076
弁柄君の前歯は折れた。上の二本が根元から。
しかし、顔面が二倍近く膨れ上がるほど殴られたものの眼球は無事で、骨も折れていない。撲殺されてもおかしくない怒りに晒されたのに入院程度で済んだのは、幸運と言っていいだろう。
大人が間に合ったのも恵まれていた。烏羽さんは殴り飛ばしただけでは満足せず、胸倉を捻り上げて執拗に顔面を殴り続けたが、弁柄君が悪足掻きを始めた時点で栗皮さんが青褐先生を呼びに急行していた。烏羽さんが弁柄君を殺さずに済んだのは彼女の機転のおかげだ。
結果、烏羽さんが複数の先生達に取り抑えられる形で、この無為な決闘は終わりを迎えた訳だが、その後に待っていたのは延々と続く取り調べである。
なぜ。誰が。どのように。
場を収められたのは複数の先生達の協力があったからこそだが、取り調べに関しては悪い方向に作用した。野次馬の数が多かったからだろう、先生達は分担してそれぞれに事情聴取をしたらしく、集めた情報の正誤の確認は当事者、つまりは僕と烏羽さんに対し行われた。
他の生徒達からの事情聴取を終えた先生が一人ずつ生徒指導室に入り、一から状況を説明させられる。昨今は学校への世間の目が厳しいので慎重な対応は致し方ないが、五回も繰り返せば精神が摩耗する。この時ばかりは病院送りで聴取を免れた弁柄君を羨ましく思った。
地獄はまだ終わらない。
先生達の尋問じみた聞き取りが落ち着いた矢先、間の悪いことに当事者達の保護者が到着した。
弁柄君の両親、烏羽慶次さん、校長、教頭、青褐先生に、僕と烏羽さんが校長室に詰める光景。そこから始まるのは、またしても事情の説明である。
再三に渡り繰り返した僕は説明文を暗記してしまっていて、嘘っぽく聞こえるくらい流暢に諳んじたが、弁柄君の両親からの抗議はなかった。雰囲気から察するに、彼等は彼等で人脈を使い、あらかじめあらましを押さえていたようだ。弁柄君と交流の深い野球部辺りが真実を伝えてくれたのかもしれない。
そのため、親を交えた説明は想像よりもずっと穏やかに纏まった。お互いが自分の子に問題があるという態度を貫いたのも大きい。弁柄君の行動はストーカーそのものであるし、烏羽さんはやり過ぎた。大人達は誠意を持って謝罪し合い、烏羽家は治療費の支払いと数日間の自宅待機、弁柄君は烏羽さんの自宅待機中に転校するという形で決着がついた。
大人数が絡んだにもかかわらず一日で完結できたのは暁光である。車窓の外を流れる景色はすっかり夜に染まっていたし、明日の登校を考えると全身が重たいが、学校の対応の早さに感謝すべきだ。
「ごめんな、包介くん。こんな時間まで付き合わせちゃって」
運転中の慶次さんがバックミラー越しに頭を下げる。
今回の騒動で真っ先に名前の上がった僕だが、大人達からは巻き込まれただけの被害者として扱われた。弁柄君に外傷を与えず制圧した功績が認められた形だ。
しかし、僕個人の認識は違う。烏羽さんに執着する弁柄君を単純に不快に思い、売り言葉に買い言葉で決闘を成立させた。挙句、最後に油断し背中を蹴られ、烏羽さんに制裁を代行させてしまった。
事態が大きくなったのは、僕が出しゃばったせいだ。
「慶次さんも、烏羽さんも悪くないです。僕が余計なことしなければ──」
「違う!!」
後部座席の隣に座っている烏羽さんが突然大声を上げた。
学校を出て、乗車してからもずっと静かだった彼女は、自分の声の大きさに驚いてしまったらしく、車内の誰よりも目を見開いている。
「……大きい声出してごめん。でも、原因はアタシだ。ホースケは全然悪くない」
烏羽さんはそれだけ言うと、また俯いてしまった。
最終的には弁柄君をぶん殴ってしまった彼女だが、それまでの過程は完全に被害者である。にもかかわらず自分に原因があると思い込んでいるのは、何か理由があるに違いない。
しかし、どう聞くべきかが分からない。縋るように慶次さんを見るが、彼自身も方法が見つからないのか殊更に眉間に皺を寄せ、前を睨んでいた。
無言の時間が流れる。
アスファルトを転がるタイヤの音がいやに大きい。街灯が通り過ぎるたび、烏羽さんの落ち込んだ横顔が照らし出される。暗い路地には見知った景色が増え始め、段々と僕の家が近づいていることが分かる。
「あのさ」
不意に烏羽さんが声を上げた。引き攣った喉をこじ開けたみたいな、無理しているのが丸分かりの声色だ。
「今まで悪かったな。金縛りが怖いっつって家に呼びつけたり、稽古つけるって無理やり引き回したり。ほかにもたくさん、アタシの勝手で迷惑かけた。本当にごめん」
烏羽さんはいつものように肩を叩こうと手を持ち上げるが、寸前でぎゅっと握り込み、腕を引いた。頬を吊り上げただけの笑顔を作り、途切れ途切れの空笑いが冷えた車内に虚しく響く。
「でも大丈夫。お前は充分強くなった。だからもう、稽古は終わりだ。我慢してアタシに付き合う必要はない」
僕も困ったときの作り笑いをよく指摘されるが、実際に対面するとその嘘臭さがよく分かる。
顔はこちらを向いているのに目が合わない。後ろめたさに押し潰されそうな表情を見ていると、無性に腹が立ってくる。
当然、烏羽さんに対してではない。
彼女をここまで思い詰めさせてしまった自分が、不甲斐なくて仕方がない。
「アタシ、もう迷惑かけない。ホースケに近寄らないから。だからもう、だいじょうぶ。これからは、アタシのことなんて気にしないで──」
「君は勘違いしているようだけど」
苛立ちが抑えられず、思いのほか厳しい口調になってしまった。烏羽さんの表情が尚更に強張る。
こめかみを親指で押しながら深く息を吐き、少しでも気持ちを落ち着ける。
「僕は、どうでもいい人の為に体を張るほどお人好しじゃない。人付き合いだって苦手だ。自分から誰かに話しかけた経験なんてほとんどない。だから、仲良くなれた人には離れて行って欲しくないし、離したくない」
烏羽さんの作り笑いが消える。ずっと逸れていた視線が怖々と僕を向く。
その変化を見逃さず、彼女の両頬に手を添えて正面からはっきりと目を合わせる。
「迷惑だなんて自惚れるなよ。僕は、烏羽さんの強引なところも、怖がりなところも、そういうの全部ひっくるめて大好きだから傍にいるんだ。勝手に離れるなんて許さないからな」
街灯の光が横切る。ぱっ、と照らされた彼女の顔は紅くきらきら輝いて見えて、雨露を弾く紅葉のようだと思った。
◇◆◇
よく考えなくても、凄く気持ち悪いことを言った気がする。
離れるなんて許さない、とか何様のつもりだ。独占欲が剥き出しで、口調や言葉選びも全体的にねちょねちょしていたし、挙げ句の果てにほっぺたまで触ってしまった。弁柄君のしつこさを非難したが、数段上を行く気色悪さである。
「あの、さっきはごめん。変なこと言って」
取り急ぎ謝ってみたが、烏羽さんは僕の腕を抱き締めたまま動かない。二の腕から指の先までが、体全部でぎゅっと包み込まれている。
触ってくれるということは嫌われてはいないはずだ。しかし、抱き締める以上の反応がないとなると、新たな抗議の形にも思えてくる。バックミラー越しに慶次さんに助けを求めるが、目が合った瞬間、物凄い早さで逸らされた。
僕の家はまだなのか。先ほどから同じ場所でぐるぐる回っている気さえしてくる。烏羽さんの柔らかさから気を紛らわそうと、窓の外を見やる。
「……あれ?」
本当に同じところを回っていないか。
一旦落ち着いて車の走る道順を確認したが、やはり同じ信号で左に曲がり続けている。
「慶次さん。そこ、さっきも曲がりましたよ」
「ん? お、おおう。ごめんごめん。この辺りの道は疎くてなあ」
絶対嘘だ。警察が所管の道を知らないはずがない。白々しい言い分けをする慶次さんを無言で見咎めると、彼は肩を竦めてようやく正しい道を走り出した。
元々近くまでは来ていたのだ。ほどなくして、僕の家のマンションが見えてくる。
「げ」
集合玄関の前で待ち構える母さんも一緒に。
先生達に捕まった時点で長くなることを確信し、母さんに連絡できたところまでは良かった。解放された時に、もうすぐ帰るとメッセージを送ったのも、僕にしては気が利いた方だろう。
だが、母さんの心配性具合を甘く見ていた。
遠目で表情は分からないが、立ち姿だけでも怒っているのが分かる。母さんも車に僕が乗っていることに気がついたようで、肩に一層と力が入る。
「俺、ぶっ叩かれないかな」
不安そうな慶次さんに曖昧な笑みで応える。彼は母さんの前に車を横づけすると、眉間を充分に揉みほぐしてからゆっくりと運転席を降りた。
車の外で、母さんと慶次さんが向き合う。
母さんの身長は平均より高めだが、プロレスラー顔負けの体格を持つ慶次さんと並ぶと子供みたいに小さい。しかし母さんは怯むどころか真っ向から睨み上げ、慶次さんは大きな体を縮こませてぺこぺこと頭を下げる。会話の内容は聞き取れないが、ぐちぐち嫌味を言われていることだろう。
そろそろ慶次さんに助太刀すべきか。
腰を浮かしかけたところで、烏羽さんに腕を引っ張られる。
「烏羽さん?」
彼女は俯いたまま、腕を抱きしめる力を強くする。きゅっと閉じた太腿に手のひらが挟まれ、しっとりした温みに埋まる。
ほっと息を漏らしてしまう温かさだが、悠長にもしていられない。
いつの間にか母さんが車窓にへばりつき、こちらを凝視している。限界まで見開いた目は光がないのに爛々としていて、レーザーでも放ちそうな迫力がある。
「あの、烏羽さん」
「アタシは」
決意の込められた強い口調に遮られる。俯いていた彼女はしっかりと顔を上げ、固い唾を飲み下す。それから薄く息を吐き、太腿の中で指を絡める。
「アタシはホースケと会って、弱くなったと思ってた。でも違った。ホースケのためなら戦える。ホースケが守ってくれるから、アタシはアタシのままでいられるんだ」
烏羽さんの独白の意味は、はっきりは分からない。けれど、彼女にとって大事な意味があることは理解できる。
「アタシは赤錆みたいに可愛くない。濃墨センパイみたいに綺麗じゃないし、桑染サンほど大きくない。それでもホースケは、アタシの傍にいてくれるか」
烏羽さんは目つきが悪いだけで格好いい感じの美人だし、充分に大きいと思うけれど、余計な言葉は不要だろう。目を見つめて頷くと烏羽さんの力が緩み、右手が太腿から解放された。
でも、手は繋がったままだ。後ろでは母さんがいよいよ扉をがちゃがちゃし始めたので、早めに出ていかないと慶次さんが心労で倒れてしまう。
「か、烏羽さん。そろそろ──」
繋いだ手を壁に押し付けられた。空いた片手も座席に抑えつけられ、身動きを封じられる。無防備に体を晒す僕に向かって、烏羽さんが鋭く距離を詰めてくる。
「ん」
唇が合わさった。
烏羽さんの鼻息が熱い。歯がぶつかるのも厭わず、貪るように押し付けられる。呼吸の暇も与えられぬまま、強烈な感情と快感をぶつけられている。もうこれ以上ないくらい接触しているのに彼女は更に前のめりになって、壁沿いにずり落ちる僕を包み込もうと深い口付けを求めてくる。
「貴様あぁっ!!」
突然、後ろの壁がなくなった。
代わりに慣れ親しんだ柔らかさに受け止められ、物凄い速さで引き摺られる。
「わ、私のほう君に何してくれとんじゃあ!!」
頭上で響く母さんの怒鳴り声を聞いて、車から引っ張り出されたのだと理解するが、視線は烏羽さんに釘付けにされたままだ。車から半分身を乗り出した彼女は親指の腹で乱暴に涎を拭い、牙を剥くように笑った。
「今日はありがとな。かっこよかったぞ」
鋭さと無邪気さをあわせた挑発的な笑顔にどきりとする。その一瞬の硬直を感じ取ったらしい母さんは僕を抱える力を強め、殺気を込めた目で烏羽さんを睨む。
「本日は大変ご迷惑をおかけしました! お詫びはまた後日あらためて! 帰るぞ薫子!」
「なんだよお父。そんなに焦んなって」
「お、お前なぁ……! 時と場合は選びなさい!」
母さんの目つきが一層と厳しくなる。慶次さんは警視総監を前にした時みたいな完璧な敬礼をしてから烏羽さんを車に押し込み、大慌てで走り去っていった。
「う゛~! 帰ったらすぐママで上書きするからね!」
暴力はよくない。けれど、女性からの愛情表現は、多少暴力的なくらいなら全然ありだと思う。
母さんの言葉を聞き流しながら僕は、烏羽さんがいた場所をぼうっと眺めていた。




