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ペトリコールと怪女達  作者: カシノ
黄衣小女孩

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 体を動かすのは楽しい。

 包介の事故があってからはやらなくなったけど、もともとのあたしは体育会系だ。転校してすぐにミニバスを始めたし、辞めた今でも早起きした朝は軽くジョギングで流したりもする。

 やっぱり人間も動物で、犬や猫なんかと同じく、適度に運動しないと心がおかしくなるのだろう。汗を流して脂肪を燃やせば、体内の嫌なものは大体吐き出せる気がする。

 そう思えば、包介と烏羽の出会いは喜ばしいことなのかもしれない。

 格闘技の特訓を始めてから、包介の体つきは変わった。インドア気質でガリガリの、吹けば飛びそうな体から、一本芯の通った男の子の体になった。まだまだ身長は低くて顔だけみれば女子にしか見えないけど、これからどんどんカッコよくなっていくんだと思う。


 きっかけがあたしじゃないっていうのは悔しいけど。


 包介に全部を打ち明けたあの日から、あたしは変わった。でも、嫉妬深い性格は直ってないし、周りの女を邪魔と思うのはしょっちゅうだ。包介が烏羽のために弁柄と戦ったと聞いたときも、羨ましいと思ってしまった。

 だからこれは、あたしなりのけじめだ。

 烏羽に恩を売るつもりも、包介に褒められたいわけでもない。あたしが、あたしを許せるようになるために必要なことだ。


「わざわざ来てもらって悪いわね。椋実(むくのみ)若菜(もしな)さん」

「……べつに。それで、話ってなにかな」


 がらんどうの体育館で二人向き合う。

 椋実と話すのは包介を巡るバスケ対決以来か。いや、あの時は会話なんてなかった。

 最後に話したのは、たしか──そうだ。包介が烏羽に虐められていると伝えにきた奴だ。あの時の挙動は相当怪しかったが、今の椋実は背筋が伸びていて、あたしとしっかり目を合わせてくる。


「聞きたいことがあるんだ。でもその前に、ちょっと付き合ってくれない?」


 バスケットボールを拾い上げて、人差し指の先で回す。久しぶりにやったけど手は感覚を覚えていて、回転は安定している。


「わかった。10点でいいよね」


 椋実の提案に頷いて、手首のスナップだけでボールを投げる。椋実は表情を変えずに片手で受け止め、さっさとコートに歩いていく。

 1on1。

 ミニバスの在籍歴だけはそれなりのあたしだが、こういう遊び形式のゲーム経験はほとんどない。椋実の実力次第では恥をかく結果になりかねないが、そのくらいのリスクは負わないと、わざわざ試合を挑んだ意味がなくなってしまう。

 椋実がスタートポジションにつく。表情は冷静だ。しかし、あたしが目の前に立つと、瞳の奥が微かに怯えた。小心者のくせに一丁前に威嚇してくる様子は、リスとかの小動物を連想させる。

 そういう侮りが顔に出ていたらしい。椋実はグッと歯を噛み締めると、チェックボールを待たずに走り出した。

 ゴールに向かって一直線の愚直な突進。しかし、瞬発力はそれなりで、不意打ちに出遅れた足では追い縋るのが精一杯だ。椋実は力強く跳び上がり、雑なレイアップを決める。


「はっ」


 着地と同時に振り返り、得意げに笑う。反則で誇られても滑稽としか思わないが、喧嘩腰の方があたしもやりやすい。椋実を真似て鼻で笑い、転がるボールを拾う。


「ハンデあげようか?」


 一点先制したくらいで随分なはしゃぎようだ。あからさまな挑発を受け流しながらボールを交わし、流し目で椋実を見下す。


「くださいの間違いでしょ」


 低くドリブルを始めた直後、椋実が飛び込んできた。踏み込みは鋭いが動きは素直だ。冷静に自分の股下を通して躱す。

 椋実は尚も食ってかかるが、崩れた姿勢からのスティールは怖くない。椋実の勢いを利用して背中を支点にくるりと回り、立ち位置を入れ替える。

 ゴールまでの道は拓けた。悠々と走り、当然のレイアップシュートを打つ。椋実のシュートのようにボードにぶつかるなんてことはなく、ボールはすっぽりリングをくぐると、ネットの揺れる音が静かに響いた。


「ふっ」


 意趣返しに嘲笑いかけ、慌てて口元を隠す。

 いけないいけない。今日はクールにやらないと。

 でも、椋実にはしっかり見られていたみたいで、大袈裟にボールを両手で拾い上げると、顔を真っ赤にしてライン際まで大股開きで歩いていく。


「ごめんごめん。ちょっと思い出し笑い。そんなピリピリしないでよ」


 椋実は答えない。けど、反論するように強く投げ渡してくる。

 分かりやすい奴だな、と内心思いながらボールを返す。


「お」


 今度は速攻しないらしい。椋実は低く構え、その場でドリブルする。

 やられっぱなしでは我慢できないようだ。椋実に合わせて、あたしも腰を落とす。

 たっぷり一秒見つめ合ったあと、椋実が動いた。

 緩急の効いたフロントチェンジ。手のひらにボールが吸い付くみたいに右から左に入れ替わる。

 でも、大した速さじゃない。さっきは不意打ちを喰らったが、落ち着いて備えれば充分に対処できる。走り出した椋実の側面にべったり張り付いてやると、ペナルティエリアに辿り着く前に足が止まった。


「くっ!」


 苦し紛れのジャンプシュート。ブレブレの体勢で放ったボールが入る訳もなく、リングにぶつかり明後日の方向に跳ねていった。


「あんたそんなに速くないし、そういうプレー向いてないよ。あたしの真似したいのは分かるけど」


 膝に手をつき恨めしそうにあたしを見上げる椋実に、ひと声かけてボールを拾いにいく。

 結構遠くまで飛んでしまった。それなりの距離をたらたら歩き、手でボールを回しながらスタートポジションに戻ると、椋実が如何にもブチ切れてますという表情で待っていた。


「なにさっきの。意味わかんないんだけど」

「ん?」

「だから! わたしは赤錆さんの真似なんかしてない!」

「あっそう? 昔っから真似っこしてたから、てっきりファンなんだと思ってた」


 椋実が固まる。その隙をついて一気に抜き去り、しっかりとゴールを決める。

 これで2-1。

 10点もいらないな、なんて考えながら、ほとんど棒立ちの椋実を振り返る。


「小学校からクラス一緒だし、あたしの後にミニバス入ってきたでしょ。さすがに覚えてるって」


 ボールを放ると椋実は両手でキャッチしたが、意識は遠くに飛んでいる。さっきまでの怒りは影も形もなく、憧れのアイドルに出会った乙女みたいに恍惚としている。


「……覚えてたんだ」

「まあね。チラチラ見てたのは知ってた」

「イヤ、だった?」

「話しかけてくればいいのに、とは思ってたけど。ま、あたしみたいな美少女に声かけるのは緊張するよね」


 ふざけて言ったつもりが、椋実は照れ臭そうに俯いた。子供らしい丸いほっぺたが、怒りとは違う理由で紅色に染まる。

 あたしは可愛いし、勉強も運動もできるから、憧れる奴がいるのは知っていたけど、椋実ほど熱心な奴はそういない。下心ありきの男子の応援は鬱陶しいだけだが、同性に慕われるのは結構嬉しい。


「でも、包介を狙うのは違うよね」


 だけど、好きな男まで真似るのは違う。

 濃墨を意識した薄笑いを浮かべて、椋実の顔を覗き込む。


「毎回包介の傘盗んでたのあんたでしょ。気づいてないと思った?」


 赤から青へ。

 椋実の顔色が目まぐるしく変わる。ボールを抱えてプルプル震える姿は、いよいよ小リスといった様子だ。鼠は追い詰められれば牙を剥くが、この女にそんな気概はないだろう。


「あたしが見逃してあげてたのは、相合傘の口実になったから。でも、今は素直にお願いできるようになったし、もう盗まなくていいよ。おつかれさま」

「……しょ、証拠」

「は?」

「証拠! 証拠だしてよ!」


 椋実が犯人なのは確実だが、盗む瞬間をわざわざ写真に収めたりはしていない。本物の裁判なら、証拠不十分で負けている。

 だが、これは子供の喧嘩だ。罪を認めさせるだけなら、口先だけで事足りる。


「黄色のレインコート」


 ほら。黙った。


 椋実はギリギリと歯を喰い縛ってあたしを睨む。

 殴りかかってきそうな危ない目をしているが、今はバスケの試合中だ。そのことを思い出させるために、両手で挟んだボールを叩き落とす。


「仲良くなりたい相手の真似をするのが、あんたの手口みたいね。小学校の時の包介も黄色のレインコートだった。中学になって急に傘に変えたから、寂しくなっちゃったのかな?」


 てんてんと跳ねるボールを拾い上げ、椋実に押し付ける。次はあたしが攻撃の番だ。ちょっと卑怯な気もするが、動かなかったこいつが悪い。


「烏羽から攻めるのは上手かった。あいつは恰好だけで、自分に全然自信がないから」


 あてがう男のチョイスは失敗としか思えないが。

 相手がもっと紳士的な奴だったら、包介が出張ることはなかったし、烏羽もそのうち落とされていたかもしれない。もっとも、そんないい男が近くにいたなら、こいつが拗れることもなかっただろうけど。

 椋実は動くつもりがなさそうなので、抱えたボールをひったくる。これで一応はチェックボールが成立した。わざと高いドリブルをして、今から行くぞと伝えてやると、椋実はようやくディフェンスの姿勢をとる。


「あんたはやり過ぎた」


 フェイントをかけて右に切り込む。

 さっきまでなら抜けたけど、椋実が根性を見せた。ゼーゼー息を荒げながらも喰らい付いてきて、ゴール下に入れない。左右の足の差し替えと、ドリブルの切り返す激しい音が体育館に木霊する。


「フー……! フー……!」


 血走った目だ。あたしに勝てばすべてが許されると都合よく解釈したのかもしれない。口から涎が垂れていることも気にせず、跳ねるボールを注視している。


 椋実が今と同じくらい本気で包介を想っていたなら、別の関係もあったのだろうか。


 ふと、そんなことを思いついて、鼻で笑う。そんなたらればの話に意味はない。

 こいつは烏羽を唆し、包介を危ない目に遭わせた。その責任は、きっちり取ってもらう。

 ドリブルを低く。足を通して右から左へ。そこから一気にドライブで攻め込む。

 あたしの定石。大抵の奴は抜き去れる得意技に、椋実は反応した。未来が見えていたみたいな速度で立ち塞がり、ピンと張った細い指が真っ直ぐボールに伸びてくる。

 一秒が長い。感覚が引き延ばされ、接近する椋実の表情がよく見える。歯を剥いて目は引き攣り、けど瞳の奥は、してやったりと笑っている。


 甘いんだよ。


 ギリギリまで待って、ボールを右に切り返す。

 目標を奪われた椋実はそれでもボールを追おうとしたが、人体には限界がある。上半身と下半身が反対方向に突っ張り、足を滑らせて無様に尻もちをつく。

 呆然とあたしを見上げる椋実を、踏み躙るように見下ろす。

 そこに、さっきまでの生意気な子リスはいない。今まさに食われようとする被食者の絶望があるだけだ。


「一回だけなら許してあげる。でも──」


 片手に構えて、ゆっくり放る。ボールは緩い放物線を描き、音もなくリングを通る。


「次はないから」


 体を動かすのは楽しい。その結果、気に入らない奴を叩きのめせるなら尚更に。

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