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ペトリコールと怪女達  作者: カシノ
影の煩い

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067

 包介君が撥ねられてから四日が経った。

 包介君は未だに目覚めていない。今も病床の上で眠り続けている。

 本当なら、一日中彼に付きっきりでいるべきだ。けれど私は、カーテンの締め切った家に引きこもっていた。

 病院に包介君と私の関係性がばれたからだ。

 日々の生活では、ばれる心配はなかった。連絡手段を持たない包介君は身元確認の際、警察から学校、学校から家に電話が入って私に撥ねられた事実が伝わったわけであるが、電話口の担任は私を母親と疑いもしなかった。

 しかし、入院となれば話は違う。学校相手なら口先で騙せるが、金の関わる身分証明は誤魔化せない。公的な書類を偽造できるはずもなく、私は包介君と同居する他人にすぎないことが暴かれてしまった。

 そうなると、私の立場は一気に危ういものになる。

 一斉に向けられる疑いの視線。包介君を撥ねたあの女を締め上げたのも悪い方向に作用した。私という正体不明の女の印象は、病院内に強く刻み込まれたはずだ。お節介な誰かが児童相談所に通報する可能性もある。


「くそが」


 煙草代わりのタブレットを口に放り込み一気に噛み砕くが、焦りは紛れない。心が波だったまま、時間だけが過ぎていく。


 プルル。


 何度目にもなる溜め息を吐いたところで、携帯電話が鳴った。反射で手に取り、耳に当てる。


銀煤竹(ぎんすすたけ)千影(ちかげ)さんのお電話でしょうか。黒橡包介さんが目を覚ましましたので、一度──」


 包介君が目を覚ました。

 相手が言い切るより先に電話を切り、着の身着のまま、一目散に家を飛び出す。病院に向かって走りながらタクシーを呼び、通りに出てちょうど到着したそれに転がり込む。


「市立病院まで!」


 怒鳴るように行き先を告げると、タクシーはすぐに発車した。幸い、道は空いている。信号に捕まることなくするすると進み、十分ちょっとで病院に到着する。

 唯一ポケットに突っ込んできたスマホで支払いを済ませ、目の前の病院に駆け込む。息を切らせた私に受付の女が目を見開いたが、説明している暇はない。

 面会証をかっぱらい、エレベーターをちらと確認する。遅い。階段の方が早い。判断は一瞬で、すぐさま階段に向かって走り、前のめりのまま一段目に足をかける。

 二階、三階、四階。

 階を越えるごとに呼吸が苦しくなる。額に浮いた汗が目に流れ、涙と混ざって視界がぼやける。それでも止まらない。止めれない。足元の感覚を頼りに登り進め、ようやく五階に辿り着く。病室の場所は覚えている。入り組んだ廊下を早足で突っ切り、


「包介君!」


 眼鏡をかけた白髪の医者と幾人の看護師。それらが取り囲むベッドの上で、包介君が体を起こしていた。扉の開く音に反応して、首がぎこちなく向けられる。

 動いている。顔は相変わらず包帯だらけだが、隙間から覗く左目は確かに私を捉えている。

 抱きしめようと体が走る。しかし、包帯だらけの傷ついた体が私の衝動を思い留まらせ、ベッドの前で足が止まる。掛ける言葉も見つからず立ち尽くすことしかできないでいると、医者がゆっくりと振り返る。眼鏡の奥の眼差しは険しく、神妙な雰囲気を纏っている。


「銀煤竹さん。包介君について、お話しがあります」


 碌な話でないことは、声色だけで伝わった。




 ◇◆◇




 右目の散瞳。残った傷。

 そして、記憶障害。

 包介君の側で、医者から諭すように告げられた内容を反芻する。そのたびに胸の奥が灼きついて、中身のない吐き気が込み上げてくる。


「なんでだよ」


 思わず溢れた呟きに包介君が反応する。けれど、反応と呼ぶには表情がない。音がしたから向いただけだ。興味を持ったわけではない。今の包介君にとって私は、廊下を歩く病人と変わらない存在だった。

 包介君の記憶障害。医者の推測ではあるが、包介君はエピソード記憶、とりわけ人に関する記憶を失っているらしい。

 その見立てに間違いはないだろう。思い出す期待も薄い。彼にとって他人とは、自分が行動を起こすうえでの外的要因でしかない。

 医者は、言葉の意味は理解しているのに声を出さないのも気にかかると話していたが、それについても納得できた。包介君が自分から話さないのは、話しかける習慣がないからだ。自分の気持ちを伝えることは彼の日常ではなかった。


「くそ……」


 包帯の巻かれた右手を握る。微かに腕がびくついて、項垂れる私を覗き込むように首を傾げる。

 何もかも見透かすようでいて、ただ景色を映しているだけにも見える、深い夜のような瞳。包帯から免れたその左目が、私を見つめている。


「どうして。どうしてだろうね。なんで包介君ばっかりが、こんな目に遭うんだろうね」


 私が何を言っているか、理解できないだろう。包介君は自らの不幸を知らない。言われるがままに生きてきたこの子は、自分を撥ねた者への怒りも、記憶を失った恐怖も感じることができない。あのマニュアルがすっぽり落ち抜けた結果、包介君自身の空虚さが浮き彫りになっている。


「ごめんね」


 何もできない自分の不甲斐なさか。時間はあると悠長に構えていた自分の間抜けさか。

 何に対しての謝罪かは分からない。溢れた涙が頬を伝い、熱の跡を残して落ちる。ひくつく喉を抑えきれず、しゃっくりみたいな嗚咽が漏れる。


「え」


 不意に、頬を触られた。

 人の肌。包介君の左手が、ぴったりと頬に添えられている。


「包介君?」


 親指が優しく目の下を拭い、体温を分け与えるように輪郭を撫でる。

 何故そうしたか自分でも分かっていないのだろう、きょとんと見開かれた瞳には目元の腫れた私が映っている。

 一ヶ月と少し、寝食に加えて入浴も共にしたが結局は同居人止まりで、その他大勢と一緒に忘れられた、泣きじゃくるだけの無力な女。

 けれど、今は。今からの私は。

 ぞわり、と。

 脳に浮かんだ悍ましい考えに鳥肌が立つ。黒橡細雄にも劣らない、立場を悪用した卑劣な発想。

 もう一度、包介君と目が合う。鏡のように無機質な瞳。けれど、感情がないわけではない。どこまでも純粋なだけ。人を疑うことを知らないだけ。私の浅ましさを知らないだけ。

 頬に添えられた包介君の左手に、手のひらを重ねる。子供の体温だ。自らに抱いた嫌悪を忘れてしまうくらい、この柔らかさを失いたくないと強く思う。


「ふぅ──」


 始めてしまえば、後戻りはできない。嘘で始めた関係のうえに、嘘を上塗りする行為。終わりがあるのは明らかで、後に残るのは裏切られた包介君と何者でもなくなった私だけ。誰一人、幸せになれない。

 それでも、私は。


「私は千影(ちかげ)。包介君のお母さんだよ」


 私はもう、迷わない。

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