065
あの男、黒橡細雄は、予定通りアメリカに転勤した。
それから一ヶ月。
突然始まった成りすまし生活も段々と板につき、一日の過ごし方もパターン化されてきた。
今朝はプラスチックごみの日。ごみ袋をもって外に出ると、花壇に水やりしていたお向かいの奥さんと目が合う。
「あら、黒橡さん。おはようございます」
「おはようございます。今朝も良いお天気ですね」
「ええ。でも、昼過ぎから崩れるみたいよ」
「えっ、そうなんですか。お洗濯に気をつけないと。教えてくれてありがとうございます」
「いいのよ、気にしないで。それより旦那さんとは連絡取れているの?」
「毎日電話はしているんですけど、やっぱり寂しいですね。戻れるのがいつになるかも分からなくて」
「包介くんがまだ小さいから一緒に住むのも難しいわよねぇ。御父様の体調もよろしくないんでしょう?」
「はい。でも前よりは落ち着いてきたので、今は母に任せてます」
「困り事があったら相談してね。力になれるかもしれないから」
「ありがとうございます。それじゃあ、私はこれで」
お辞儀をして別れ、ごみ捨て場に袋を置いて家に戻る。不快感を与えないようゆっくり扉を閉め、静かに施錠をしたところで、ようやくひと息つけた。
当たり障りのない会話だけで、こんなに疲れるなんて。
金持ち連中との交流は本当に気を遣う。それでも最初の警戒に比べれば、ずいぶん改善できた。
というのも、黒橡細雄の妻、黒橡陽依は社交的な性格ではなかったらしい。顔を合わせても会釈を返せば良い方で、ガン無視で立ち去るのが当たり前。挙句、真っ昼間から浮気相手を家に連れ込んでいたようで、近所の評判は最悪だった。逮捕で姿を消したときも、駆け落ちでもしたのだろうと誰も不思議に思わない。私が初めて挨拶したときは幽霊でも見るみたいに驚かれた。
だが、交流の希薄さは有利にも働く。黒橡陽依の人柄を覚えている人はおらず、入れ替わりに気づかれた気配はまったくない。家を空けていたのは父の介護で実家に帰省していたから、連れ込んでいた男は弟で今は真面目に働き出した、という雑な嘘にも突っ込まれず、今のところは落ち着いて生活できている。
「はあ」
いや、本当はもっと楽できるはずだった。
私がどう過ごそうと黒橡細雄に伝わることはなく、生活費は毎月定額で振り込まれる。成功報酬もたったの百万、大した金額ではないので、自然な浮気なんて気に留めず、好き勝手に暴れても構わなかった。
それでも私が、黒橡細雄がさもいい夫のような話を流しながら、ご近所付き合いにも精を出す理由。
「おはようございます」
「あ、うん。おはよう」
黒橡包介。同居人の男の子。
朝からガチガチに畏まった服装をした彼は、私がごみ捨てから戻るのを待っていたらしい。玄関扉の音を聞きつけ颯爽と現れると、十五度の綺麗なお辞儀を披露して居間に戻っていった。
「……はあ」
相変わらず接し方が分からない。私は未だ、小学一年生の男子との距離感を測れずにいた。
包介君はかなり特殊な子だ。黒橡細雄の言うとおり、家事のすべてを完璧にこなせることに加え、礼儀も弁えている。雑談を持ち掛けても社交辞令で誤魔化され、本心は明かさない。よくできた家政婦と会話しているみたいな感覚だ。
子供があくせく働くのを座って見ているのも忍びなく、こちらから手伝いを申し出たこともあったが、やんわりと断られた。ごみ捨ては包介君が登校のついでに捨てようと玄関前に固めていたものを勝手に持っていっているだけなので、仲良く分担しているわけではない。
子供に任せきりの生活というのは居心地の悪いものだ。大人らしさを求めた結果、自然と背筋は正され、いつしか私は上流階級の妻を演じるようになっていた。
「いいにおい」
とはいえ、外面を良くする方法を身につけただけで、家のことは依然、包介君の管理下にある。香るお味噌の匂いに釣られて居間に行くと、カウンターキッチンに一人分の朝食が並べられている。
お椀半分の白米に、わかめと豆腐の味噌汁。折り目の見えないフワフワの卵焼きと、小さめにカットした鮭の切り身。小鉢に入ったお浸しは健康的な緑色をしていて、細めの削り節がちょこんと添えられている。
理想的な朝食。これとまったく同じメニューが一日おきに現れる。盛り付け方まで同じなのだから、包介君の中にローテーションとして組み込まれているのだろう。
いただきます、と両手を合わせ、箸を持つ前にちらりと包介君の表情を伺う。
「……あの、さ。たまには一緒に食べてみない?」
「申し訳ありません。学校に行く時間なので、これで失礼します」
やっぱりダメか。
時計を見ると、針はきっちり七時半を指している。
包介君が家を出る時間だ。学校までは子供の足でも二十分で足りる距離であり、始業時間は八時五十分。朝食をとっても間に合う時間だが、彼は同じ時刻に登校し続けている。包介君は一連のやり取りの中で一度も時計を見ていないので、これも体に染み付いたルーティンなのだろう。
まあ、一人分の朝食しか用意されていない時点で今日も無理だと悟ってはいた。包介君の意識を崩すにはごみ捨ての時みたいに、言葉より先に行動してしまうのが手っ取り早い。もっと早起きして私が朝食を用意しておけば、あの子も断れないはずだ。
色々と気を張る生活。けれど、日々の目標はあり、少しずつではあるが確実に、包介君の人柄を知っていく。生きる気力もないのに身を削り続けていた毎日よりはずっといい。
「いってきます」
「うん。いってらっしゃい」
六年というタイムリミットは頭の片隅に追いやって、包介君の真っ直ぐに伸びる背中を見送った。
◇◆◇
包介君が学校から帰るまでは私一人の時間だ。
しかし、これといった趣味はなく、家事能力も劣る私には持て余すだけの時間であり、大した量もない洗濯を終わらせてしまえば後は暇するだけだった。最初の一週間くらいは死んだ顔でテレビを眺めるしかなく、暇すぎるのも辛いものだと思い知らされていたのだが、最近になってようやく趣味らしいものを見つけられた。
「お邪魔しまーす」
小声で呟きながら、包介君の部屋の戸を開ける。
小学生の部屋とは思えない整然とした室内。白と暗い木目を基調とした高価そうな雰囲気の中、一際目を引く壁際に並ぶ背の高い本棚と、その中に詰め込まれた文庫本の数々。
私の最近のマイブームは包介君の部屋から小説を拝借することだ。
暇すぎて家中を散策していたとき、勝手に部屋に入って見つけたものである。文字を読む習慣はなかったので最初はてきとうに捲る程度だったが、腰を据えてじっくり読み込むとすぐに夢中になってしまった。後で調べて知ったが、この本棚に並んでいるのは賞を取った有名な作品ばかりらしい。文盲の私を一発で虜にしたのだから、華々しい評価にも頷ける。
それと、もう一つ。
包介君の部屋に入ると、必ずやることがある。
「今日は開くかな」
学習机の右下に備え付けられた、ダイヤルロックのかかった引出し。本を読む片手間に思いついた数字を試すのも、私の日課になっていた。
とても趣味とは呼べないし、やっていることは子供のプライバシーを漁る出歯亀そのものである。しかし、並の大人よりも洗練された六歳児が隠そうとしているものは何なのか、興味を持たない方が難しい。葛藤は一瞬で、私はすぐに解錠に取り掛かった。総当たりで試していないのは、せめてもの良心だ。
誕生日は違ったな。名前の語呂合わせはそもそも思いつかない。毎日の日付に合わせて変えている可能性にも賭けたが、てんで的外れだった。
「意外と全部0だったりして」
てきとうな思いつき。一切期待していなかったが──
「……開いた」
がらりと重い音を立てて、引出しが開いた。
まさかあの慎重な男の子が、こんな単純な番号を使うだなんて。
だが、呆気なさに驚きつつも、視線は引出しの中に向かっている。
みちみちに詰め込まれているのはノートだろうか。飾り気のない大学ノートの背表紙だ。交換日記のような微笑ましいものではない。ノートの合間に差し込まれる仕切りに貼られたラベルも、生活、会話、社交会、と淡白な内容で、業務的な雰囲気がある。
秘密を目の前に我慢するという選択肢はない。躊躇うことなく、てきとうな一冊を抜き出して中を検める。
そして私は、包介君がああなるに至った原因を知った。
◆◇◆
「……クソ」
苛立ちが止まらない。辞めたはずの煙草を手に、換気扇の下で床を蹴る。
あのノートには、包介君の行動の規範がすべて書かれていた。嫌味なくらい丁寧な振舞いも、大人の言うことにはすぐに従う反応の速さも、感情を殺して雑用に徹する理由も、すべてが書かれていた。
あの子はそれが当然と思っている。
そういう風に、黒橡細雄に造られた。
「クソが」
奴隷よりも酷い。包介君は産まれたときから人生を奪われ、管理されていた。
黒橡細雄の出世のために。
社交会の仕切りに分けられていたノートの中身を思い出す。会話や生活も大概頭のおかしい内容だったが、社交会については一層と悍ましい。
重役らしいおっさんの隠し撮り写真と、務める企業、最近の趣味、食の好み。
そういうのがノートいっぱいに続いていた。おそらく、社交会とかいう気取った場で包介君が集めた情報をまとめたものだ。わざわざノートに書き起こしているのは生活の項目に書かれた、電子機器を持たないという制約のせいだろう。
畏まった大人だらけの場に混じる、礼儀の正しい小さな子供。どのくらい子供が参加している会なのかは知らないが、包介君ほどの可愛げがあれば、大人はつい構いたくなる。黒橡細雄は包介君をダシにして、お偉いさんとの繋がりを作る。
バカみたいな発想だ。でも、黒橡細雄は実行した。引出しに詰めたノートを使って、包介君を道具として完成させた。
黒橡陽依も異常な生活に耐えられず、クスリに逃げたのかもしれない。
とても許せるものではないが。
怖い、辛いを理由に子供を見捨てたのは私の母親と同じだ。当人が何を考えていようが、子供には捨てられた事実しか残らない。
いや、包介君の場合、それすらできないのか。考えることを奪われたあの子には、人を恨むという発想がない。機械のように従うだけだ。
「チッ」
煙草が短くなった。燻るそれを流し台に叩きつけ、追加の一本に火を点ける。
どさり。
物が落ちる音がして、咄嗟に顔を上げる。
「ほ、包介君。おかえりなさい」
いつの間にか包介君が帰宅していた。
物音の正体は床に落ちたランドセルか。火を点けたばかりの煙草を慌てて流し台に押し付けるが、ばっちり見られてしまった。取り繕いの愛想笑いを浮かべるが、口角を吊り上げただけのそれに効果はない。包介君は私を見つめたまま棒立ちしている。
「ごめんね。臭い、嫌だよね。ずっと辞めてたんだけど、ちょっと魔が差しちゃった。でも、もう吸わないから。すぐ歯も磨くし。ね、だから安心して」
薄っぺらい言い訳だ。それでも、思いつくままの言葉を述べながら包介君に近づき、強張った肩にそっと手を置く。
「ひっ」
包介君がびくんと体を震わせた。
過剰な反応だ。包介君らしくない。触れた肩は小刻みに揺れていて、寒さに耐えるように奥歯がかちかちと鳴っている。屈んで目線を合わせてみる。しかし、包介君の瞳には私が映り込んでいるだけで、焦点は合っていない。
様子がおかしい。
包介君の全身をあらためて見回す。いつもはスラックスの縫い目に沿って伸ばされた手が、右腕を抑えているのに気づいた。アイロン掛けしたシャツがくしゃくしゃになるのも構わず、強く握り締めている。
「ちょっと見せて」
細やかな抵抗は無視して強引に袖を捲る。
産毛も見えない真っ白な肌。だが、前腕にぽつぽつと赤茶色の斑点が浮かんでいる。
実際にやられたことはない。けれど、やんちゃしていた頃に見覚えはあった。
これは、根性焼きの痕だ。
「誰にやられた」
黒橡細雄ではない。あいつは煙草を吸わない。小学一年生なら、煙草を使った虐めもないだろう。
それに、この痕は治りかけだ。一ヶ月以上は経っている。しかし、両の手で足らない数を見れば、常習的に行われていたのは間違いない。
ならば、残る可能性は。
「は、ははは」
唇の端から乾いた声が漏れる。笑い声ではない。抑えきれない怒りが、息になって漏れ出しただけだ。
ふざけてやがる。
怒りのままに包介君を抱きしめる。小さな体が尚更強張り、怯えた呻き声を上げるが関係ない。包介君の体を余すことなく包み込もうと力任せに抱きしめる。
保護欲だとか、母性だとか、この感情に名前をつけることはできたかもしれない。けれど私は、そんな高尚な理由なんて一つも考えず、ただ衝動の赴くままに包介君を抱き続けた。




