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ペトリコールと怪女達  作者: カシノ
影の煩い

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069

 雨の日は憂鬱だ。

 特に、晩夏の雨ほど気が滅入るものはない。呼吸するたび肺に張り付く湿気もそうだが、動かずとも汗だか水だか分からない水分に身が包まれるのが何よりも鬱陶しい。包帯で固められた右足の臭いなどは想像したくもない。

 雨の日が続くと自殺が増えると又聞きしたことがあるが、充分に納得できる話だ。厚い雲に重たい空気。仮に翌日晴れたとしても、清々しい日光は濡れた路面から殺人的な湿度を生み出し、より過酷な環境を作り出すのだから始末に負えない。今も先も厳しい現実が待ち受けていると知れば、追い詰められた精神が死を選ぶのも仕方ないと言える。

 そんな天気だからだろうか。

 桑染さんは終始暗い表情だ。いつもは快活な赤錆さんも歯切れが悪く、言葉選びに苦慮している。


「……理解しろっていう方が無理な話よね。足折って、入院して、それで突然、母親が偽物だなんて」


 骨を折ったのは僕の体幹の鍛え方が足らなかったからだ。赤錆さんが気にする必要はない。


「でも、本当なの。包介はお父さんに酷い育て方されて、本当のお母さんはクスリに手を出して捕まった。そのあと千影って奴がやってきて、包介の記憶喪失に漬け込んで」


 そこまで話して、赤錆さんはまた言葉に詰まった。

 父親のことは覚えてはいない。だが、赤錆さん達の持ってきたノートにはどことなく見覚えがあった。一目ですべてを思い出すような都合のいい展開はないが、溝鼠を見かけたような嫌悪感が足先から這い上った。目が滑り、内容はほとんど頭に入らなかったが、おそらく昔の僕は彼女達の言う通り、このノートがすべてと信じ、生活していた。

 母さんが記憶喪失に漬け込んだ、というのも本当だろう。それが事実なら、自分が思っていた以上に長い記憶を失っていたことになるが、不思議とすんなり受け入れられた。

 思い出せるだけでも不審な点は幾つかある。

 母さんは何故、頑なに赤錆さんとの接触を避けたのか。病院に顔を出さないのはどうしてか。

 極め付けは突如明かされた祖母の存在だ。母さんの過去を思えば二度と関わりたくないはずである。それなのに実家に戻ると決心したのは、逃げ場所を作っておきたかったのだろう。

 父がいつ戻ってきても逃げられるように。


「……それで、包介くんはどうするの?」


 桑染さんが顔色を伺いながら聞いてくる。

 母さんをどうするつもりなのか。

 真実を暴いた彼女たちには知る権利がある。

 しかし、僕は答えられない。答えるだけの整理がついていない。母さんが何者なのかは分かった。時たまに感じた違和感の正体も、善意から僕の母親を演じてくれていたことも、はっきりとはしないまでも理解した。

 けれど、そこまでだ。

 僕はどう感じて、何をすべきなのか、まるで見当がつかない。


「あたしは、ちゃんとしたところに相談するべきだと思う」


 赤錆さんの声が静まった病室の中を通る。神妙な声色と断続的な雨音が合わさって、息苦しいほどに空気が重い。


「警察とか、児童相談所とか、そういうところに。だっておかしいじゃない。いくら親切にしてくれたって、結局は他人でしょ? 血が繋がってるわけでも、赤ちゃんだった頃の包介を知ってるわけでもない。成り代わっただけの関係でここまでするなんて、どう考えてもおかしいわよ。それに、包介の事故を都合よく利用した。原因になったあたしが言えることじゃないけど、その、異常だと思う」


 異常。その一言が深く刻まれる。

 赤錆さんは理想的な家庭で育った。立派で優しい両親、祖父母との交流も良好で、赤錆さん自身も芯の通った女性である。誰が見ても理想的で、羨んでしまうような家庭環境だ。

 そんな彼女が、僕と母さんの関係を異常と断じた。正常な価値観を持つ彼女から見て、僕等は異質と判断された。

 僕は、自分を普通だと思ったことはない。体格も頭の回転も、色々な面が他より劣っている。

 だが、不幸だとは感じなかった。仲良くしてくれる友人がいて、信頼できる大人がいて、安心できる母親がいる。運と要領は悪いが、人には恵まれていた。僕は馬鹿なりに努力して彼等に報いようとして、周りもそれを受け入れてくれた。

 面倒は多いし、憂鬱であるとも思う。それでもきっと、僕は生きることが楽しかった。これが幸福だと信じていた。

 僕は、間違っていたのだろうか。


「わたしは、そうは思わない」


 力強い声だった。桑染さんは俯きがちに、しかし、明瞭に言葉を紡ぐ。


「赤錆の意見は正しいと思う。でも、全部が正しさで出来ているわけじゃない」


 詳しく聞いたことはないが、桑染さんが過去に家族で苦労したのは知っている。全く問題のない家庭なんてものはごく一握りしか存在しないと思うが、桑染さんは一際複雑な事情を抱えていた。


「わたしの母親はろくでなしだった。何も考えないでわたしを産んで、育てもしないで自分の好き勝手に生きてた。どうしようもない女だよ。親だと思ったこともない。どこがで野垂れ死んでればいいのにって、今でもたまに思う」


 典型的なネグレクト。話で聞く分には現実味が湧かないが、実際にそういう環境の下にいた桑染さんにとっては、簡単に流せる記憶ではないはずだ。虐待された過去を忘れた僕に、共感する資格はない。


「血の繋がりを大切するのは分かる。人間も動物なんだし、子孫を残すことにはちゃんとした意味がある。でも、血が繋がっていないから親子じゃないっていうのは乱暴だよ。わたしは、包介くんと千影さんの生活を隣で見てきた。一緒にご飯を食べたり、一日の出来事を話したり、二人で家事を分担したり。赤錆には歪に映るかもしれないけど、わたしにとっては理想の光景だった」


 桑染さんは一度、息を継ぐ。


「どうするか決めるのは包介くんだよ。法律に頼るのは、それからでいい」


 桑染さんの青い双眸が真っ直ぐに僕を見据える。赤錆さんは口を真一文字に結び、静かに両拳を握り締める。


 自分のことは自分で決める。


 当たり前の道理だが酷く悩ましく、選択の責任が重りとなってのしかかる。

 雨音がうるさい。窓際で眺めのいいベッドが、今だけは疎ましく感じられた。




 ◇◆◇




「タクシー代、すみません」

「ううん、そのために来たんだから。気にしないで」


 マンションの前。走り去るタクシーを見ながら桑染さんに謝ると、彼女は財布の入った後ろポケットを軽く叩いてはにかんだ。


「雨、止まなかったね」

「はい。明日も降りますかね」

「どうだろ。予報だと晴れるんじゃなかったかな」

「そうだといいんですけど」


 骨の固定は済んだが、松葉杖と仰々しい装具は取れていない。しばらくはタクシーでの通学を強いられる。雨降りの中、悠々と車内から姿を見せたりした日には、ブルジョワ野郎などと顰蹙をもらいかねない。

 ましてや僕は、文化祭の準備を全くと言っていいほど手伝えていないのだ。これ以上の反感を買う行動は避けたい。できることなら、目立たないように復帰したかった。


「今日の晩御飯どうしよっかな」


 沈黙を嫌ってか、桑染さんは話しかけるような独り言を溢す。病院食は不味くはなかったが、育ち盛りの腹には量が足りなかった。言われてみればと空腹を思い出し、腹が控えめに音を鳴らす。


「おなかなっちゃったね」

「……恥ずかしい」

「ふふふ。うらやましいなぁ。わたしも久しぶりに誰かの手料理食べたいなぁ」


 桑染さんがちらちらと視線を寄越してくる。明らかに誘われるのを待っているけれど、食い意地なんかではない。

 気遣われている。僕と母さんを二人きりにしないように。


「ごめんなさい。こんなことまで、面倒をかけてしまって」

「え、え~? なんのこと?」


 桑染さんはから惚けてみせたが、そこから先は続かなかった。気まずい間が空いたまま無言でマンションの玄関を跨ぐ。いつも通りにオートロックの鍵を開け、エレベーターを呼び出す。

 エレベーターは五階に止まっていた。五階に住んでいるのは桑染さんと榛摺さん、それに僕と母さんだけだ。母さんの仕事が終わるにはまだ早いし、榛摺さんが帰ってきたのだろう。彼女にも迷惑をかけたし近いうちに謝りにいこうと思っていると、エレベーターが到着する。


「包介くん……?」


 エレベーター。籠型の昇降機。

 病的な雰囲気のする照明が点いた狭苦しい箱を前に立ち止まっていると、桑染さんが怪訝そうに声をかけてくる。愛想笑いを返してからエレベーターに乗り込み、扉を抑えて桑染さんを待つ。

 彼女はまだ怪しんでいたが、何も言わずにエレベーターに乗った。肩を縮こまらせて僕の横を通り抜け、すぐ後ろにぴったりと張り付く。

 扉が閉まり、空間が密閉される。

 篭る空気。無機質な壁の圧迫感。動き始めの妙な負荷。独特の雰囲気は何度乗っても好きになれない。

 だが、前ほどの緊張は覚えない。他人と一緒に乗る、という一番苦手な状況にも関わらず、嫌な息苦しさもない。むしろ安心感さえ湧いてくるのは、僕が桑染さんに慣れたからだろう。

 慣れ。

 生物が楽をするために備わっている能力。繰り返し経験するうちに脳が状況を記録し、体が順応していくこと。記憶を失った僕にも、その機能は備わっている。

 桑染さんとのエレベーターが平気になった。烏羽さんの突き蹴りを目で追えるようになったし、赤錆さんの怖い話にも耐えられるになった。

 何より、今日の夕食を想像したとき、当たり前に母さんの手料理が思い起こされた。


 そうだ。初めから答えは決まっていた。

 僕には母さん以外が母親である世界が想像できない。頭で理屈を捏ねたところで、体がそれを認めない。

 血も法律も関係ない。僕の体は、母さんが母親であることに慣れている。

 だったら、僕にできることは変わらない。

 正面から向き合うこと。母さんの考えとか思いを聞くこと。それら全部を受け止めたうえで、僕の気持ちを伝えること。

 それで終わりだ。お互いに胸の内を吐き出してすっきりするだけだ。

 今までも何度だってやってきた。息子と母親の、家族の当たり前の向かい合いがあるだけだ。

 僕と母さんは、紛れもなく家族だ。


 頭の整理がついた途端、肩がすっと軽くなった。ちょうどエレベーターも着いたので、桑染さんに先に降りてもらう。

 彼女を追ってエレベーターを降りる。外廊下から見える景色は相変わらずの雨模様で、五階にいるからだろうか雨粒が大きく見え、湿気は地上より重たいが、気持ちは前を向いている。


「……もう決めたの?」

「はい。やっぱり僕の母親は、母さんだけですから」


 桑染さんの問い掛けにも、迷いなく答えることができた。彼女は一瞬目を見張るが、僕の表情を認めて、ふっと目元を和らげる。


「うん。包介くんが決めたことだもん。わたしも賛成」

「ありがとうございます。……それで、お礼ってわけじゃないんですけど、よかったら一緒にご飯食べませんか?」

「えっ!? いいの!?」

「もちろん。こんなに助けて貰いましたから。母さんも是非って言いますよ」

「え、えー? 言うかなあ?」

「多分大丈夫です。さ、いきましょいきましょ」


 気まずい空気はもうやめだ。弾んだ口調で桑染さんの背中を押しながら、玄関扉に鍵を差し込む。


「あれ」


 開いている。

 オートロックがあるとはいえ、玄関は毎度施錠している。桑染さんのストーキングが発覚してからは特に気をつけるよう母さんに言い含められていたし、当の本人が締め忘れるとは思えない。

 いや、そんな深刻な話ではないだろう。忙しくしてたまたま忘れてしまっただけだ。浮かんだ不安を頭の隅に追いやりながら扉を開くと、真っ先に土間の異物が目に入る。

 磨かれた革靴。

 僕と母さんは革靴なんて履かない。来客でも来ているのか。嫌な予感がますます強くなり、松葉杖の先端を拭くのも厭って居間に向かう。


「母さん?」


 居間への戸は開いていた。先ほどから、床と何かがぶつかる硬い音がする。松葉杖を抱え直して、物音の方を覗き込む。


 食卓の近く。

 床に押さえつけられる母さんと、見覚えのないスーツの男。


「は! ははは!!」


 男が歯を剥いて笑っている。

 母さんに馬乗りになって、笑いながら殴りつけている。

二連エレベーター

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