主人公、普通の主婦
目の前で、あのにこにこ顔の奴隷商が白目むいて床に転がってる。
……えっと。なに、この光景?
胸の奥がじんわり熱い。
さっき、この紅いあざが脈打って――その直後、奴隷商から何か吸い上げた……気がする?
「な、なにこれ。そんな仕様、聞いてないんだけど!」
私の胸――いや正確にはアザが、まだぼうっと紅く光っている。
身体の芯がポカポカして、力が湧いてくるような。
でも、この脂ぎったおじさんから「何か」を吸ったんだよねぇ……。
「吐き出せないよね。うん、無理だよね」
この人から出てきたものを吸うだなんて、考えただけでも気持ち悪い。
「き、貴様ぁぁぁ!! 主をッ!」
怒声と共に一人の護衛が剣を抜いて飛び掛ってきた。
「ひっ……!」
考えるより先に、私は腕で顔を庇う。
――ガキィィィンッ!!!
カラン、カラン……。
「「「……は?」」」
……折れた。
私の腕が、じゃない。
折れたのは護衛の剣のほう。
目の前で見事にへし折れてカランと床に転がった。
「う、うそでしょ……?」
自分の腕を見下ろす。
震えてもいない。
痛くもない。
何もない。
「えぇ……? なにこれぇ……」
私がぽかんとしてる間に、もう一人の護衛が殴りかかってくる。
「ま、待っ――わっ!」
咄嗟に振り払った私の手が、相手の胸に当たった。
ドゴッ!!
「ぶべっ!?」
護衛は軽く吹っ飛び、そのまま壁に叩きつけられて意識を失った。
「え……私、今、なにしたの……?」
自分の手を見て固まる。
自分の手が、まったく知らないものに見える。
ついさっきまで、普通の――ただの主婦だったのに。
その時、倒れた護衛の胸元から紫色の光が滲み出した。
「え、ちょ……また……?」
光は引き寄せられるみたいに、私のあざへと流れ込んでいく。
胸の奥が、また一段と熱を帯びた。
「ま、またこれぇ? なんなのよもう!」
「ち、チートきたーーーー!」
倒れてたと思った青年が、勢い良く起き上がって叫んだ。
「はぁ? 何言ってるの!?」
私が混乱して叫び返すと、今度は震えながら隠れていた女子高生が、おずおずと私を見上げてくる。
「お、お姉さん……『無能からの追放』、『隠された力』、『覚醒イベント』……この流れ……まさか、主人公……?」
「は?」
「それだ!」
青年がビシッと指を突きつけてくる。
女子高生も顔の横で両手をギュッと握りしめてる。
「いや、『それだ!』じゃないんだけど」
それってどれよ!
「わ、私、異世界ものが好きで……転生とか転移とか……でも、自分は絶対モブだと思ってて……」
彼女は早口で続ける。
「だから……さっきまで、先が見えなくて……でも、お姉さんが……その……」
「待って待って、ちょっと整理――」
「うお、外が騒がしいぞ!?」
青年が窓の方へ駆け寄る。
外から護衛たちの声が響いてきた。
「何か音がしたぞ!」
「こっちだ!」
「や、やばっ……!」
ここにいたら確実に厄介なことになる。
「とにかくここにいたらまずいから、逃げよ!」
「は、はいっ――きゃっ!?」
逃げようと、女子高生の手をつかんだ瞬間――
ドクン!
「あっ……!」
彼女の胸の奴隷紋が淡く光り、紫の光が吸い上げられていく。
「え、なに……力が……抜け……」
女子高生は膝をつき、息を詰めるように肩を震わせた。
「ちょ、ちょっと!? もしかしてまた……! ご、ごめんなさい! 私、止められなくて……!」
手を離そうとした瞬間、
「っ……あ、んッ……!」
「えっ……?」
女子高生が背を反らせ、なんか色っぽい声を漏らした。
「んっ……っ〜〜……っんん゛っ!」
そして、彼女の身体がビクッと大きく震えると同時に、最後に一度だけ大きく脈動して光が消える。
「……は?」
恐る恐る彼女が胸元を覗くと、そこにあったはずの奴隷紋が跡形もなく消えていた。
「……き、消えた?」
私、女子高生、青年。
全員、声が出ないまま固まる。
そして、胸元を凝視していた青年が思わずつぶやく。
「おっふ。すげぇ……マジでたわわに実って……」
「ちょっと! 見ないの!!」
思わず視線を遮るように伸ばした手が青年の額にスパーンと触れた。
そして、
ドクン!
「うおぉっ――おっふぅ!?」
同じようにガクガクと震える青年。
なんか軽く腰を動かしてるのが……。
手、離していいかな……?
青年の胸の奴隷紋からも紫の光が引き剥がされていく。
彼は歯を食いしばって耐え、やがて大きく息を吐いた。
そして――消えた。
青年は息を切らして誤魔化すように視線を反らし、女子高生は耳まで真っ赤で俯いている。
私はなにがなんだかわからず、ただただ困惑。
「…………」
「…………」
「…………」
気まずい。
めっちゃ気まずいんだけど。
三人の間に、超気まずい沈黙が降りた。
「おい、こっちだ! 早く来い!」
扉の向こうから、護衛たちの声がさらに近づいてくる。
「ま、まずい、来るぞ!」
青年が恥ずかしさを誤魔化すように叫ぶと、窓際に駆け寄った。
「とにかく逃げるぞ!」
「そ、そうね! ほら、あなたも!」
「あ……えと、は、はい!」
青年が窓から外へ飛び出し、私と女子高生も慌ててそのあとを追う。
「ねぇ! どっちが出口か、わかってるの!?」
「大丈夫! おねえさん、主人公だから!」
「だからなにそれ!?」
窓から飛び出て、小綺麗に整えられた館の庭を走る。
「はぁ、はぁ……っ!」
後ろからは怒号と足音。
「止まれ!」
「逃がすな!」
「ま、まずい……出口って、どっち……!?」
「あなた、分かってなかったの!?」
「し、正面です! 来たときの!」
女子高生の叫びに従って、私は女子高生の手を引いたまま走る。
息が苦しい。心臓がうるさい。
――でも。
身体が、軽い。
さっきまでとは明らかに違う。
怖いのに足がもつれない。
転ばない。
これも……この、アザのせい?
紅く光るアザは、燃えるように熱い。
「あった! あそこ!」
「走れ走れ……っ!」
「はぁ……はぁ……!」
正面玄関が見えた、その瞬間だった。
「――止まれ」
低い声。
出口の前に、数人の影が立ちはだかっていた。
人間の護衛が三人。
そして、その横に一際大きな影が――
「……獣人?」
ガチムチの筋肉。
毛に覆われた腕。
狼……犬……いや、もっと獣寄り。
ここに来る時に見た、あの獣人だ。
「お前たち、何をしている!」
「この騒ぎは何だ!」
「何かやったのか貴様ら!」
「……」
全員、剣を持っている。
人間たちはこちらへそれを突きつけてジリジリと近寄ってくる。
でも、おかしい。
その獣人だけが武器を構えず、じっとこちらを見ていた。
いや――
違う。
見ているのは、私。
彼は鼻を引くつかせて、鋭い目で私のことを観察している。
……くん、くん、と。
まるで臭いを確かめるみたいに。
そして、その視線が、ゆっくりと私の胸元へ落ちる。
「……?」
紅く光る、あざ。
それを見た瞬間、獣人の瞳がわずかに見開かれた。
「……まさか」
「……な、なに?」
「逃がすな! やれ!」
人間の護衛が、獣人の様子など気にも留めず、襲いかかってくる。
「ひっ……!」
正直、怖い。
めちゃくちゃ怖い。
でも。
「――っ!」
私は前に出た。
だって!
この子たちはまだ子供だし、私がやるしかないじゃない!
「大丈夫よねっ!? 誰が大丈夫って言ってぇぇっ!!」
振り下ろされた剣を、また腕で受け止める。
ガキンッ!
「なっ――」
また、折れた。
「よっし! さすがチート!」
「わぁ! かっこいい……!」
「え、ちょ、ちょっと待って! 盛り上がってるけど私だって怖いのよ!」
震える声で叫んで、泣きそうになりながら必死に手を振る。
ていうか、泣いてる。
「ご、こめんなさいっ!」
「うぎゃ!」
「ぐぇ!」
でも、その度にドゴ、とかバキッとか音がして人が吹っ飛んで行く。
「ごめんなさい、ごめんなさいぃぃ!」
そして、触れた瞬間また紫の光が溢れ出した。
「ぐっ……!?」
「な、なんだ……!」
吹っ飛んだ護衛たちから、次々と光が吸い取られていく。
ドクン、ドクン。
胸が、熱い。
鼓動が、強い。
「またこれっ!? ……何なの、これ……!」
最後の一人が倒れた時。
獣人が、ゆっくりと槍を地面に落とした。
カラン、と乾いた音。
「……その力」
低く、落ち着いた声。
「隷属魔術を、解けるのか?」
「え……?」
突然の問いに、頭が追いつかない。
「えっと……わ、わからないけど……」
正直に言う。
「たぶん……? わけも分からず、やってるだけで……」
獣人は数秒黙ったあと。
すっと、私の前に歩み寄ってきた。
ガチムチの大男が怖くて、思わず一歩下がる。
「なら――」
彼はガチャガチャと手早く鎧を脱いで、顕になった自分の胸元を指差した。
そこに、紫色の奴隷紋。
「俺にも、やってくれ」
「……え?」
「俺は……自由になりたい」
その言葉は、静かで、でも重かった。
私はごくりと息を飲み、青年と女子高生を見る。
二人とも何も言わず、でも必死にコクコクと頷いた。
「……わ、わかりました。でも、責任は持てませんからね……?」
「ああ……頼む」
そっと、彼に触れる。
――ドクン。
強い魔力。
今までで、一番、濃い。
「っ……!」
紫の光が勢いよく吸い上げられていく。
獣人は歯を食いしばり、低く唸った。
そして。
胸の紋が消えた。
「……消え、た……」
獣人は、自分の胸を見下ろし、しばらく動かなかった。
やがて。
深く、頭を下げる。
「……恩に着る」
顔を上げ、鋭い目で周囲を見渡した。
「この館の裏口を知っている。追っ手も、撒ける」
そして、私を見る。
「――案内しよう」
私は、また青年と女子高生を見た。
「……だって、って……」
二人は、また黙ったまま同時にブンブンと頷いてる。
……こういうの、あなたたちのほうが詳しいんじゃないの?
こうして。
わけのわからない力を持った主婦の私と、
オタクな青年と女子高生、
そして自由になったガチムチ獣人は――
奴隷商の館から、無事逃げ出したのであった。
でも、この先どうなるんだろう……。




