066
胸元のもぞもぞとした感触に目を覚ます。
ベッド脇のナイトテーブルに置いた目覚まし時計に目をやると、時刻は六時を示していた。私の起床には早すぎるが、胸元の彼は活動を始める時間だ。
「うぅん」
欠伸とも唸り共つかない声を漏らしながら、小さな体を今一度強く抱きしめる。寝起きで崩れた髪に鼻を突っ込むと、仄かに汗の香りがした。
三月のまだ凍える時期だが、くっついて寝れば汗も掻く。体温の高い子供が相手となれば尚のことだ。
髪に鼻を押し当てたまま深呼吸して彼の生を実感しているうちに、段々と意識がはっきりしてきた。同時に自分も寝汗を掻いていることに気がついて、それとなく抱きしめる力を緩める。
「おはよう。包介君」
「……おはようございます」
目を合わせて朝の挨拶を交わす。包介君は相変わらずの愛想笑いを浮かべるが、私が好き放題したせいで髪型はぐちゃぐちゃだ。よく見れば目やにもついている。目の前のこの子は、間違いなく人間だ。
一緒に寝るようにしてよかった。
包介君の過去を知ったあの日、私は一日中彼を抱きしめ続けた。それは布団の中まで続き、勢いで一夜を過ごすことになったのだが、強引な同衾が功を奏した。
包介君は黒橡細雄の作ったマニュアルに縛られている。けど、抜け穴は沢山ある。特に、親の指示に従うという最優先の項目を使えば、幾らでも融通を利かせられる。
私と一緒に寝ること。そのひとつを命令するだけで、就寝時間、起床時間、寝る時の姿勢と布団の掛け方の規定を取っ払うことができる。包介君の子供らしさを取り戻せると思えば、寝汗の熱気なんてどうでもいい。
いや、それもちょっと違うか。
包介君のためと言い聞かせているが、この同衾を楽しんでいる自分は確かにいる。
皺一つないお肌はどこを触ってもぷにぷにで、熱いくらいに温かい体を抱いていると腹の底から元気が湧く。もにょもにょ動く唇を見るたびに笑みが溢れ、鼻先をくすぐる髪の毛の先すら愛おしい。
人肌は心地良いものだ。夜の仕事をしている時は精神を遠くに飛ばしてやり過ごしていたが、可愛い子供が相手だとこうも変わるとは思いもしなかった。
昨夜の感触を思い出しながら包介君の手をにぎにぎしていると、不安げに私を見上げる視線に気がつく。
そろそろ朝ごはんの支度を始めたい頃だろう。私としてはまだ寝足りないし、包介君を再び布団に引き摺り込みたいところだが、だらけた生活に誘うには関係値が足りていない。
「あの甘い玉子焼き好きだから、スクランブルエッグと取り替えてほしいな」
今朝は洋食の番だが、一品だけの交換を提案してみる。包介君は困った様子もなく、むしろ朝ごはんの支度に取り掛かる許可を貰って安心したようだ。短く返事をすると、とたとたと部屋を後にする。
「……よし」
私の命令でルールを上書きする。これを少しずつ進めていけば、包介君は柔軟な行動を覚えていく。どれだけ時間が掛かるかは分からないけど、いずれ普通の子供のように自分の意思と欲求によって物事を判断できるようになるはずだ。
「がんばろう」
あの子の人生を取り戻すために。
昨晩考えついた秘策を思い出しながら、私は小さく拳を握った。
◇◆◇
学校に向かう包介君を見送った後、家の掃除と洗濯をしてから包介君の部屋で本を読み、集中力が切れたら早めに晩御飯の支度をする。
それで大体午後六時。空は深い藍色に染まり、街灯の光を受けた残雪が淡白く輝く時間。小学生が出歩くには心許ない暗さになってようやく、包介君は帰宅する。
毎日六時きっかりに帰ってくるから、六時まで帰ってこられない規則があるのかと例のノートを探したが、どうやら違うらしい。門限は六時に定められてはいるものの、何時に帰るかまでは指示されていなかった。
学校が終わるのは午後二時頃なので、どこかで時間を潰していることになる。ゲーム機のひとつも持っていない小学生が友達と仲良く遊んでいるイメージが湧かず、放課後に何をしているのか聞いてみたところ、なんと図書館で友達と一緒に勉強しているらしい。包介君に友達がいたことに安心する反面、ちょっと悔しく思ったのは秘密だ。
ともあれ、母親の役目は帰ってきた息子の無事を喜び、精一杯お世話することにある。包介君が手洗いうがいを済ませている間に夕食の最後の仕上げを終わらせる。
今晩の献立はハンバーグ。大人みたいな包介君だが、食の好みは年相応だ。表に出さないだけで好き嫌いはある。三角食べは徹底しているが、苦手な酸っぱいものから先に食べて好きなものを最後にする癖は、雁字搦めのルールから逃れた貴重な人間らしさだ。
「いただきます」
「はい。めしあがれ」
肉汁たっぷりのハンバーグを前にした包介君の愛想笑いでもお世辞でもない本心からの瞳の輝きを見て、思わずガッツポーズを取りそうになったが、喜ぶのはまだ早い。
私の秘策は別にある。包介君があくまで上品に、けれど気持ち嬉しそうに夕食を平らげ、二人隣り合わせで食器を洗い終わった後。
「ふう。私、お腹いっぱいでちょっと休みたいから、お風呂先入ってきて」
「はい。わかりました」
わざとらしすぎた気もするが、包介君は疑わない。自室から着替えを持ってきて、脱衣所に向かう背中をしっかり見送る。
扉が閉まって一呼吸。それから、そろそろと脱衣所に近寄り、そっと扉に耳をあてる。
衣擦れの音は聞こえない。けれど、浴室の扉を開けたからから音は聞こえた。扉の向こうの包介君はすでに裸だ。
今か。いや、まだだ。もう少し待とう。
音を殺して脱衣を済ませ、下着片手にタイミングを図る。側から見れば、二十九歳の女が素っ裸で男児の入浴に耳を澄ませる異様な光景であるが、見咎める者はいない。息も心音も抑え、微かな音も聞き逃さない。
シャワーが戸にぶつかる音。
待ちに待った音を合図に、脱衣所に侵入する。物音は鳴るが、シャワー浴びているうちはそうそう気づかれない。脱いだ衣服を洗濯かごに投げ入れ、堂々と浴室に向き直る。
磨りガラス越しに見える包介君の肌色。簡単に包み込めてしまえる小さな背中に、一体どれだけの重荷を背負わされてきたのだろう。父親からは政治の、母親からは憂さ晴らしの道具として扱われ、それをおかしいとさえ思えない人生の、どこに救いがあるというのか。
深く息を吸って、慎重に吐き出す。鼓動は早まるばかりだが決意は変わらないことを確かめて、浴室の戸に指を掛ける。
「お邪魔します」
予想外の呼びかけに包介君がびくりと反応した。
ちょうどシャンプーを始めたばかりだ。頭を洗いかけたまま顔だけ振り向き、固まっている。
目の前に立つのは全裸の私。タオルで隠したりはしない。完全なる裸だ。
「一緒にはいろ」
返事を待たずに近くにしゃがむ。限界まで見開かれた瞳と視線がぶつかるが、弁明はしない。親子の当然のスキンシップだと言わんばかりの態度で、包介君の頭を揉み洗いする。
「気持ちいい?」
爪を立てないよう、優しい力加減で。
いつもは規律の取れた髪型が、もこもこの泡塗れになっていく。整髪料も落ちてきて、包介君本来の髪質が顕になる。柔らかいけど芯があり、毛先が少しうねっている。男の子の髪質だ。
私が勝手に頭を洗う間も包介君は固まったままだが、少しずつ状況を理解してきたらしい。マニュアル外の事態に成す術はなく、目を瞑ってこの時が過ぎるのをじっと耐えている。
「流すよー」
上から温いシャワーをかけて、頭の泡を洗い流す。濡れそぼった包介君は新鮮だ。髪を後ろに撫で付けてオールバックにしてみると、男の子らしさが増してちょっと面白い。
頭を洗い終わり、解放されると思い込んだ包介君は腰を浮かしかけたが、こんなところで逃すわけにはいかない。肩を抑えて座り直させ、くるりと体を回させる。
「次は体ね」
裸同士で正面から向き合う。
薄い体だ。骨も細い。同い年の子と比べても体重は軽い方だろう。
視線をなんとなしに股座に向ける。
当たり前だが、興奮はしていない。包介君は小学一年生、女の裸を見るよりも、自分の裸を見られる方が恥ずかしい年頃だ。性の芽生えはまだ先と分かっていながらもつい確認してしまうのは、下品な職業病のせいか。
棄てた過去を嗤いながら手皿にボディソープを出す。石鹸と花が混じった優しい匂いだ。両手で擦って泡立たせ、包介君の首筋に添える。
指を回せば握り締めてしまえる細さ。動脈をなぞるように指を滑らせ、鎖骨の輪郭を確かめる。華奢な肩から産毛ひとつない腕へ。汚れやすい手は爪の先まで丁寧に洗う。
知らず知らずのうちに自分の体を擦り合わせるように近づいてしまうのも、昔の職業のせいだろう。指を絡めて包介君の小ささを感じてから、手のひらを胸に移す。
「ぅ」
くすぐったかったみたいで、ぴくんと跳ねた。声を漏らしたのが恥ずかしかったらしく、包介君の瞳が微かに揺れる。茶化したい気持ちが湧いたけど、これ以上包介君を混乱させると頭がショートして気絶してしまうかもしれない。欲は抑えて、体を洗うのに専念する。
胸から腹、腰、太腿と脹脛、足の甲から爪先まで。
元から清潔感のある包介君は体を洗って劇的に変わるものはなかったが、それでも幾分さっぱりしたみたいだ。
「足、開いて」
けど、まだ終わらない。
体中を触られて心を許してしまった包介君は、そろそろと膝を開く。その隙間を狙って、にゅるりと腕を差し込む。
「あっ」
初めてだろう感覚に、包介君の口からはっきりと言葉が溢れる。でも、今の包介君に声を気にする余裕はなさそうだ。刺激に耐えるように風呂椅子の縁を強く掴んでいる。
このまま追い込みたいところだけど、浴室への突撃だけでも充分効果はあった。逡巡の末、泡を多めにして軽く洗うだけに留めることにする。
「はいおわり。おつかれさまでした」
泡塗れの体をシャワーで流す。体中を弄ばれた包介君は返事をするのも忘れ、ぼうっと天井を見上げている。
「じゃあ、お風呂入ろうね」
脇に手を入れ体を持ち上げる。包介君はされるがままで、私に促されたとおりによたよたと湯船に向かう。足を上げて湯船の縁を跨ぐと、包介君も同じように左足を高く上げた。
「ふあぁ」
ざぶん、と音を立ててお湯に浸かる。事前に混ぜておいたバスミルクのバニラの香りにほっとする。
肩までお湯に沈めると包介君の体は更に弛んだ。背中に腕を回して引き寄せると、一切の抵抗なく体重を預けてくる。
向かい合わせで抱き合う。
私が一方的に抱きしめることはあれど、包介君から寄りかかってくるのは初めてのことだ。心を開いたわけでなく、熱に浮かされただけだろうけれど、喜びと愛しさが込み上げてくる。
「包介君」
名前を呼ぶと、とろんとした目で私を見上げる。深い黒色の瞳は私を写してはいるものの、輪郭はぼやけている。
濡れた髪を撫で付けて、つるつるのおでこにキスを落とす。包介君はくすぐったそうに目を細めるが、嫌がる素振りはない。
「お母さんにもちゅうして」
お母さん。
当たり前のように自分をそう呼ぶ。意識したわけではなく自然と口をついた形だが、不思議と耳に馴染みが良い。包介君も、お母さん、が誰を指すのかを理解していて、私が火照った頬を差し出すと、そろそろと唇を寄せてくる。
つん、と頬に唇の先が触れた。
触れたか触れないかも曖昧な、不確かなキス。でもたしかに、包介君から私に近寄ってくれた。
嬉しい。ぽんやりと私を見つめる包介君を抱きしめる。苦しくないように、でも、二人の間をなくすように。素肌同士でぺったり張り付き、お湯より熱い体温がゆっくり私に溶けていく。
この子は私の子供だ。
胸のうちの包介君を確かめながら、強くそう思った。
◆◇◆
朝七時。目を覚ますと、ベッドから包介君の姿が消えていた。
寝坊した。
目をこすりながら慌てて階段を降りる。台所に包介君はいない。洗面所を覗いても見当たらず、駆け足で玄関に向かう。
「包介君」
いた。
ちょうど外靴に履き替えた包介君は、ランドセルを背負い直しながら私に振り返る。
「おはようございます」
「おはよう。起こしてくれてよかったのに」
ちょっと嫌味っぽい言い方をしてしまった。包介君はいつものように愛想笑いで誤魔化そうとする。
しかし、私と目が合った途端、びしりと固まった。引き攣った口元を隠すように顔を背け、ランドセルの肩ベルトを握る手にも力が入る。
嫌われたわけではない。包介君のほっぺたは真っ赤に染まっている。昨日のことを思い出して、急に恥ずかしくなってしまったんだろう。
「ねえ。昨日みたいに、いってきますのちゅう、して?」
冗談めかして頬を差し出すと、包介君の顔が更に赤くなる。困り眉で見上げてくる包介君の泣きそうな目を見ていると、もっとからかいたい欲がむくむく湧いてくるが、追い込むには時間が足りない。さらさらの髪の毛を撫でて安心させる。
「ふふ。からかってごめんね。気をつけていってらっしゃい」
「……いってきます」
包介君は完璧なお辞儀を披露してからくるりと振り返り、颯爽と家を後にする。
開いた玄関扉から見える小さな背中はいつにも増して伸びているが、いってきます、と告げたあの瞬間、ほんの僅かに唇が尖っているのが見えた。
包介君の素の表情だ。年相応にむくれる男の子の顔だ。
一緒に暮らしていなければ気づけない些細な変化だけど、包介君の心は確実に育っている。
「少しずつ、だよね」
焦ってはいけない。期限付きだが、猶予はある。この調子で少しずつ包介君の感情を引き出していこう。
自分に言い聞かせるように独りごち、包介君の背中が曲がり角で見えなくなるのを待ってから玄関扉を閉じる。
包介君が轢かれたと学校から連絡が入ったのは、その日の午後三時だった。




