070
意識ははっきりしていた。
眼に映る光景を事実として認識しているし、音が遠くなるだとか、視野が狭まるなんていうことも起こらなかった。
あくまで冷静に、この男を殺さなければならないと思った。
装具付きの左足がフローリングを踏み締める。固定されていた骨の奥が軋み、針を刺したみたいな痛みが走るが、歩みを止める選択肢はない。
松葉杖を脚の方に持ち替えながら、未だ母さんを殴り続ける男の背中に近寄る。余程夢中になっているのか、僕と桑染さんが家に入ったことに気がついた様子はない。
立ち止まって松葉杖を上段に振り被る。だが、この角度では母さんに当たってしまうかもしれない。腰だめに構え直して、男の頭に狙いをつける。
「だめっ」
後ろから桑染さんの制止の声が聞こえたが、止まりはしない。
鈍器の要領で松葉杖を横に薙ぐ。
持ち手の出っ張り部分が男のこめかみ近くを捉えた。頭がピンボールの球みたいに跳ねて、床に勢いよく倒れ伏す。
男の陰に隠れていた母さんの顔を覗き込む。至る所が腫れており、特に左の頰と口元が酷い。皮膚がぱっくりと裂けて、真っ赤な血が弱々しく流れ出ている。
「お、お前。何をしているのか分かっているのか」
強がりを宣い、男が上体を持ち上げる。腰が抜けて立ち上がれないのか足は震え、暴力に酔っていた笑顔は驚愕と恐怖に上塗りされている。
「おっ、俺は父親だぞ! 誰がお前を育ててやったと思ってるんだ!!」
そうか。これが僕の父親か。
肉親との再会であるが、感動はない。むしろ、母さんを傷つけた男と血が繋がっている事実に落胆する。
もぞもぞと後ずさる様子を冷めた目で見下ろしていると、父の琴線に触れたらしい。怯えた目を精一杯吊り上げて、床にへたり込んだまま威嚇してくる。
「馬鹿が! お前は何も分かっていない! この女は誘拐犯だ! 俺は被害者だぞ!」
「知ってるよ」
短く答える。予想外だったのか父は口を開けて固まるが、すぐに意識を取り戻して再び睨み上げてくる。
「だっ、だったら理解できるはずだ! 俺には、この女を糾弾する権利がある!」
権利はあるのだろう。ちんけなプライドしか持ち合わせていない僕は、捨てたものを盗られただけで人を殴りつけたりはしないが、父にとってはそれほどまでに屈辱的な出来事だった。決して理解の及ばない範疇であれど、すべてを否定することはできない。
けれど。
この男は言葉や法律を放棄し、暴力に訴えた。気障ったらしいスーツからして、さぞご立派な地位についているだろうに、感情的で短絡的な方法を選んだ。
それなら僕は我慢しない。
お前がそれを選んだなら、同じようにしたって構わないだろう。
「ふざけるな。くそ、血が出てる。このガキがっ」
ぶつくさと喧しい。上擦った語尾のせいで愚痴すら腑抜けている。
松葉杖を握り直して前に踏み出すと、父の虚勢は瞬く間に崩れ落ちた。みっともなく腕を振り回し、少しでも距離をとろうとする。肩を動かすだけのそれに怖さはなく、まったく妨げにならない。
「寄るなっ! 俺を誰だと思ってる! 父親だぞ!」
喚く父の頭頂部を狙って、縦に松葉杖を振り下ろす。
小気味好い音と共に父の頭が大きくぶれた。脳が揺れたらしく、背中を壁に擦りながら上体が右下に傾く。
倒れるよりも先に鼻柱に右膝を突き刺す。
壁と膝の間で顔面が潰れた。生暖かい血がズボンを濡らす。そっと蹴り足を戻すと、粘性のある水音を立てながら赤い糸がへばりつく。鉄臭さが鼻につき、思わず眉間に皺が寄る。
「ふがぁっ」
真鴨みたいな嗚咽を漏らした父の顔は、鼻から下が血塗れになっている。だが、見開かれた目には反骨の意が読み取れる。この場で心を折らなければ、延々と僕等に仇をなすだろう。
整髪料で固められた頭髪を引っ張り上げて、もう一度膝をぶつける。みしり、と鈍い音を鳴らしたのは僕の膝か、父の鼻か。どちらにせよ、折れた足ばかりを酷使するのも馬鹿らしい。
父の頭を壁に投げつけて一歩下がる。苦し気な呼吸に合わせてぷくりと泡立つ鼻血がなんとも滑稽である。
「く、がふっ、くそ。お、俺は父親なんだ。子供が親に手をあげるなんて、ありえない」
随分と親であることに拘るが、親心に目覚めたわけではない。この男の中にそういうルールがあるだけだ。
ルール。マニュアル。
僕が過去に受けたというマニュアルによる教育も、ひょっとしたら同じ理屈なのかもしれない。父自身も虐待を受けていて、親というのは無条件で従う存在なのだと教え込まれていたのかもしれない。
僕には関係のないことだ。
松葉杖で床を叩くと、父は過剰に肩を縮こまらせて固く目を瞑った。殴られる瞬間が分からない方が痛いに決まっているのに、それすらも理解できないらしい。
屈んで父と目線を合わせ、胸倉を掴んで壁に押し付ける。
「ひいっ」
父は目を閉じたまま悲鳴を上げる。成人男性とは思えない甲高い悲鳴だ。母さんを殴っていたときの狂気は見る影もない。
汚れた顔面を真っ直ぐに殴りつける。膝を折った姿勢から放つ手打ちの突きであるが、壁のおかげで衝撃が逃げない。がつんと鈍い音がして、父の目が強制的に開かれる。
「お、おれはちちおやなんだぞ」
歪んだ顔で性懲りも無く繰り返す。
思えば、父と真っ直ぐ目を合わすのはこれが初めてか。対面で向き合い初めて言葉を交わすときでさえ、意味の無い血の繋がりに固執するとは。この期に及んでそんな理屈が通用すると、本気で思っているのだろうか。
もう一発殴りつける。頭が赤べこみたいに大げさに振れる。胸倉を掴み直して、殴りやすい位置に引き寄せる。
「なんだって」
「へぇっ?」
「お前が、僕の、なんだって聞いたんだ」
「お、おれはぁ、ちちおや──」
殴りつけて、引き戻す。
壁にぱっと赤色が散った。父の鼻から新しい血が流れ、血塗れの顔を鮮血で染め直す。
「言えよ」
殴りつけて、引き戻す。
切れた口からは血が溢れて声を出すのも苦しそうだが、別に答えは求めていない。小刻みに揺れる瞳を突き刺すみたいに凝視する。
「言え」
殴りつけて、引き戻す。
とうとう耐えきれなくなって、父は子供みたいに泣きじゃくる。泣いて許されるのは赤ん坊だけだ。止める理由にはならない。
「言え」
殴りつけて、引き戻す。
拳を振るたび、右目の奥が熱くなる。動かないはずの瞳孔が収縮するような感覚がして、傷の縁の辺りが蛆でものたうつみたいに疼く。
「言え」
殴りつけて、引き戻す。
熱くて、痒い。拳が父を捉える一瞬だけ、不快感が薄れる。
「言え」
殴りつけて、引き戻す。
熱が脳にまで上がる。回らない頭を誤魔化すみたいに口角が上がる。
「言え」
殴りつけて、引き戻す。
「言え」
殴りつけて、引き戻す。
「言え」
殴りつけて、引き戻す。
「言え!」
「やめて!!」
後ろから腕を掴まれた。反射で振り解こうとするが、力が強い。振り返ってようやく、桑染さんに止められたことを知る。
「もう、やめて」
桑染さんは血に汚れるのも構わず、僕の腕を抱き締める。祈るように項垂れる彼女の後ろから、のろのろと人影が近づいてくる。
「ほう君」
母さん。
顔の左側が酷く腫れ、口の端から血を垂らしている。押さえつけられた時に痛めたのか右の肩が下がり、足取りもぎこちない。
痛ましい姿だ。やはり、母さんを傷つけたこの男を許すことはできない。
桑染さんの胸から強引に腕を抜き取り、とどめを刺すための拳を握る。
ぺちん。
母さんに頬を叩かれた。
理解するのに数秒かかる。撫でる程度の勢いで痛みはまったくないが、焼き付くみたいな感覚が肌に深く残っている。
なぜ。どうして。動揺そのままに母さんを見返す。
母さんは泣いている。しかし、涙で視界を塞がれ唇を震わせながらも、僕を見つめ続ける。
「ほう君」
ぎゅっと抱きすくめられる。冷たい。血を流しすぎたのかと思ったが、僕の体が熱すぎることに気づく。
母さんが抱き締める力を強め、燃え上がった体温が少しずつ移っていく。
「こんな奴と、同じにならないで」
与えるだけでなく、輪郭を確かめるような。迷子を抱き留めるみたいな抱擁。
いつもと違うその感触を、どこか懐かしく思った。




