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ペトリコールと怪女達  作者: カシノ
メアリさんの留守番電話
7/62

007

 あれから四年が経った。

 苦労して手にしたはずの大学生活で、わたしは何を得たのだろう。

 講義の内容も、一人暮らしで得た経験も、すべて取るに足らないものだ。規則化された日々を送るうちに、いつの出来事か判然としなくなった。

 大学生時代を過ごした自室を無気力に見回す。

 相変わらず殺風景な部屋。最低限の家具しか置かれておらず、棚には書籍の類いが点々と並べられているだけ。あの日以来、わたしは何かに興味を持つことができなくなった。

 こんな精神状態でよくもまあ職に就けたものだ。望んでもいないのに降ってきた幸運を自嘲する。

 わたしは今年の四月から、大手企業の実務翻訳家として雇われることが決まっている。

 当然、わたし個人の力で成し得たわけではない。世話になっていたゼミの教授から斡旋された翻訳のアルバイトをこなしているうちに、なし崩し的に声がかかったというだけの話だ。

 教授は初めからわたしを紹介するつもりでアルバイトを任せていたというが、真意はどうでもよかった。取り敢えずの将来が定まったという事実の他に、感じたものはない。

 ただ、一応の感謝はしている。口下手なわたしを気にした教授は色々と便宜を計らったようで、企業と打ち合わせをして面接試験免除の約束を取り付けてくれた。実は、特例の処置を施してもらうため、企業からの依頼をアルバイトという形で優先的にわたしに回していたらしい。

 もっとも、当人の無計画性を知れば落胆するだろう。去年の春には内定が決まっていたのに、二月の今になってようやく引越し先を探し始める怠け振りは、これから社会に出る人間とは到底思えない。

 引っ越しを決めた理由も酷い。

 わたしの新しい業務はアルバイトでやってきたことと大差なく、送られてきた資料を期日までに翻訳するだけだ。在宅業務も許されている。居住地にも厳密な指定はないので、引っ越しする必要はない。

 決断したのは単純に、隣の大学生の騒ぎ声にいい加減我慢できなくなったからだ。何をそんなに大声を出す必要があるのか、結局、大学で一人も友達ができなかったわたしには理解の及ばない領域だが、愚痴をこぼしていてもしょうがない。

 今日中にどこに住むかだけでも決めてしまわないと。

 溜め息を吐いてから、充電ケーブルが刺さったままのスマートフォンを手に取る。

 出来るだけ近場がいい。急な環境の変化は心労しか呼ばない。外出の用事もほとんどないから周辺施設にこだわりもない。

 とりあえず、治安の良さを目安に探せばいいか。

 そういう経緯で近所の地区を適当に調べていると、スクロールする指が止まった。


「……あ」


 数日振りの声が漏れる。

 わたしの目に留まったのは、かつて暮らした町の名前だった。

 二度と見ることはないと思っていた。母が残っているであろうこの町に、戻ろうと考えたことはない。

 それでも、液晶に小さく映る町の名前から、目を離すことができない。


「……包介くん」


 絶望の淵からわたしを引き上げ、再び奈落に突き落とした少年。

 大学に進学した後も諦めきれず、何度か図書館に足を運んだ。しかし、彼が姿を現すことはなく、いつしか家に引き篭もるようになった。

 今、彼は何をしているのだろう。

 あれから色々と考えた。どうして彼は突然姿を消したのか。

 例えば、親の都合で突然引っ越すことになったとか。誰かに邪魔されて図書館に行けなくなってしまったとか。辻褄合わせの理由なら幾らでも挙げられる。

 でも、真実はきっと違う。

 絶対に認めたくないし、だからこそ目を背け続けていたけど、頭のどこかでは理解している。

 包介くんはわたしが嫌いになったのだ。

 毎日のようにベタベタと話しかけてくる気味の悪いデカブツを恐れたのだ。

 しつこく付き纏い、歪なにやけ面で相席を申し込むイかれた女子高生。それがわたしだ。

 そんな危険人物が恥知らずにもデートに誘ってきたのだから、とうとう嫌気がさしたのだろう。

 適当に話を合わせてから姿を消すのは、変質者を振り切る最適解と言える。彼の迷惑も顧みず、わたしは一人で浮かれていただけだ。

 ちゃんと、分かってる。

 それなのにどうしてか、わたしの指は未練がましくあの町の名前を検索している。

 憂鬱な通学路。通っていた近所のスーパー。思い出の古びた図書館。

 辛い記憶がほとんどだけど、細やかな幸せもある。憎み切れない町だったと、今ではそう思える。

 引っ越し先を探すという当初の目的を忘れて感傷に浸っていると、昔通っていた中学校の画像を見つけた。


「……もうすぐ、中学生か」


 包介くんが順調に成長していたら、来年度から中学生になるはずだ。

 彼は一体、どんな男の子になっているだろう。

 正統派の御曹司タイプだろうか。真面目な彼にはクラス委員長が似合うと思う。不良になるわけがないし、素敵な紳士に育っていることは間違いない。

 制服も気になる。学ランか、ブレザーか。

 わたしとしてはぜひ、学ランを着てほしい。成長期を見越して買った大きめサイズの制服に困る彼の姿を想像すると、心がぽかぽかと暖かくなる。畏まった私服でバッチリと決めている時とはまた違う、新たな魅力を発揮してくれるだろう。


「可愛かったなぁ」


 しみじみと思う。

 包介くんとの平穏で幸福に満ちた時間は、決して色褪せることはない。

 思い返すだけ辛くなると分かっているのに、それでも。


「今のわたしを見たら、どう思うかなぁ」


 わたしは大学生になっても何一つ成長していない。

 いや、身長はちょっと伸びて、体重もほんの少しだけ増えたけど、内面はあの頃と同じ子供のままだ。

 だから今、恥知らずにも包介くんに会いたい気持ちを抑えられないでいる。

 本当に勝手な話だ。

 所詮はわたしも、身勝手で業突く張りな母と同じ穴の貉ということだろう。言い訳と自己弁護で塗り固めた都合のいい思考回路は、弱い自分をひたすらに罵倒しながらも、包介くんに会うための算段をつけ始めている。

 一目見るだけ。

 守れるはずもない制約を己に課しながら、わたしは故郷に向かう電車の時刻表を検索した。




 ◇◆◇




 どことなく黴臭い。

 薄っすらと雪が積もった故郷のホームに降りて、最初に抱いた感想はそれだった。

 ぐるりと周囲を見回してみても特段変わったところは見受けられない。錆だらけの鉄骨や無人の改札も当時のままのようだ。

 キョロキョロと視線を動かして辺りの様子を確認していると、わたしを凝視する幼児が目に入った。

 何かおかしなところでもあっただろうか。自分の体をさり気なく改めて、ふと気がつく。

 引きこもってばかりいたから自分の風貌をすっかり忘れていた。

 派手な頭の大女。待ち合わせの目印に使われそうな奇抜さだ。

 注目されると面倒なので上着のフードを目深に被り、さっさと駅の階段を降りる。

 行き先は最初から決まってる。

 スマートフォンを取り出して、昨晩リストアップした観測場所を確認する。

 目的地までの距離は、時間にして十分。一般的な下校時間までには余裕で間に合うので焦る必要はない。

 閑静な住宅地をのんびりと歩く。

 金持ちそうな門構えが多く、疎らに見かける人々は上品な身なりをしている。子供の頃は気にしていなかったが、住みやすいという評判は本当のようだ。

 見栄っ張りの母が好きそうな町。

 大学に進学してから一切の連絡をとっていないので母がここに暮らしているのかさえ分からないが、仮に住んでいたとしたら鉢合わせる可能性もある。

 まあ、面倒事に発展する心配はないだろう。今でも母を恨んでいるが、偶然顔を合わせたとして一目で奴と分かる自信はない。

 母がどんな顔だったか、よく覚えていないのだ。それはきっと向こうも同じで、仮にわたしと出くわしてもそのまま素通りするだろう。

 お互いがお互いに興味がない。どこか知らないところで不幸になっていれば上々である。

 それよりも、包介くんだ。

 彼を見つけ出すには、登下校をおさえるしかない。

 馴染みの町とはいえ、わたしに頼れる知り合いはおらず、学校関係者と上手く交渉する能力もない。遠くから校門を観測する以外に方法がなかった。

 上手く見つけられるだろうか。

 見張りに適した場所は厳選したつもりだが、遠方からの観測のみで出入りする全生徒の顔を確認するのは不可能である。

 そもそも、包介くんが未だこの町に住んでいる確証もない。彼の通う小学校は当時にそれとなく聞き出した記憶を辿っただけで、転校してしまった可能性は十二分に存在する。

 やはり無謀だったか。

 いや、違う。

 あの夜、わたしが感じた情熱は本物だ。理屈をつけたところで止まりはしないし、行動に移さなかったら一生後悔する。

 だったら、回りくどい言葉で自分を正当化するべきではない。

 固めた決意に身を任せ、やり切るだけだ。

 つらつらと内心を吐露して腹をくくり直していると、目的の場所が見えてきた。

 後ろ手でリュックサックを触り、今朝方購入した双眼鏡の感触を確かめる。

 準備万端。

 自身を鼓舞するように、フードの下で薄気味悪く笑った直後だった。


「ちょっ、やめて」

「カイロ貼らないとお腹冷えちゃうでしょ」

「外で服捲る方が絶対冷えるって!」

「わがまま言わない」

「あっ! 冷たっ!」


 曲がり角から白いお腹が現れた。

 それを追いかけるように二本の腕が絡みつき、再び角の向こうに引き摺り込む。

 真冬の往来で、少女が少年を半裸に剥く常軌を逸した光景が繰り広げられていた。


「急に飛び出したら危ないわよ」

「寒っ、寒いっ! 早く服戻して!」

「まだちゃんと貼れてないから。じっとして」


 少年の悲痛な叫びと少女の喜色の滲む諫言が聞こえてくる。

 小学生だろうか。一瞬ではあるが、ランドセルを背負っているのが見えた。

 どういう関係なんだろう。男女間であれほど激しいスキンシップは、子供とはいえ珍しい気がする。

 金髪おばけと呼ばれ、バイ菌扱いされていたわたしには尚更だ。充実した生活を送る子供らに何となく不愉快な気持ちになる。

 いけない。数度瞬きして我を取り戻す。

 こんなところで足を止めている場合ではない。

 終業式だろうか、理由ははっきりしないが、下校時間が想定よりかなり早い。早く観測地点を確保しなければ。

 しかし、何かがわたしの琴線に触れた。

 見覚えがないはずの子供の姿に、爪先が凍りついたように固まっている。

 高鳴る鼓動に疑問を覚えていると、子供達の騒ぎ声が不意に止まった。


「あったかくなってきた」

「ほら、感謝してよ」

「うん、ありがと……熱っ! 凄い熱いよ、このカイロ!」

「あー、服の上から貼るやつみたい」

「なんで直に貼るんだよ!」

「包介、一々うるさい」


 包介。

 考えるよりも早く、わたしの体は曲がり角の先へと飛び出していた。


「わっ」


 少年が驚きの声を上げ、それを誤魔化すように愛想笑いを浮かべる。

 野暮ったい印象だ。体格に合わないもこもこしたダウンジャケットと、右目を覆い隠すボサボサの髪の毛が情けなさに拍車をかけている。

 わたしの知っている包介くんとはまるで違う。

 けど、確信する。彼は包介くんだ。

 恰好は随分変わったが、顔形は当時と同じ。

 長い前髪から覗く優しい瞳と困り眉の笑顔は、わたしの記憶に焼き付けられた微笑みと相違ない。

 僅かに困惑が見え隠れしているが問題ない。むしろいい。

 今の彼は何というか、こう、ちょっと隙がある。

 寒気で桃色に染まった丸い頬も合わさって、色っぽい。生々しい感じがして唆られる、というか。上手く言葉にできないが、独り占めにしてしまいたくなる。

 ああ、いけない。予定外の再会に思考が暴走している。ふとした瞬間に包介くんを抱き上げて、小躍りしながら家に持ち帰ってしまいそうだ。

 誤ちを犯す前にフードを脱いで、火照った頭を外気に晒す。


「……何か用ですか」


 脳のクールダウンに努めていると、横から敵意剥き出しの声が掛けられた。

 空気の読めない奴。

 舌打ちを噛み殺して、不遜な目つきでわたしを睨む少女に視線を移す。

 若さしか取り柄のないような女だ。

 頭の悪そうな茶髪は地毛だろうか。小学生の分際で染めていたとしたら、ど底辺街道真っしぐらなクズである。

 ネコ科を連想させる生意気な瞳も気に入らない。大人を舐め切った態度に礼儀を教えてやりたくなる。

 だけど、こんな奴に構っている暇はない。

 重要なのは、包介くんとどうやってお話しするか、だ。

 彼が約束を破った理由として一番可能性が高いのは、わたしが気持ち悪かったからである。

 そうならば、包介くんにとってこの再会は望ましいものではなく、あからさまにはしないまでも疎ましく思われる危険がある。

 慎重を期さなければならない。不用意な発言は永遠の拒絶に繋がる。

 焦ってはいけない。冷静にならないと。

 もしものためという建前で、じっくり練った包介くんとの会話シミュレーションを思い出す。

 大丈夫。わたしの想いはきっと届く。


「ひ、ひひひ久し振りっ!」


 緊張で口元が強張り、盛大に吃ってしまった。

 出だしから躓いたが、顧みる余裕はない。第一、包介くんは人の失態を笑うほど浅はかな人間ではない。修正は充分に可能だ。

 予定通り、彼の反応を見極めて状況に応じたプランに移行する。

 一つ目は、好意的な反応を返してくれた場合。

 わたしが最も理想とする形だ。会話も滞りなく進むと予想されるので、わたしの近況を話題に挙げた後、それとなくあの日の事情について聞き出す。

 二つ目は、気まずそうな態度を取られた場合。

 このパターンが一番現実的だろう。いくら嫌っていたとはいえ、誠実な彼が約束を反故にしたことを気に病まないわけがない。真相を知るためにも、萎縮させてしまわない慎重な立ち回りが必要になる。

 危惧していた無視や逃走は恐らくない。微笑み返してくれた時点で最悪の選択肢は潰された。

 あとは、包介くんに不審に思われないよう間を置かず、流暢に発言することだけを意識すればいい。

 鼻息が荒くならないようにゆっくりと息を吐いて、包介くんの言葉を待つ。


「ええっと、すみません。どこかでお会いしましたか?」

「え?」


 今、なんて言った?

 わたしのこと、憶えていない?


 包介くんが曖昧な笑みを浮かべて首を傾げる。

 彼の癖だ。答えに窮し、本当に困った時に見せる表情だ。

 目の前の少年は、紛れもなくわたしと約束を交わした男の子だ。

 用事が重なって来られなかっただけだと、答えて欲しかった。

 考えたくはないけど、拒絶される覚悟もしていた。

 彼が約束を破った真相を、どうしても知りたかった。

 会って、理由を聞きたかった。

 なのに、忘れられているなんて。


「ほ、ほら、わたしだよ、桑染メアリ。図書館でいつも一緒だったでしょ?」


 忘れられるはずがない。

 わたし達は半年間、同じ時を過ごしてきた。

 穏やかで緩やかな、暖かい陽だまりに包まれるような幸せを共有していた。

 決して長い期間ではない。

 それでも、包介くんは何度も微笑みかけてくれた。

 辛くて、苦しくて、消えてしまいたかったわたしを救ってくれた。わたしに希望を与えてくれた。

 貴方がわたしの人生を変えてくれた。

 それを今更、なかったことにするなんて。


「嘘、嘘だよね!? だっ、だってそんなの──」


 ひどすぎるよ。

 貴方との思い出を失くしてしまったら、わたしはどうすればいいの。どう生きていけばいいの。

 見捨てるなんて無責任だよ。

 貴方が拾った命なんだから最後まで見ててよ。

 途中で放り出すなんて包介くんらしくないよ。

 ねえ。

 黙ってないでちゃんと答えてよ。

 そんな目で見ないでよ。

 約束破ったことなら許してあげるから。

 昔みたいに仲良くしようよ。

 ねえ。

 何か言ってよ。

 言え。


「逃げるよ!!」


 少女が包介くんの腕を取った。

 咄嗟に手を伸ばすが、寸前で指先が空を切る。

 氷の上ではバランスが崩れた上体を支えることができず、前のめりのまま転んでしまう。

 手のひらを走る鋭い痛み。

 顔を上げると、包介くんたちはすでに走り出していた。

 また、失くしてしまう。


「あの、ごめんなさい」


 少女に連れられながら包介くんが申し訳なさそうに会釈する。

 それから、彼らの背中はあっという間に見えなくなった。わたしはただ、雪中を猛然と走り去る二人の背中を眺めていただけだ。

 このままじゃ何も分からないし、納得できない。


 翌日、包介くんの住居を突き止めたわたしは、彼の隣に住むことを決めた。

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