068
「銀煤竹さん?」
「はいっ」
上司の小鹿さんに声をかけられ、反射的に背筋を正す。どうやら画面を見ながら固まっていたらしい。
「すみません。備品の発注でしたよね。すぐやります」
「ああ、いいのよ全然。急ぎじゃないし。最近疲れてそうだから大丈夫かなと思って」
たしかに、最近は色々ありすぎた。主にほう君関係で。
隣人がストーカー。急にできた不良の友達。変態教師の暴行による緊急入院。極め付けは、階段から落ちて足の骨を折った。
思い返すと、あのドタバタが蘇ってくる。疲れも顔に出たらしく、小鹿さんが慌てて首を振る。
「あっ、今のパワハラっぽいか。いや、ほんとに全然そんなことなくて、千影さん、面倒みてる甥っ子さんが骨折したって言ってたでしょ? 有給も全然使ってないし、ちょっと休んで家のことに専念してくれてもいいのよ?」
「……ありがとうございます。調整してみます」
絞り出すように社交辞令を述べる。小鹿さんは納得していなかったが私の意固地を感じ取り、名残惜しげに自席に戻った。
休んで解決するなら、いくらでも休む。でも、心労は別にある。
黒橡細雄の帰国。
あの男の海外出張の予定である六年は、後数ヶ月まで迫っている。
できることはした。電話番号を変えて連絡手段を断った。ほう君が記憶を失ってからは振り込まれる金に手をつけていない。ほう君の学校を考えると遠方に引っ越すことはできなかったが、役所に家庭内暴力があったと訴え、実父でも簡単には追えないようにしてある。つい先月は、もしもの時の避難場所として、行きたくもない実家に顔も出した。
それでも不安は拭えない。出世のために子供を道具に作り替えた男だ。どこまでも周到なあの男を相手に、油断していい隙なんてない。
「ふー……」
悩んでいても仕方ない。今はとにかく、仕事を片付けよう。
座り直して眉間を揉んで、モニターに向き直る。
「銀煤竹さんっ」
今度はなんだ。水をさされた苛立ちを抑えて、なんでもない顔で声の方を振り返る。
受付窓口側に座る新卒の女の子が、興奮に鼻を膨らませて立っていた。鼻頭に浮いた汗は如何にも慌てた様子だが、表情は明るく口角は上がっている。対応に焦っているというよりは気持ちが急いただけのようだ。
「どうしたの? 来客の予定はなかったと思うけど」
「あ、あのっ、旦那さんがお見えになってます」
「……あ?」
時間が止まる。音も臭いも遮断される。ピントがずれたみたいに薄ぼけた視界の中、後輩の背後から気遣うようにして一人の男が姿を現す。
「久しぶり」
黒橡細雄。
後ろに撫で付けた黒髪に、縦縞の入った深紺色のスーツ。外面の良い笑みを貼り付けて商社マンの出来る夫を演じているが、笑顔に細めた目蓋の隙間から光のない瞳が冷たく私を見据えている。
なんで。
そのひと言すら声に出ない。寒気と共に思考が渦巻き、口が短く呼吸をさせる。
「ちょっ、ちょっと千影さん! あんな素敵な旦那さんがいるなんて聞いてないわよ! 甥っ子さん預かってるって言うから、てっきり独身だと──」
小鹿さんの耳打ちが脳を素通りする。動かなければと繰り返し思うが、そこから先に進めない。出来の悪い機械みたいに、頭が無限にループしている。
「いつも妻がお世話になっています。よかったら頂いてください」
硬直する私を他所に、黒橡細雄は根回しを始める。同僚達はこの男の悍ましさを知らない。金持ちそうな男が愛想良く振る舞う姿に呆気なく心を許す。
「突然お伺いしてすみません。ようやく海外から帰って来られて、どうしても妻に会いたかったものですから」
「ああっ、海外に。いやあ、大変ですねぇ。もうっ、千影さんも言ってくれたらいいのに」
「ははっ。妻にはそういうところがありますから」
「そうそう。あっ、そういえば甥っ子さんが怪我されたんですよね。せっかく旦那様もお戻りになられたんだし、やっぱり早退しちゃいなさいよ」
「……え?」
逃げ場がなくなる。黒橡細雄はごく自然に、私の日常を侵食していく。
「すみません。催促したみたいになってしまって」
「いいんですいいんです。千影さんにはいっつもお世話になってますから。こんな時くらい、お休み取ってもらわないと」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えさせていただきます」
挨拶を済ませた黒橡細雄が私を振り返る。
ほう君と同じ深い黒色の瞳。
けれどそれは、あの子の右目よりも無機質で、ずっと暗い色に覆われていた。
◇◆◇
「乗れ」
会社から出た瞬間に表情を失くした黒橡細雄は、黒い外車に向かって顎をしゃくる。
屋根のない普通のコインパーキングだ。今ならまだ逃げられる。大声で助けを呼べば一時凌ぎはできる。
「妙なことは考えるなよ。お前のやってきたことは、すべて調べがついている。あれのことが大事なら、黙って乗れ」
そんな短絡的な発想を、この男が許すわけがない。どうせ逃げられないことくらい、知っていたはずだ。
そう自分を納得させてみても足の震えが止まらない。さっきからずっと地面が傾いて見えている。
いやに重たい右腕を持ち上げ、磨かれた銀の取手を掴む。車の窓ガラスには目の落ち窪んだ青白い顔の女が映っている。
ドアを開けて助手席に座ると、黒橡細雄は視線でシートベルトを着けるよう指示する。安否を気にしているのではない。自分の手で逃げる意思を奪わせるためだ。目を合わせないようにしながらベルトを締めると、黒橡細雄は窓ガラス越しに嗤った。
黒橡細雄が運転席に乗り込む。車内は広く、座席の距離は離れているが、首元に針を突き付けられているような息苦しさがある。
ギアが入って、車が動き出す。カーナビは目的地を示していない。けれど黒橡細雄は、迷いのないハンドル捌きで運転する。
「どこに、行くつもり」
「行けば分かる」
意を決して質問したが、一蹴される。赤信号の待ち時間が長い。こめかみの冷や汗が口の端に流れ、塩辛さが舌を刺す。
「それにしても、随分と御執心じゃないか」
「……あ?」
話しかけられるとは思っていなかった。ほう君のこととは分かっているが、口が追いついてこない。黒橡細雄はバックミラーで私を見やり、短く鼻を鳴らす。
「息子のことだ。外での立ち回りは覚えさせたが、個性を出すようには躾けていない。よくもまあ、そこまで愛着を持てるものだ。道具としては良い出来でも、あれに人間味はないだろう」
恐怖が怒りに反転にした。
青褪めた顔に一瞬で血が昇り、固まっていた筋肉は今にも殴り掛かろうと熱を持つ。
「ふざけるな……! あの子をあんな風になったのは、全部お前のせいだろうが!!」
意味がないと分かっていても、我慢ならなかった。
「あの子は記憶を失った、もうお前の道具じゃない!」
「ああ。そうらしいな」
私の怒りとは対照的に、黒橡細雄は表情をなくす。こともなげに答えると頬杖をつき、ハンドルを片手に握り変える。
「あれが役目を果たせなくなったことは既に聞いている。もっとも、あれの役割はただのきっかけ作りだからな。俺の能力が正当に評価された今、あれがどうなろうが知ったことではない」
「だったら──」
「だが」
強い語気で遮られる。首は変わらず正面を向いたままだが、初めて私に意識を向ける。脅迫めいた威圧感を全身に漂わせ、不愉快そうに眉間を押さえる。
「元妻の例がある。野放しにして足を引っ張られては面倒だ。首輪だけはしっかりつけておかなくてはな」
言い切るのと同時に車が止まった。信号待ちではない。目的地に着いたようだ。
助手席の窓から睨むように外を見やる。
ぞ、と血の気が引いた。
「市内に引っ越すとはな。どこまでも脳の足りない女だ」
私とほう君が住むマンション。
どうして。住所は追えないようにしている。いや、曲がりなりにも血縁者、時間をかければ調べることはできるかもしれない。
けれど、私の職場は。ほう君が記憶を失ったことは。海外にいながら、見透かすような口調で話せるほどの情報を掴めるとは思えない。
ずっと前から監視されていた?
違う。この男は自分の立場を脅かす可能性を放っては置かない。気づいた時点で行動に移す。だから、私たちの状況を知ったのは最近のはず。
だったらどうやって。
こいつは一体、どこまで知っている。
「早く降りろ」
黒橡細雄が車を降りて、助手席のドアを開けにくる。怖気がつく思案を巡らせ動けないでいると、腕を掴まれて外に放り出される。
「いっ」
咄嗟に手のひらをつき、アスファルトで擦った。皮の下に血が滲む。当たり前だが、黒橡細雄は手を貸す素振りすら見せない。自分が投げ捨てて怪我をさせたと認識したうえで、私が立ち上がるのを待っている。
「時間稼ぎのつもりか?」
奥歯を噛み締めて震える膝を手のひらで押す。黒橡細雄は舌打ちを吐き、顎をしゃくって私を急かす。
見慣れたはずの自動ドアとの距離が分からない。ほんの数歩の距離なのに足が重い。体がこの先に進むことを拒否している。神経質なだけの痩せた男に、心の底から怯えている。
それでも頭は前に歩けと命令する。爪先を引き摺りながら自動ドアをくぐり、覚束ない手つきで鍵を開ける。オートロックは解錠されたが、黒橡細雄は前に出ない。私の後ろで舌打ちを繰り返し、あくまで私に先導させようとする。
急かされるままにエレベーターのボタンを押す。扉の奥から聞こえる駆動音が静寂の中に響く。一秒の間すら長く感じ、手のひらの傷に汗が滲みる。
ちん。
能天気な音を奏でてエレベーターが到着する。開いた扉の先にある窮屈な空間が、粗悪な牢に見えてくる。
乗り込んだ瞬間、篭った空気が肺に流れ込む。漠然とした気持ち悪さに嗚咽を堪えていると黒橡細雄が乗り込んできて、寒気がますます酷くなる。
「五階だろう。早く押せ」
住所が完全に抑えられていることがはっきりする。どうせ部屋の番号も知られているだろう。扉がぴっちりと閉まり、完全に閉じ込められる。
無言。
黒橡細雄の気配を背中に強く感じる。
だがやはり、こいつはただの人間だ。地位に固執して気が狂っただけの一人の男だ。何もかもを見通す超能力を持っているわけではない。
私の住所。職場。そして、ほう君の記憶障害。海の向こうからすべてを知ることはできない。協力者がいるはずだ。
だが、その存在を突き止めたところでどうなる。そもそも、この男が現れた時点で私の破滅は決定している。
私はほう君の記憶喪失に漬け込んだ、ただの他人だ。虐待の過去があろうと世間からすれば誘拐犯であることに変わりはなく、何より、ほう君を騙し続けていた事実は消えない。黒橡細雄の手でほう君が真実を知った瞬間、嘘の上に築いてきた私たちの関係は土台から崩れ落ちることになる。
終わりだ。全部。
エレベーターが到着した。黒橡細雄が強く床を踏み鳴らし、先に進めと急かしてくる。
顔は上げられない。下を向いたまま、竦んだ足を無理やり動かす。靴裏を擦ってしか進めない両足には死刑台に向かうような惨めたらしい未練がまとわりついている。
しかし、どんなに鈍い足取りであっても、たかがマンションの廊下だ。三十秒も経たないうちに私たちの部屋の前に辿り着く。
黒橡細雄が目線で鍵を開けるよう催促する。従う以外に道のない私は、口を噤んで扉を開けるしかない。
「汚い部屋だ」
黒橡細雄は家の中を一目見ると、これ見よがしに眉を顰めた。鞄から使い捨てのスリッパを取り出して床に叩きつけ、乱雑に履き替える。
異物が私たちの家に侵入する。
職場に現れた時よりも数倍上の寒気が迫り上がるが、この男には関係がない。ごみ屋敷にでも入るみたいな顔でリビングまで直進し、食卓の前で立ち止まる。
「あれはいつ戻る予定だ」
ほう君が戻るまで居座り、そのままあの子を連れて行くつもりだ。
即日速攻。逃げる暇を与えず、今日のうちにすべてを終わらせる算段だ。
でも、こいつは知らない。
ほう君には、桑染メアリがついている。
あのストーカーは、ほう君が連れて行かれるのを黙って見過ごす女じゃない。外部の人間に強く出られない黒橡細雄にとって、最大の障害になるはずだ。泥沼の言い争いに持ち込めば、この場を凌ぐことはできる。
そうすれば、実家に逃げ込む猶予が得られる。ほう君は優しい子だ。私の正体を知ったとしても、話を聞く時間は設けてくれる。その最後のチャンスを使って虐待の証拠を揃え、黒橡細雄という男の悍ましさを理解して貰えたなら、ほう君がこいつのものになることだけは避けられる。
ならば、私のすべきことは。
「……誰が言うかよ」
「なに?」
「お前は子供を虐待した犯罪者だ。お前なんかに、ほう君は渡さない」
唇が震える。目頭が熱い。戦う表情はしていないだろう。
知ったことか。
見栄なんてどうでもいい。私はこの男とは違う。
ほう君の母親になること。
この六年間、私はその一点のためだけに生きてきた。偽物だとばれるのも、嫌われることだって知っていた。それでも私は、もう迷わないと決めたんじゃないか。
手のひらの痛みごと拳を握り締め、涙でぼやける視界のまま黒橡細雄を睨み上げる。
「俺を非難するのか」
忌々しげな顔。見下す目つき。
私と話すときの黒橡細雄はいつだって、蛾の幼虫を前にしたような不快感だけを露わにしていた。
だが、今のこいつは。
全身を戦慄かせ、肩は上がり、こめかみには太い青筋を張っている。引き攣るように見開いた瞳は、明確な殺意を宿している。
「売女如きが、この俺を」
黒橡細雄が一歩踏み出す。激情に支配された足取りには見覚えがある。
行為に及ぼうとする父親に抵抗したとき。金の無心を繰り返す交際相手と言い争いになったとき。
暴力を振り翳す前の男は、どれも同じ顔をする。目を血走らせ、震えるほどに歯を噛み締めて、呼吸を止めて近づいてくる。
あれらと同じ顔をした黒橡細雄が、拳を高く振りかぶった。




