009
夕刻にもなれば頭も冷える。
そうだったらよかったのに、仕事に必死で打ち込んでみても凍りついた空気感は薄れることなく、脳に色濃く映し出されている。
思い出してもらうことが目的なのに、新たにとんでもない印象を与えてしまった。
学生の頃とは違う、できる大人のイメージをコツコツと積み上げていくはずだったのに。朝っぱらから男性器の俗称を全力で叫ぶなんて、淫らにもほどがある。
もう最悪。しにたい。
湧き上がる羞恥を堪え切れず体をベッドに投げ出す。
今日だけでもう四度は顔を押し付けた枕は抱き締めすぎてクタクタになってしまったが、構わずに感情をぶつける。
足をバタつかせ、ゴロゴロと転がって、思う存分埃を撒き散らしたところでふと我に返った。
「今日、どうしよう」
もうすぐ包介くんが帰ってくる。
普段なら外廊下で出迎えてみたり、エレベーターで待ち伏せてみたりするのだが、あんなことがあった手前、顔を合わせづらい。
包介くんは何事もなかったように振る舞ってくれるだろうが、わたしがどんな顔をしたらいいか分からない。
今日は自粛すべきか。
いや、でも、日を置いても気まずさは解決しないし、それならばいっそ早くに清算した方が楽かもしれない。
いやいや、やっぱり、今日は避けた方が。
そうは言っても、けど、でも。
しばらく不毛な自問を繰り返したが、答えは出なかった。とりあえず、一度包介くんを見てから決めるという逃げの結論に落ち着いて、屈んだ姿勢で玄関扉に躙り寄る。
隙間だけ開けて、外廊下に誰もいないことを確認する。
音を立てないように扉を押し開き、這うようにして近づいた塀から頭半分覗かせると、ノタノタと歩くピンク色した傘が目に入った。
間違いない。赤錆の傘だ。包介くんの姿は見えないが、恐らくあの傘の下にいるだろう。
相合傘だなんて、まったくいやらしい。ガキが色気付くな。
心の中で呪詛を唱えていると、傘の下から黒色の学ランが飛び出した。
上からでは顔は見えないが、あの愛らしい頭頂部は包介くんに違いない。小走りでエントランスに向かう様子は赤錆から逃げているようにも見える。ざまあみろ。
だが、今はそんなことを喜んでいる場合ではない。注目すべき点は別にある。
包介くんの右手に左手に提げられていた袋。あれは、コンビニのビニール袋だ。
おかしい。
包介くんのお母さんの千影さんは色々と気を使う人で、食生活に関しても徹底している。買い食いに関しても厳しく管理している彼女が、安易にインスタントを許可するとは思えない。
ということは、今晩、千影さんは何らかの事情で夕食を用意できなかったのではないか。
必然、帰りも遅いはずで、では、包介くんはどうなるのか。
孤食。
不健康な蛍光灯の白色に照らされて、黙々とコンビニ飯を食べる彼の姿がありありと想像できた。
あれほど虚しい時間はない。物を噛むうちに自分が何をしているのか、何のために顎を動かしているのか分からなくなってくる。
そうして食べることが億劫になり、料理を作る気すら失せ、次第に味覚は死んでいく。
現にわたしはそうなった。この年になると、バカ舌の治療は絶望的だ。作業と化した食事という行為からは何の魅力も見出せない。ただ面倒で無駄な時間としか感じられなくなってしまった。
わたしは、包介くんに同じ道を歩んで欲しくはない。
保護者でも恋人でもない、忘れられた友人が慮ることではないと思う。一度拒絶されたのなら尚更だ。
それでも、やらなければならないと思った。
思い付きで動いた挙句、何度も酷い目を見たというのに、わたしはまるで懲りていなかった。
多分、性分なのだろう。勉強はそれなりにできるが、こればかりは学ばない。迫り上がる熱情を堪えることができない。
わたしは包介くんが好きだ。
好きだから、我慢できない。お節介でも止まらない。
子供じみた言い訳だし、子供にしか許されない言い分だけど、我慢できる好きは好きじゃない。
好きだから、してあげたい。
それが自然だ。わたしに唯一備わった、人として当たり前の感情だ。
エレベーターの昇る音を聞いて、急いで自室に戻る。
重い玄関扉が閉め切られた時には今朝の羞恥は消えていて、代わりに緩くて大きな心臓の音が胸の中で響いていた。
◇◆◇
隣の玄関扉が閉まってから十数分。壁に耳をあてじっと待ったが、話し声は聞こえてこない。
おそらく、わたしの読みは当たっている。
時刻は千影さんの普段の帰宅時間にも届いていないが、そういうことにしておかないといつまでも決心がつかない。
代わり映えしない状況に舞い込んだ絶好のチャンス。今やらなくていつやるんだ。
スマートフォンの連絡帳から包介くんの名前を選ぶ。
ゴミ袋から細切れの連絡網を回収しておいてよかった。直接家を訪ねるより電話の方が気は楽だ。
緑色の発信ボタンを押そうとして、指先が震えていることに気づく。
ここまできて怖じ気付いたのか。情けなさに自嘲が漏れる。
だが、引くつもりは毛頭ない。
数度、大袈裟な深呼吸を繰り返して心を落ち着ける。動悸はまるで治らないが、落ち着いたことにする。
「えいっ」
ようやく発信ボタンを押せた。
コール音が鳴り始め、呼吸は潜めるように細く、鼓動だけが大きくなっていく。
一回、二回、三回。
コールは続くが包介くんは出ない。
もしかしておトイレ中だろうか。しかし、壁の向こうから水を流す音は聞こえず、ならば、このまま待ち続けた方がいいかもしれない。
四回、五回、六回。
包介くんは出ない。家には間違いなくいるはずなのにどうしてだろう。
七回、八回、九回。
そこまでコールが続いたところで、とうとう留守番電話サービスに切り替わってしまった。案内音声がお決まりの説明を単調に読み上げていく。
どうして出てくれないのだろう。そこまで考えてハッとする。
わたしは当然包介くんの電話番号を知っているが、彼からすれば見知らぬ相手から唐突に電話がかかってきた状況だ。
わたしなら必ず居留守を使うし、防犯意識の高い千影さんなら相手が確認できるまでは電話を取らないように教えているだろう。
考えが足りなかった。力が抜けてスマートフォンが落ちかけるが、はたと思い直す。
この状況は逆に利用できるのではないか。
これまで、わたしが包介くんとどういう関係でどれだけ彼に救われたかを伝えられる場面は何度もあった。しかし、いざ対面すると愛念が前に出すぎて興奮しているうちに機会を逃してしまい、次こそはと心に決めてはいるものの、何一つ進展していないのが現状だ。
だが、どうだろう。留守番電話という一方向からのコミュニケーションであれば、意思をきちんと伝えられるのではないか。
会話には流れがある。空気などという目に見えないものを読み取る技術を要求されるが、伝言ならその心配はない。
それに、メールや手紙と違ってはっきりと感情をのせられる。わたしがどう感じて、何を伝えたいか。ありのままの想いを正確に告げられる。
そうだ。きっと今この瞬間が、勇気を振り絞って前に進む時なんだ。
わたしはもう充分逃げた。諦めきれずに包介くんを求めたくせに、彼の暖かさを感じるだけで満足していた。
その程度の気持ちで彼の側にいられるはずがない。
今朝の赤錆の優越に浸った薄ら笑いが過ぎる。自分が一番包介くんに近い女だと本気で思ってる顔だった。
でも、わたしだって、包介くんへの想いの深さで負けるつもりはない。
だからわたしはここに来たんじゃないのか。包介くんの隣にいるために生きているんじゃないのか。
だったら、準備がどうとか、時間がどうとか言っている場合じゃない。
今を変えるチャンスは行動を重ねた末の偶然でしかない。
その一つ一つがかけがえのないもので、次は存在しない。
今しかない。今じゃなきゃダメなんだ。
心を決めると同時に長いハウラ音が鳴り終わる。
台本はない。
ぶっつけ本番、やるしかない。
「あっ、あのっ、と、突然ごめんなさ、い」
声を整える時間はなく、想像よりもずっと掠れた声が出た。乾いてブツ切りの、受話器が拾えるかも怪しい震え具合だ。
くだらない。引き際はとうに過ぎた。
体面を気にする余裕があるなら言葉を紡げ。
「おっ、おっ、お電話は、は、初めてだよね。わ、わたしのこと、おっ、覚えてるかなぁ……あっ、いやっ、嫌味とかそんなつもりはないんだけど……えへっ」
取り繕いの愛想笑い。惨めな自分を嗤う笑み。
それでも止めない。思いつくままに口を走らせる。
「あ、そっ、それでね、さっき上から、コンビニの袋を提げてるのが見えたから、えっと、今日はご飯、一人なのかなって思って」
ここからだ。
ここから、今のわたしが包介くんにとってどれほどの存在かはっきりする。
嫌われていれば返答はないだろう。
だけどもし、欠片でも好意があるのなら。
胸いっぱいに空気を取り込んだ後、たっぷり時間をかけて吐き出す。
恐れか勇みか、スマートフォンを握る手の筋肉が痙攣するがどうでもいい。頭と口が動くなら、想いを告げない理由にはならない。
「……だから、ね。ほ、包介くんさえ良ければなんだけど、そ、そそそそのっ、今から、そっちに行ってもいいですか。……あっ、最初にお名前言うの忘れてた。え、えへへ。わっ、わたし、メアリです。あっ、そ、それでね、わたし、今家にいるの。だから、えーっと、包介くんの家か、わ、わたしの家か、どっちがいいかなぁ、なんて」
言えた。言ってしまった。
一念発起の末に訪れたのは後悔だった。
目的を達したからか、熱で浮かされていた頭が冷静さを取り戻す。
自身を客観視できるだけの平静は、包介くんとの現状を強く思い起こさせ、突飛な提案を持ちかけた事実を自覚せざるを得なかった。
「……急に、気持ち悪いよね。包介くんはわたしのこと覚えてなくて、それなら多分、あんまり知らない人がご飯に誘ってくるんだもん。へ、変、だよね」
言い訳ばかりが口を衝く。
やらない後悔よりもやって後悔、なんて嘘っぱちだ。取り返しがつかない分、始末に負えない。
また、失ってしまう。
自分本位はやめようと誓ったはずなのに。同じ過ちは絶対にしないように、慎重に少しずつあの暖かな関係に近づいていくはずだったのに。
またしても、一時の感情で不意にした。熱量にかまけて想いを正当化し、我慢の苦しみから逃げ出した。
成長してない。
いや、成長なんて次元ではない。理性とか辛抱とか、人として当たり前の抑制力が欠落している。
こんなわたしが包介くんに相応しいはずがない。
本質の格が違う。近づくだけで迷惑になる。害でしかない。今すぐ目の前から消えることが一番の恩返しだ。
そんなこと分かってる。
分かってるけど。
「……だけど、だけどね、分かって欲しいの。わたしは包介くんにすっごく感謝してるし、包介くんがいるからわたしはここにいる。今のわたしがある。わたしを作ってくれたのは包介くんなんだ」
どうしても彼を諦められない。
胸いっぱいの愛情が、伝えたい熱情が止めどなく溢れてくる。
スマートフォンを耳に当てたまま自室に向かい、ベッドに腰を下ろす。
壁に背を付けると、硬い鉄筋コンクリートの奥に確かな人肌を感じる。
包介くんがそこにいると確信する。
「ねぇ、包介くん。わたし、わたしね」
あなたが好き。
「わたし、今、包介くんの後ろにいるの」