ドアマット?いいえ、ドアマッチョヒロインです。
昔々、あるところに、マスルーという娘がいました。
マスルーは父を亡くしたあと、義母と二人の義姉に引き取られました。
けれど、それは家族として迎えられたというより、屋敷の便利な家事要員として扱われる日々の始まりでした。
「マスルー! 廊下の床磨きがまだよ!」
「はい!」
「声が小さい!」
「はい!!」
「あと中庭も! 玄関も! 階段も! ついでに天井も磨いておいて!」
「天井も……ですか?」
「そうよ! 屋敷の隅々までピカピカにしなさい!」
「……わかりました。お姉さま」
マスルーは毎日のように無茶な命令をされていましたが、めげずに言いつけを守りました。
雑巾を両手に持ち、廊下を滑るように前進し、反転し、また前進する。
ゴシゴシ、シャッ、ゴシゴシ、シャッ。
ただの床磨きのはずなのに、いつしかそれは、体幹を鍛える謎の全身運動になっていました。
「ふふ、いい様ね。あなたみたいなドアマット女には、床がお似合いよ」
義姉たちは笑いました。
けれど、マスルーは今日も一生懸命に床を磨くのでした。
***
食事もひどいものでした。
「あなたみたいなドアマット女に、豪華なものは必要ないわ」
義母がぽんと置く皿の上には、鶏のささみ、ブロッコリー、ゆで卵。
「これだけ……ですか?」
「十分でしょう。贅沢を言うんじゃありません」
「はい。いただきます」
マスルーは知りませんでした。
それが、筋肉にとって理想的すぎる食事だということを。
質素な食事だと思っていたものは、知らぬ間に彼女の体を作り上げていきました。
***
毎日毎日、義姉と義母は、無茶な命令を出し続けました。
「今日は床を百往復よ!」
「はい!」
「薪も百本割っておいて!」
「はい!」
「井戸水も百往復!」
「はい!」
「ついでに馬車がぬかるみにはまったから、押してきなさい!」
「はい!」
最初のころ、マスルーは何度もへとへとになっていました。
けれど、毎日続けているうちに、息切れは少しずつ減り、荷物は軽く感じるようになり、階段を上がる足取りも妙に安定していきました。
義姉たちはまだ知りませんでした。
自分たちが今、ひとりの逸材を育成してしまっていることに。
***
そんなある日、王城から知らせが届きます。
王子が婚約者を探すため、大規模な舞踏会を開くというのです。
「きゃああああ!」
「ついに私が王子妃に!」
「いいえ、私よ!」
義姉たちは大騒ぎでした。
義母も鼻息を荒くします。
「いいこと? 王子には優雅さ、気品、しとやかさを見せるのよ!」
「あの、お義母さま、私は……」
「マスルー、あなたは留守番――」
と言いかけたところで、義母は王宮の招待状に目を止めました。
そこには、はっきりこう書かれていました。
『年頃の未婚女性は身分を問わず全員参加可』
義母は嫌そうに顔をしかめました。
「……行くだけ行きなさい。ただし、目立つんじゃないわよ」
「わかりました。お義母さま」
***
舞踏会の準備をするマスルーの前に、近所に住むトレィナー爺さんが現れました。
トレィナー爺さんは、かつて王国中を旅した元武術指南役で、今は近所の子どもや老人に、なぜか正しい姿勢と柔軟運動を教えて暮らしている変わり者でした。
「トレィナー爺さん。こんばんは」
「マスルー、今日も頑張っているようじゃな。掃除のフォームがだいぶよくなったようじゃ」
「はい。トレィナーさんの言いつけは守っています。おかげで荷物運びがとても楽になりました」
「それは何よりじゃ。そして今日は舞踏会があるそうだが……わかっておるな?」
「はい。夜更かしは厳禁、ですよね?」
「そうじゃ。超回復のために睡眠不足は敵じゃ。十二時の鐘が鳴るまでには帰宅するんじゃよ」
「わかりました」
「あと帰宅後は軽くストレッチを」
「わかりました!」
「水分補給も忘れずに」
「はい!」
舞踏会に行く令嬢への助言としては、どこかおかしい気もしましたが、マスルーは真面目にうなずきました。
***
武闘会……ではなく、舞踏会当日。
王宮は着飾った令嬢たちでいっぱいでした。
きらびやかなドレス、宝石、香水、笑顔、駆け引き。
そのすべてが、まばゆい光の中で揺れていました。
王子は玉座の近くで、つまらなそうに欠伸を噛み殺していました。
「いかがですか、殿下。今宵は素敵なご令嬢が大勢いらしております」
「そうだな」
「どなたか気になる方は?」
「……全員、百キロは持てなさそうだな」
「何をです?」
「いや、何でもない」
この王子は、幼いころから筋肉と重量物に異様な関心を持っていました。
立派な騎士が通れば、その騎士に目を奪われる。
舞踏会の作法よりも、騎士たちの訓練場に顔を出すことのほうが好き。
宝石の輝きより、鍛え上げられた前腕の筋のほうに感動する。
臣下たちは薄々、王子が筋肉マニアだと気づいていましたが、誰も正面からは触れないようにしていました。
そのときです。
会場の片隅で、義姉たちが別の令嬢と盛り上がっていました。
その令嬢は、やたらと派手なドレスを着て、高飛車に扇を振っています。
隣には、よく似た顔の姉もいます。
「ごきげんよう。わたくしたち、シンデレラの姉ですの」
「シンデレラ?」
「ええ、家で灰まみれになっている妹ですわ」
「毎日すすだらけで、本当にみっともないの。うふふ」
どうやら、どこかで聞いたことのある灰かぶりの姉たちでした。
マスルーの義姉たちは、目を輝かせます。
「まあ! あなたたちも妹いじめを?」
「いじめなんて、いやですわ。しつけですの」
「わかりますわぁ!」
最悪の共鳴が起きました。
「うちは妹に、朝から晩まで灰掃除をさせていますの」
「まぁ、うちは床磨き五十往復ですわ」
「まあまあ。なかなかですわね」
「それに井戸水運び三十往復、洗濯物の手絞り百枚」
「えぇ、えぇ」
「薪割り二百本」
「……ん?」
シンデレラの姉が首をかしげました。
マスルーの義姉は止まりません。
「階段ダッシュ百本」
「階段ダッシュ?」
「あと食事はささみとブロッコリー中心で」
「ちょっと待ってくださいまし?」
シンデレラの姉二人が、そろって真顔になりました。
「……何かの選手を育てていますの?」
「えっ?」
そこへ、マスルー本人がやってきました。
「……お義姉さま、何かお呼びでしたでしょうか。私の話が聞こえたのですが……」
四人の姉が、そろって振り向きました。
マスルーは細身のドレスを着ていました。
けれど、その上からでもわかる肩の厚み。
布地の下で静かに主張する背中の広がり。
まっすぐ立っているだけなのに、まるで大地に根を張っているような腰の安定感。
シンデレラの姉たちは沈黙しました。
「……ねえ、この方だけ、ちょっと育ち方がおかしくありませんこと?」
「ええ。妹というより、もはや歴戦の戦士ですわね」
「あら、やだわ!」
マスルーの義姉たちは顔を引きつらせました。
「この子はただの地味な妹よ!」
「そうよ! ちょっと床を百往復磨けて、井戸水を樽ごと二つ持てて、馬車を押せるだけで!」
その会話を、王子は少し離れた場所から聞いていました。
そして思いました。
(樽ごと二つ? 一体、どんな令嬢だ?)
王子の目が、ぱっと輝きました。
彼がマスルーのほうへ歩き出そうとした、その直前。
「やっぱりあなたがいると、私たちが引き立たないのよ!」
「その地味な顔で王宮に来るなんて、生意気なの!」
マスルーの義姉たちが、彼女に突っかかりました。
「ええっ、そんな!」
「そのドレスも気に入らないわ!」
びりっ。
一人が肩を裂きました。
びりびりっ。
もう一人が裾を破きました。
会場の空気が、すっと凍ります。
令嬢たちは息をのみました。
誰もが、か弱い少女の白い肩がさらされると思っていました。
けれど、露わになったのは違いました。
盛り上がる三角筋。
すっと伸びた腕に浮かぶ、美しい筋の流れ。
無駄なく絞られた腹部。
ドレスの下に隠されていたとは思えない、堂々たる広背筋。
それは下品でも、乱暴でもありませんでした。
積み重ねた日々だけが作る、静かな説得力でした。
数秒の沈黙。
王宮の楽師が、うっかり演奏を止めました。
給仕が皿を落としました。
宰相が「ほう」と言いました。
王子は感極まっていました。
「素晴らしい……」
義母はまだ状況を理解していません。
「な、何よその体! はしたない!」
「さらに破いてやるわ!」
義姉がなおも掴みかかろうとした、そのときでした。
「やめてください!」
マスルーが、反射的に振り払います。
本当に、振り払っただけでした。
ただ、ほんの少し。
それなのに。
義姉その一がふわりと浮き、
義姉その二が巻き添えになり、
義母が「ひえっ」と言う間もなく三人まとめて後方へすっ飛び、
会場の端にあった長椅子へ、きれいに一直線で着地しました。
――ドゴォォォォン!!!
「まあ!」
シンデレラの姉が拍手しました。
「円盤投げの選手の育成でしたのね!」
「いいえ、お姉さま。あの軌道はハンマー投げに近いですわ」
どうでもいい分析でした。
しかし王子は、完全に恋に落ちていました。
彼はゆっくりと歩み寄り、震える声で言いました。
「素晴らしい……」
「えっ」
「見事な体幹、安定した下半身、無駄のない可動域……。何より今の一撃、力任せではない。しっかりと地面を捉えた連動だ」
「え、えっと……?」
「君は……君は最高だ!」
「最高!?」
「どうか私と結婚してくれ!」
ざわっ、と会場が揺れました。
令嬢たちが悲鳴を上げます。
義母は口をぱくぱくさせ、義姉たちは長椅子の上で目を回しています。
マスルー本人も、ぽかんとしていました。
「け、結婚?」
「ああ! 私はずっと探していたんだ。真に強く、美しい女性を!」
「そ、そんな……でも私、もう帰らないと……」
「なぜだ!」
その瞬間、遠くで鐘が鳴り始めました。
ごおおおおん。
マスルーの顔色が変わります。
「いけない! 十二時です! 超回復の時間です!」
「ちょうかいふく!?」
「早く寝るようにトレィナーさんに言われているんです!」
シンデレラの姉たちが、初めて聞く単語に目を丸くしました。
マスルーは慌ててドレスの裾を持ち上げます。
「失礼します!」
「待ってくれ、名前を!」
――シュン!
その瞬間にはもういませんでした。
マスルーは床を蹴り、廊下を駆け抜け、玄関を飛び出し、庭を横切り、塀を軽やかに飛び越え、夜の街へ消えていきました。
速い。
とにかく速い。
乗馬用の名馬が「今の何?」という顔をしました。
王子は呆然としながら、ぽつりとつぶやきます。
「脚力まで完璧……素晴らしい」
***
翌朝。
王都中に、お触れが出されました。
『王子の婚約者候補を再選定する。条件は、百キロのダンベルを持ち上げられること』
王宮の広場には、巨大なダンベルが置かれました。
令嬢たちが次々挑戦しますが、当然ながらびくともしません。
「う、うう……っ!」
「きゃあ、腰が!」
「無理ですわ!」
そこへ、こそこそと現れたのがマスルーでした。
義母たちは真っ青になります。
「あんた、何しに来たの!」
「やめなさい! 恥をさらす気!?」
マスルーはおずおずとダンベルの前に立ちました。
「ええと、これを持てばいいんですよね?」
王子が身を乗り出します。
「ああ!」
マスルーはしゃがみ、背筋を伸ばし、足幅を整えました。
それを見た王子が、思わず両手を組みます。
「美しい……」
「殿下?」
「完璧なフォームだ……」
次の瞬間。
マスルーは、ひょいと持ち上げました。
本当に、ひょいと。
百キロのダンベルが、野菜の買い出し袋くらいの気軽さで持ち上がりました。
広場が静まり返ります。
沈黙。
それから、大歓声。
「持ったああああ!」
「本当にいたああああ!」
「百キロを買い物袋みたいに!」
王子は玉座から飛び降り、マスルーの前まで駆けてきました。
「君だ。私が探し求めていたのは君だ!」
「王子さま……」
「昨夜からずっと君のことが忘れられなかった!」
「そ、そんな」
「私は君の筋肉に惚れた」
ど直球でした。
マスルーは目を丸くします。
王子は慌てて、けれど真剣な顔で言葉を続けました。
「いや、筋肉だけではない。君の努力に、君の真面目さに惚れたんだ。君の強さは、誰かを傷つけるためのものではない。つらい日々を投げ出さず、毎日を積み重ねてきた証だ」
「私の、努力……」
「ああ。どうか私と結婚してくれ!」
マスルーは真っ赤になりました。
「でも私、その……ドアマットのような女だと、ずっと言われ続けていて……。私のような女は、王子さまに釣り合わないと思いますが……」
「ドアマット?」
王子は目を輝かせて言った。
「君はドアマットなどではない! ドアマッチョだ!」
こうしてマスルーは、王子の婚約者に選ばれたのでした。
めでたし、めでたし。
流行りのドアマットヒロイン?を書いてみました。
無自覚ヒロインが活躍する「村娘Bですが、なぜか魔王に監禁されています」連載中です。




