064
私は道を間違えたのだろうか。
値上がり続きで手が出しにくくなった古い銘柄の煙草を吸いながら思う。
父親は当たり前に暴力を振るう屑だったけど、収入はあった。頭をおかしくしてしまった母も、会話が辛うじて成り立つくらいの理性は残していた。当時の私がもう少し大人で我慢強ければ、やり直すチャンスはあったかもしれない。
そこまで考えて、鼻で笑う。
いくら後悔したところで過去をやり直せはしない。それに、あの心根の腐った肉袋共と暮らすなんてあり得ない。
なにせ父親は、中学生の娘に手を出す獣欲に塗れた化け物だ。今更怯えることはないが、嫌悪の念は鮮明に残っている。あいつと同じ屋根の下で生活するぐらいなら舌を噛み切った方がマシだ。
だからきっと、あの時の判断は正しかった。
十五で家を出て馬鹿な不良とくだらない時間を過ごしたことも。多少喧嘩が強いのだけが取り柄の下衆な男に処女を捧げたことも、援交で荒稼ぎしたことも、気に食わない奴を暴力で黙らせ公衆の面前で土下座させたことも、全部。
学歴もツテもない女が生きていくには、それしかなかった。
だから、私は正しい選択をしたと思う。
ソープとキャバを転々として、三十が現実的になった今でもそう思う。
私は間違ってない。
窓に張られた錆だらけの格子に手を掛けて、星一つない夜空を仰ぎ見る。不安を飲み込むように大きく煙を吸うと、煙草がぐっと短くなって先の吸殻が地面に落ちた。
「めんどくさ」
不満を吐くぐらいなら死んだ方が楽なのに。
それでも私は今日も働く。生きる意味なんてどこにもないのに、死なないために働く。
ビールの空き缶に吸殻を投げ入れて、矛盾だらけの自分を嗤う。底の見えない缶の中で価値を失ったカスが燻る様は、銀煤竹千影の糞みたいな人生を暗示しているようだった。
◇◆◇
「こんばんはぁ」
細い。マッチ棒が眼鏡を掛けてやって来た。
背中に赤い卵をつけたガマガエルの次の客は、見るからに神経質そうな男だった。
上司に無理矢理付き合わされたって感じだ。今時風俗に連れられるのは流行ってないだろうけど、この手の輩がこういう店に来る理由はそれ以外に思い当たらない。
「今日は 六十分コースで大丈夫ですかぁ?」
「ああ、結構。付き合いで来ただけだ」
ビンゴ。
汚いものを見る目つきと言葉から滲み出る嫌悪感は、間違いなく私を見下している。昔の私ならあからさまな態度に腹を立てただろうけど、今は別に気にしない。
業界に長く勤めていると、こういう客は珍しくない。会話すら拒否するタイプは時間の潰し方に困るけど、不潔なデブよりはずっとマシだ。居心地の悪い休憩時間と割り切るのが賢いやり方である。
「あ、そうすか。じゃ、そこら辺で暇潰して貰えば。私もテキトーにしてますんで」
媚を売る必要もない。店長からブログ更新するよう言われていたし、今のうちにやってしまおうと携帯を開く。
飾り気のない待受画面。角度を変えれば鏡にもなる保護フィルムに、男の顔が映り込む。
「……なに?」
近い。男はいつの間にか、ぶつかりそうな距離まで近寄っていた。
油断させてから襲うのが好きなタイプか。気持ち悪い。まじめ腐った顔でギトギトのレイプ欲を抱えているマジモンのサイコ野郎だ。
だが、男は間近で私の顔を見回すばかりで、手を出してくる様子はない。蜻蛉が獲物を前にした時みたいな無感情な視線に、嫌な汗が滲む。
そうしてじっくり私の顔を観察した男は、もったいぶった息を吐いた。
「お前には妻を演じて欲しい」
「あぁ?」
なんだいきなり。どういう意味だよ。
プロポーズ? まさか。しかし、言葉ではそうとしか聞こえない。
ぐるぐる思考が迷走し頭痛までしてきた私に目もくれず、男は名刺の裏に何かを書きつける。
「俺の住所だ。明日の二時にここへ来い」
「アフター誘ってんの?」
「……その単語が意味するものは分からんが、お前のような下品な女に興味はない。これは仕事の話だ」
ますます意味が分からないし、こんな訳の分からない話に付き合う義理もない。一貫した高圧な態度にもいい加減我慢ならず、ボーイを呼んでやろうかと立ち上がりかけたところで男の携帯が鳴り響く。
男は条件反射のスピードで携帯を手に取り、私を無視して通話を始める。
「はい、黒橡です。……はい、……はい。分かりました、すぐに向かいます」
通話を切ると、男は私を一瞥すらせず淡々と帰り支度を進める。
「おい。さっきのなんだよ」
「電話のことか? お前には関係ない」
「ちげえよ! 家に来いってどういう意味だ」
「……はあ。二度も同じ説明をさせるな。明日の十時に、そこに書いてある住所まで来い」
「それの意味がわかんねえっつってんだよ!」
「最底辺の生活から抜け出す機会を与えてやると言っているんだ。それで充分だろう」
「だからちゃんと説明を──」
私が言い切るよりも早く、男は部屋を出ていった。
一方的に捲し立てられ、髪の毛一本も残さず消え去る。悪い夢でも見たみたいな状況に私は立ち尽くすことしかできない。
「誰が行くかよ」
苛立つ気持ちを舌打ちと一緒に吐き捨てる。
けれど私の頭には、男の言葉がずっとこびりついていた。
◆◇◆
「……ここか」
朝の九時半。
私は、あの男に指定された家の前に立っている。
最底辺の生活から抜け出すチャンスとやらを本気で信じたわけではない。たまたま目が覚めてしまい、出勤までは時間があるから、暇つぶしのためにやってきただけだ。
しかし、この辺りは。
ぐるりと周りを見渡すと、立ち並ぶのは高そうな一軒家ばかり。停まっている外車は鏡みたいにビカビカ光り、玄関の装飾にも抜かりはない。
流石に私の実家より大きい家はないが、ここらは地価が高い。これだけの家を建てるのにかかった費用はあいつら以上だろう。
本物の上流階級が集まる町。
そう思い知らされた瞬間、場違いな自分が恥ずかしくなってきた。できるだけ身綺麗な恰好をしてきたつもりだが、ここに住む人達からは背伸びした貧乏人としか思われない。ましてそれが体を売って稼いだ金と知れば、心の底から蔑まれるに違いない。
「くそ」
気の迷いなんて起こすんじゃなかった。
さっさとこの場を離れたい一心で、乱暴にインターホンを鳴らす。
「……早く出ろよ」
一秒しか待っていないが、一秒だっていたくない。もう一度インターホンを押すと、ようやく玄関からあの男が出てきた。
休日だというのにノリの付いたシャツと高そうなスラックスを履いていて、生活感がまるでない。男はスタスタと歩み寄り、私の前で足を止める。それから、頭から爪先までを値踏みするような目で眺め、鼻で短く嗤った。
「期待はしていなかったが、見窄らしい恰好だな」
「あぁ?」
「周りに見られたら敵わない。さっさと中に入れ」
相変わらず会話ができない。踵を返して、さっさと家に戻ってしまう。
こいつの背中を追うのは不愉快だが、馬鹿みたいに立ち続けるわけにもいかない。仕方なく男についていき、敷居を跨ぐ。
ドラマに出てくる金持ちの玄関だ。馬鹿でかい壺を置いたり、無駄な掛け軸があるわけではない。しかし、変な形の花瓶や家の大きさと比べると広すぎる土間が、現代アートみたいなこだわりを感じさせる。
「おい」
「あ?」
靴を脱いで家に上がろうとしたら、急に止められた。男はあかさまに汚い物を見る目で、私の足元を睨んでいる。
「その汚い足で俺の家に上がるつもりか? 使い捨てのスリッパがあるから履け」
「……ハイハイ」
いちいち文句をつけなきゃ喋れないのか。こめかみの血管が浮き出るのを自覚しながら、言われたとおりにスリッパに履き替えてやる。
「チッ。その小汚い服も変えてしまいたいがな」
考えるのをやめて男についていく。
歩きながら家の中をジロジロと観察するが、目に入るもの全部が清潔にしてある。仕事をしながらこの環境を維持できるとは思えないし、家政婦でも雇っているのか。
「入れ」
男が暗い木目調の重たそうな戸を開ける。
広い部屋。リビングだろう。内装はシンプルで、家具は中心にある高そうな革張りソファーと一枚板のテーブルだけ。奥にカウンターキッチンが見えるが、臭いも汚れも存在していない。
「そこに座れ」
男の指差したソファーに遠慮なく座る。見窄らしいと蔑んだ恰好に生活空間を汚され、男は目尻をひくつかせたが、どうでもいい。背もたれに腕をかけて大股で足を組んでやる。
「客間にでも通されると思ってた」
「ふっ。浅い考えだな。今どき商談を進めるのにプライベートな場所を使うなんてあり得ん。それでも家に招くということは、今以上に親密な関係を築こうという意思表示に他ならず、居間に通すことで分かりやすくこちらの思惑を伝えられる。客間なぞというのは過去の文化だ」
「へー」
こいつの持論に興味はない。てきとうに聞き流すと、腹を立てた男はまたしても文句をつけてきたが、無視を決め込む私に無駄を悟って、対面のソファーに荒々しく腰を下ろした。
「お前のような学のない売女に頼らざるを得ないとはな。まったく、女という生き物には心底腹が立つ」
「あっそ。で? 本題に入ってくれる?」
「……仕事の内容は説明したな。お前には、俺の妻を演じてもらう」
「あのさあ。それだけで意味が伝わると本気で思ってるわけ?」
こいつがビジネス以外の人間関係を必要としていないのは分かった。それでも妻を欲しがることに、どんな理由があるのか。
人肌が恋しくなった? まさか、ありえない。性欲を満たしたいなら昨日私を襲っていたはず。
誰かに結婚マウントを取るためか? これだけ見栄えを気にする家に住んでいるのだからありえそうな話だけど、それも違う。
男の左手薬指には、すでに指輪がはめられている。独身で家なんか買ったら、それこそ変に思われそうだし、そういう疑いは一番嫌がりそうなタイプだ。
一体何が目的なんだ。考えるほど疑問が深まる私に男はこれ見よがしに溜め息を吐いて、スマホをテーブルに置いた。
「げ」
画面には、ウェディングドレスを着た私が写っている。
勿体ぶっておいて結局ストーカーかよ、と腰を浮かせかけたが、すぐに思い直す。
私にウェディングドレスを着た経験はなければ、結婚歴もない。それによく見ると、写真の女は微妙に私と違っている。本人にしか分からない微妙な印象の違いだけど、この女は間違いなく別人だ。
何というか、私の大人しい版って感じだ。幸の薄そうな雰囲気が癪に障る。実家から逃げられず、そのまま生活していたとしたら、こんな風に育っていたんだろう。
「この女と私に何の関係があんの?」
「これは俺の元妻だ。お前には、これの代わりを演じてもらう」
「……ああ。なるほどね」
なんとなく分かってきた。要するにこいつは、自分が妻に捨てられたことを周りにバレたくないんだ。だから、見た目がそっくりな私に妻の代役を頼んだ。
でも、それには大きな問題がある。
「私、あんたと結婚するつもりないけど」
私は家族なんて欲しくない。それが偽装結婚だとしても、死んでもお断りだ。上から目線で指示すれば言うことを効かせられると思っていたんだろうが、私にも譲れない部分はある。
あからさまな態度は男にも伝わったらしい。だが男は敵意にたじろぐことはなく、嘲笑うように鼻を鳴らす。
「お前と結婚? はっ。馬鹿馬鹿しい。こちらからお断りだ」
「あぁ? じゃあ何がしたいんだよ」
「これはそこいらのチンピラと不倫していた。それはまだいい。誰の目から見ても、これの落ち度は明らかだからな。俺は大義名分をもって別れ、新しい妻を迎えるだけだ」
「じゃあ、私が妻を演じる必要なんてないだろ。奥さんのいない自分は耐えられないーってか?」
「違う。話は最後まで聞け」
男は眉間を強く揉むと、腹の底から長い息を吐き出し、苛立たしげにスマホの画面を指差す。
「この屑は覚醒剤で捕まった。俺と別れる前に、だ」
「……へえ」
意外、ではなかった。
こういう意思の弱そうな奴ほど、漬け込まれやすいのはよく知っている。店の同僚にも何人かクスリをやっている子がいたが、どいつも彼氏のDVを受け入れる頭の弱い子で、ひと月経つ頃には姿を消していた。私に似たこの女も、タチの悪い浮気相手に流されるまま、危険な快楽に溺れたのだろう。
「不倫で離婚ならまだいい。恥ではあるが同情は買える。立て直しも容易だ。だが、妻が犯罪者と知れたらどうなる。こんなくだらん女のせいで、俺まで同類と思われる。そんな事態は決して許されない」
なるほど。こいつの目的が、やっとはっきりした。
見栄を気にする男にとって、身内から犯罪者が出るのは致命的だ。だから、代役を立ててまでよくある離婚話に落ち着かせ、ダメージを減らそうとしている。
共感はしないが、理解はできる。男もようやく本題に入れて興が乗ってきたのか、指を組んで流暢に語り出す。
「計画を説明する。俺は来月、L.A.に飛ぶ。お前は俺が向こうに勤める六年の間、妻を演じつつ男を作れ」
「報酬は?」
「まず、住居。この家に住まわせてやる。生活費も出そう。自然な形で不倫を周知できたら、追加で百万出す」
「百万? 思ったよりケチくさいのね」
「六年間の衣食住を保証してやるうえ、成功報酬も出すと言っているんだ。金が欲しいならアルバイトでも始めればいい。お前のような下層の人間にとっては、これ以上ない条件だと思うがな」
たしかに、悪くない条件だ。
この先六年の衣食住が保証され、こいつが海外に飛んでしまえば、監視の眼もなく自由に暮らせる。むしろ、奔放に振る舞うほど追加で金が貰えるときた。他人になりすました生活というのは想像できないけど、そもそもが大っぴらにできない生き方をしていた訳だし、汚いジジイに体を売る人生よりはずっと良い。
悩む余地はほとんどないが、じっくり吟味した風を出して重たげに口を開く。
「……わかった。受けるわ」
「ふん、当然だな。ああ、言っておくが、契約書の類は用意しないぞ。まあ、家を提供する時点で疑いようもないが」
「ハイハイ。あ、家の管理は期待しないでよ。普通に暮らして普通に汚すから」
「それに関しては問題ない。お前よりも余程優秀な人材が住んでいるからな」
「住んでる?」
同居人がいるなんて聞いていない。
すかさず抗議しようとして、男の視線がすでに私に向けられていないことに気づく。視線を追って、首を横に向ける。
「うわっ!」
子供が立っていた。
小さい男の子だ。小学生か幼稚園児か、判断が難しい身長だが、男の教育の影響か利発そうな顔をしている。
「俺の子だ。家の維持管理は一通り教えてある」
男が顎をしゃくると、子供は自然に背筋を正して柔らかな微笑みを浮かべる。
「はじめまして。黒橡包介です。よろしくお願いします」
幼い声で大人のような挨拶を口にする。目は真っ直ぐに私に向き、子供特有の多動性は一切ない。
しかし、マナー講師のような落ち着きぶりが、私にはひどく不安定に見えた。




