天井を睨み付けていた。初めて聞いた時から優しい歌と優しい歌声に、歌っている真幌も綺麗な心の持ち主で、絶対に優しい人間だと思い込んでいた。
優しげな顔立ちや華奢な姿もそういう雰囲気を纏っていたし、初めて会った人間にあんな態度を取るとは思いもかけていなかった。
(確かに俺も悪かったけどよ)
初対面の人間を待ち伏せするような真似をして誉められるとは思っていない。真幌が女の子だったら絶対にそんな真似はしなかったが、男同士、会ってストレートに話せば仲良くなれると自信があった。
いままで瑛は友達になりたかったらすぐその場のノリで仲良くなれた。少々人見知りする相手でも、瑛がどんどん話し掛けて自分のペースに引き込めば自然と笑いあえる仲になっていた。こんな形で拒絶されたのは初めてである。しかも……
(俺は仕事の話で行ったんだぞ)
女の子にナンパを断られたのとはわけが違う。これは遊びではない。瑛は瑛なりに真剣に真幌の歌に惚れたのだ。自分と一緒に仕事をして欲しかったのだ。
まだ彼のことを何も知りはしないが、いろいろ教えて欲しかった。真幌のことも歌のことも。そこまで考えてはた、と瑛は気づいた。
真幌のことは名前と住所と電話番号、生年月日……数えるほどしか知らないことを。事務所の言わば履歴書みたいな書類から見たことしか知らない。それを見て年齢が自分と同じことに驚いたのだが。
まさか高校生に見える真幌が自分と同じ 二十二歳の立派な大人であることに驚きはしたが、それだけだった。
そう、それだけだった。真幌が何を考え、なにが好きで嫌いなのかも知らない。やはりあぁいう待ち伏せみたいなことをして、かなり不愉快だったのかもしれない。よく考えたら自分が一方的に話しただけで、相手の言い分も言い訳も聞いていないことに気づいた。
(まいったなぁ~)
少し先走りすぎたかもしれない。瑛は自分の欠点を認めるのも早い男だった。だがそこでも早合点する瑛は、相手の言い分もなにも、真幌は瑛と話をする気さえなかったことに気づいてはいなかった。
頭はいいのだが、瑛はどうもその点の読みが浅い男だった。やっぱりこれは謝った方がいいのかな、などとお人好しなことを考えていて、すでに謝りに行く計画を立てていた。
それこそ真幌の迷惑になるなどとは思えない、ここでも勝手に先走る瑛だった。