10話
久しぶりに帰ってきた瑛に食事を出しながら眞幌は心が温かくなるのを感じた。ひとりでも平気だけれど、瑛がいると楽しいのだと認めざるを得ない。あれほど迷惑だった瑛が、いまでは眞幌の生活の一部に入り込んでいる。
「あーー生き延びた」
食事を終えた瑛が延びをする。その姿は大型犬が満足げに身体を伸ばしている姿に似ていて眞幌は可笑しくなる。
「大変だったね。でもまだ当分続くんだろう?」
「まったく……それでなくたってアルバムのプロモーションで忙しいのに」
「急だった?代役だっけ?」
「そう、他の俳優に決まってたんだけど、急に降りちゃってさ。あの監督には前にお世話になっててさ、相手役も俺を気に入ってるからどうにかしてくれって泣きつかれちゃって。いったんは断ったんだよ、無理だって。なのにどうしてもって、何回も言ってくるし。社長や梶もここで恩を売っておけば後で……とか言うし、仕舞いにはアルバムのプローモーションも兼ねてちょうどいいなんて言い始めて……冗談じゃないぜ、まったく」
瑛の愚痴は止まらない。
「おかげで眞幌の作る飯が食えないじゃないか~~」
眞幌はくすくす笑った。まるで子供だ。だがそのうち、
「なぁ、今度弁当作って撮影所に届けてくれない?」
とんでもないことまで言い出す瑛に、
「いい加減にしろよ、調子に乗るんじゃない!」
眞幌は一喝した。
「まったくどこまで増長するんだか」
真幌が溜め息を吐くと、
「それくらいいいじゃないか~~俺、寝る間もないほどがんばってるのにさ」
瑛はがっかりしたようにぼやいた。真幌も瑛が少々可哀相になる。
「だけど、電話しろとか弁当作れとか、なにか勘違いしてないか。 俺はお前の彼女じゃないんだぞ!」
「わーかってるよっ! いいじゃないか、ちょっとくらい甘えても」
「ダーメ!」
真幌は心の中で笑いながらも、その辺はきっちり瑛に釘をさした。
「その代わり、ここへ帰った時はいくらでも飯食わしてやるから」
「ほんと?」
「あぁ」
その一言で、瑛の機嫌は直ったようだった。その晩、瑛はソファーでテレビを見たまま眠ってしまった。起こそうかと思った真幌は、瑛の寝顔があまりに疲れて陰っているのを見て、起こす手を止めてしまった。
そう言えば、少し痩せてしまっただろうか?元々筋肉質で、一見したよりもがっちりしていそうな瑛は、少々痩せたからといって見栄えが落ちるものではないが、今の生活がハードだと語っているようで、真幌は心が痛んだ。
長めだった髪が更に伸びて、前髪は顔の半分を隠すくらいに伸びてしまっている。額に張り付いたそれをそっと指で掻き揚げてやったが、疲れた瑛は気づきもしなかった。仕方なく真幌は寝室から新しい毛布を持ってきて瑛に掛けてやった。こんな時もあるかもしれないと、ソファーが届いてから買った毛布は、今まで真幌が使ったことがないほど、上質で厚手の毛布だった。
真幌はこれを瑛の為だけに買った、けれどその意味を深く考えたことはない。そこまで自分のテリトリーに入れても構わないのだと、気を許してること。まだその意味に気づいていなかった。
瑛は朝まだ早い時間に撮影所に来ていた。今朝目覚めたら真幌の部屋のソファーの上だった。毛布が掛けてあって、様子を伺ったら真幌は寝室で眠っていた。まだ夜が明けきらない時間だったので、畳んだ毛布の上に『ありがとう』とメモを置いて真幌を起こさないようにそっと部屋を出た。
自分の部屋に戻り、慌ててシャワーを浴びここへ来た。眞幌の部屋で目覚めたことにもびっくりしたが、なにもないはずの眞幌の部屋で、きちんと自分に毛布が掛けられていたことにも驚いた。そのことに嬉しさを感じたが、仕事の時間が迫っていたのでこっそりと抜け出てきた。
瑛はどんなにハードスケジュールでも仕事に穴を開けたことはない。言いたいことを言うが、それは自分の努めをしっかり果たした後で、と言うのが瑛のポリシーだ。
昨日もうたた寝したにもかかわらず、仕事に間に合うように朝はきちんと目が覚めた。これはもう習性のようなもので、社長の桜井や梶が瑛を信頼してくれる理由のひとつだ。余裕を持って撮影所に入った瑛は、梶が持ってきてくれたコーヒーを片手に台本をチェックした。
今晩も眞幌の顔を見て、眞幌の作った手料理を食べたい。そのためには順調にこの撮影を終わらせなければならない。瑛の状態だけで順調に終わるかはわからないが、せめて自分の努めは最低限果たして待ちたい。そのとき、時間の早い現場が騒がしくなった。この映画の主役の女優が到着したのだ。
「おはよう」
「おはようございます」
かなり先輩格になるこの女優に瑛は立ち上がって礼儀正しく挨拶を返した。そう言うところはきっちりしている。瑛が現場でかわいがられる所以だ。
高祭有紗はこの映画の主演女優で、相手役に決まっていた男優が事情があって降りてしまったときに、瑛を指名してきた。有紗とは以前競演したことがあり、そのときから瑛は気に入られていた。
彼女はすでに芸歴が長い。二十年余りあるそれを考えれば、年齢もそれなりのはずなのに年齢不詳の彼女はまだ少女のような表情も見せるときがある。男遍歴も相当な物だと言われているし、噂も絶えない。
けれど、その演技力はなかなかのものでどの現場でも評判はいい。ご機嫌を取るのにどのスタッフもそれなりに苦労はあるようだが、それなりの結果を出すし、無理難題を言うわけではないので、彼女は好かれている方だと思う。
「瑛はいつも早いのね」
主演女優にしては、やはり早い入りの彼女に言われて、
「まさか、有紗さんより後に入るわけにいかないでしょ」
瑛もそれ相応に言い返す。
「あら、相変わらずそう言う点は優等生ね。他の子もあなたくらい礼儀があるといいんだけど」
彼女が皮肉げに視線をやったのは、彼女よりはるかに遅れてきた新人女優だ。まだ十代の彼女は礼儀も常識も足りない。
「もっと回りの人間が気を使うべきですね」
瑛は暗にマネージャー達のしつけが悪い、と発言した。
「あなたの所は梶さんもしっかりしているし、さすが桜井さんの所の人だわ」
彼女は満足そうに呟いた。その手には彼女の到着を待って、梶が差し出したコーヒーが握られている。梶はこう言うところもそつがない。
「誉めていただいて……」
瑛は大人びた表情で有紗に礼を言った。眞幌が見たら驚くかも知れない。現場での瑛はかなり落ち着いたものだ。眞幌に見せている子供っぽい表情など見せることもない。
どの現場でも瑛は年齢よりも落ち着きがあり、大人びていると思われているし、大人達からも一目置かれている。スタッフや共演者からの信頼も厚かった。そこには軽薄な雰囲気など微塵もなかった。
その日の撮影は、有紗の眉をさらに顰めさせる結果になった。新人女優がNGを繰り返し、そのうえ小道具係の人間が用意の手順を間違えてしまって撮影が夜中まで延びてしまったのだ。さすがに撮影中は顔に出さなかったが、有紗が不愉快になっているのは誰の目にも明らかだった。やっと撮影が終わった夜半、
「ご苦労さま」
「お疲れさまです」
俳優陣も、スタッフもお互いにそう言いながらやっと長い一日が終わった。朝六時の撮影開始から二十五時=翌日午前一時終了。なんと十九時間の撮影はやっと終わった。スタッフにとっては有紗や瑛が文句も言わずに撮影してくれたことだけが救いだった。けれどその有紗が瑛を呼び止めた。
「瑛、食事に行きましょ」
こんな夜中にやっている店は、業界の人間が行くような特定の店だ。瑛は戸惑った。早く帰りたかった瑛だが、すでに十時過ぎに当日中に帰ることを諦め、眞幌にメールを入れていた。
明日からロケにいく。長引けばプロモーションと合わせて、一週間ほど帰れないかも知れない。出来れば今日はどうしても眞幌の顔くらい見ておきたかったのだが。だがいまから帰っても、すでに眞幌を訪ねるような時間ではない。
「瑛、早く行きましょ」
なにも知らない彼女は瑛をせかす。瑛は帰ることを諦めた。有紗が執拗に誘うと言うことは、何か話たいことでもあるのだろう。瑛は有紗の後に従った。
食事、と言いながら有紗が誘ったのは会員制のバーだった。酒のついでに瑛の食事も頼んでくれたのは、『食事』を口実に誘った有紗の配慮だろう。
「有紗さん、お疲れさまでした」
食前酒も兼ねてまずは瑛もアルコールを手に取ると、
「あなたもね、疲れたでしょう」
有紗は瑛を労ってくれた。
「余計な時間だったわね、今日こそもう少し早く終わると思ったわ」
「本当に。明日から地方ロケだって言うのに。正直今日くらい早く帰れるかと思いましたよ」
「あら、もしかして誰か待ってるの? 最近あなたの悪い噂を聞かないと思ったのに、いい人でも出来たのかしら?」
有紗にからかわれて、瑛は少し焦った。
「そんな相手居ませんよ。 俺は特定の恋人は持たない主義です」
「まだそんなこと言ってるの?」
「面倒なんですよ」
「まぁ、その気持ちは分かるけど」
「そうですよ、有紗さんだってずっとひとりじゃないですか」
「あら失礼ね、ずっと恋人が居なかったわけじゃないわよ」
「そうなんですか?」
瑛はジョークでそう言った。年上の人間に少々失礼な言葉で突っ込んでも、憎まれないだけのキャラを備えている瑛だった。
「あの子、どうにかならないかしらね」
新人女優のことを言っているらしい。
「まぁ、新人ですからね。これからなんでしょうけど」
「でもあれはないでしょ」
今日の連続ミスのことを言っているらしい。確かにあれは酷かった。
「そうですよね、明日からはもう少しまともだといいけど」
瑛も彼女のせいで、眞幌に会う時間が減ったと思うと微かに苛立った。それは有紗も同じらしい。考えてみれば、キャリアは有紗の方がずっと上だが、若い瑛がこれだけ疲れるのだから、このスケジュールの中、いくら若く見えても年齢的には若くない有紗にかなりな負担がいっているのは否めない。
「有紗さん、身体大丈夫ですか? 寝不足でしょ」
瑛が心配して言うと、
「身体だけは頑丈だから。でも正直若くないんだと思うわ。最近はこう詰まってくると体調維持に気を使うわよ」
「気を付けて下さいね」
「ありがとう」
瑛のそつのない対応に気をよくしたのか、有紗は機嫌がよくなった。
「もう、三年になるかしらね」
突然彼女が言い出した。
「そうですね」
瑛が返事をする。有紗とは俳優としての初仕事の時に出会った。右も左もわからない瑛にあれこれと教えてくれたのは有紗だ。台詞も大してない瑛に、主役の有紗がどうしてそんなに親切にしてくれたのかわからないが、おかげで瑛は大物女優の有紗のお気に入りとして、現場でも大事にされた。
物怖じしない瑛だったが、このときの有紗の言動は励みになり心強く支えにもなった。いまでも瑛は有紗に感謝している。だから今回も断れなかったのだ。
「有紗さんにはお世話になっていますから、今回もオレ断れなかったんだよなぁ」
瑛がおどけて言うと、
「なに言ってるのよ、角田監督に義理があったんでしょ?」
「お二人に、です」
瑛は答えた。三年前に瑛を使ってくれたのが、今回と同じ角田監督だったのだ。名もない新人の瑛を抜擢してくれて、瑛はそのデビュー作で世間の評判を得て、真っ直ぐにいまの地位を得てきた。台詞も少なかったが、存在感のある役だった。いわば瑛にチャンスを与えてくれた人だ。
「私も角田監督は信頼してるのよ。だから今回のことがあって、代役には瑛の名前が二人の間ですぐに挙がったの。あなたは忙しいみたいだったけど、私はもう一度あなたと競演したかったわ」
「嬉しいですね、光栄です」
「まったく口の上手い子ね。最初は断ったくせに」
「出たかったですよ。でも新作のプロモーションと重なって、スケジュール的に無理かな……と。無責任に引き受けられないじゃないですか」
「そうね。そこがあなたのいいところだわ。普通なら飛びつく話を断ってくるなんて。そう言う真面目さも好きよ」
「ありがとうございます」
「久しぶりに付き合って欲しいわ」
有紗の言葉に瑛はふっと視線を逸らした。有紗とは初めて出会った三年前から、何度か関係があった。ここ一年近くはお互いのスケジュールの関係もあって、途絶えていたが瑛は有紗のお気に入りで、瑛も有紗が嫌いではない。
有紗は芸歴から言ったらその年齢も想像は付くが、とてもそんな年齢には見えない。
三十そこそこがいい所だろう。色白で顔が小さく、身長はスラッとしていてモデルでも充分通じる体型だ。栗色で長かった髪は、今回の役のために少し切ったらしい。
年下の男と愛の逃避行をする役で、その相手役が瑛というわけだ。少し、サスペンス仕立てのストーリーで近々制作発表をするが、前評判はいまから高い。瑛にとって有紗は恋人ではなく、あくまでも一時的な相手だ。もちろん有紗にとってもそうだろう。
その間にはお互いに愛情などはない。だがどこか似ている部分があるのか、同志的な親愛の情がはじめからあった。相性がいいのかも知れない。それは会話でもセックスでも同じだった。
「それとも、だれかいい人でもいるの?」
有紗はまた同じ会話を繰り返す。
「だからそんな相手は居ませんて……」
そう答える瑛の脳裏になぜか眞幌の顔がよぎったのを、瑛自身不思議に思った。眞幌を思い出せば、心は暖かくなる。だが眞幌は男だ。瑛の中には自分の恋愛対象に『男』は含まれない。瑛は頭の中の眞幌を追い払った。
「じゃ、いいわよね」
いつもと同じように有紗は自分が先に、席を立った。




