062
人間とういうのは不思議なもので、未知は過剰に恐れるが、既知に変わった途端、冷静さを取り戻す。
「下駄履き骨折ですね」
だから病名を聞くと、ああ、そんなものかとすんなり納得してしまった。
僕が折ったのは、右足の第五中足骨という小指側にある骨だ。下駄履き骨折の別名が指すとおり、底の高い靴を履いて段差を踏み外したときなどに起こりやすく、よくある骨折の一つらしい。
治療方法も確立されていて、僕の場合は骨がずれてしまっているからスクリューを入れた方が治りが早いと言われた。全身麻酔の手術になるので前日の入院が必要になるが、今回は学校の火災保険で対応できるので費用は心配ない。
医師の意見に反対する理由はなく二つ返事で了承したところ、偶然にも空きがあったそうで、僕は即日入院、翌日手術して夕方には退院する運びとなった。
階段から落ちたときはどうなることかと思ったが、蓋を開けてみればなんて事のない話である。手術に備えて眠りに就けば、すぐに事態は収集する。
と、思われた。
「ぐう……」
青褐先生がベッドの端にもたれるようにして眠っている。
涙の跡を残して目を瞑る先生の寝姿は、偶に寝息を立てる程度で静かなものだが、眠りに就くまではそれはもう大変だった。
先生には、僕を車で跳ね飛ばして病院送りにした過去がある。
長文の日記をつけるほどだ。先生の後悔は凄まじい。状況は違うとはいえ、トラウマを呼び覚ますのに充分だったのだろう。
烏羽さんから僕の骨が折れたと聞いた瞬間、先生は魂が抜け落ちたかのように崩れ落ち、病院に向かうタクシーの車内でもずっと放心状態だった。流石に仕事着に着替える理性はあったが、烏羽さんの介助がなければコスプレしたままついてきていたはずだ。
医師に診断を受けたときは、ようやく止まった涙を再び流し始め、入院が決まり病室に腰を落ち着けたかと思えば、呪詛のように謝罪を繰り返す。眠りに落ちたのはつい数分前のことで、骨折と知らされた衝撃よりも先生を慰める方がずっと疲れた。
「まあ、心配してくれる人がいるのは幸せか」
医師が言うところには程度の軽い骨折だそうで、放置して歪な形で繋がってしまう人もいるらしい。
早期に発見できたのは、烏羽さんの的確な見立てと過剰に心配してくれた青褐先生のおかげである。吾亦紅先生絡みの検査入院と同様、今回も桑染さんが面倒を引き受けてくれるので、運は悪くても人には恵まれた。
「付き添ってくれてありがとうごさいます。先生」
手持ち無沙汰になって、青褐先生の頭を撫でてみる。
艶々の黒髪の絹糸のような手触りが心地良い。頭の形も綺麗なので、大理石の球を撫でているような気持ちになる。
いや、無機物にしては熱いか。手が往復するたびに温度が上がっている気がする。耳の先も赤くなっているので、先生は寝ると体温が高くなる赤ん坊みたいな体質なのかもしれない。
「包介くん!」
そんなことを考えながら先生を撫で続けていると、病室の戸が勢いよく開かれた。
桑染さんだ。汗で貼り付いた前髪をみるに、またしても大急ぎで駆けつけてくれたらしい。
「お見舞いに来てくれたんですか? ありがとうございます」
「う、うん。それより怪我の具合は? ていうか、その女なに?」
「担任の青褐先生です。丁度眠ったところですから、そっとしておいてあげましょう」
「……起きてるよ、そいつ」
「え?」
青褐先生の首筋がぴくりと強張る。桑染さんはその僅かな反応を見逃さず、先生の首根っこを掴んで引っ張り上げた。
力づくで晒された先生の顔は赤く染まっていて、寝起きにしては瞳が冴えている。
「ほら。起きてた」
「あっ、あっ、そっ、そのっ、違くて」
「なにが違うの。烏羽から聞いたよ。お前のせいで包介くんの骨が折れたって」
「あうぅ……」
嫌な流れだ。このままでは、先生は再び自分を追い詰めてしまう。しかし、止めようにも二人は僕の手の届かないところにいて、右足は包帯でぐるぐる巻きにされている。
桑染さんの追及は苛烈さを増し、青褐先生が涙ぐんだところで、助けの舟が現れた。
「メアリ。その辺にしときなよ」
「だって麗美。こいつ、教師のくせに包介くんに怪我させたんだよ」
「だってじゃない。包介クンが許してるんだから、メアリも許してあげな」
さすが榛摺さんだ。旅館では気の抜けた姿を見せた彼女だが、普段の落ち着きぶりは頼りになる。
桑染さんは顔ではまったく納得していないが、渋々青褐先生を解放してくれた。先生は軽い咳をしてから、病室の隅で申し訳なさそうに縮こまる。
「それで? 赤錆たちは?」
「下の売店で楽しそうにしてたよ。もうすぐ来ると思う」
赤錆さん達も来ているのか。たった一泊の入院を気に掛けてくれて嬉しい反面、困ることもある。
僕が入院しているのは個室なんて上等なものではなく、四人一部屋の一般病室だ。他に泊まっているのは対角にいる老人一人だけとはいえ、騒がしくするのは心苦しい。
車椅子を使って、今からでもデイルームに移動しようと重い腰を上げる。
「来たわよ」
「オッス。大丈夫か」
「もう。静かにしないと迷惑でしょう。ごめんなさいね、包介ちゃん」
間の悪いことに、赤錆さん達が到着してしまった。赤錆さん、烏羽さん、濃墨先輩の三人は、馴染みの居酒屋に入るくらいの気安さで、仕切りのカーテンを捲って入ってくる。
狭い一角に六人が集まった。ぞろぞろ、という擬音が見えそうなほどの密集具合だ。
「しっかし、オマエはよく入院するなあ。吾亦紅のときから大して経ってないだろ」
「したくてしてる訳じゃないよ」
「まっ、今回は仕方ないよな。それより、今日もホースケのかーちゃんは来てないのか?」
「うん。退院の時も桑染さんが迎えにきてくれる」
「そうか。一回会ってみたかったんだけどな」
烏羽さんと母さんが接触したのは、急遽泊まりに行く事になった際に電話で喧嘩した一度きりだ。
あれからしばらくあって、お互いに気持ちの整理はついたと思いたいが、顔を合わせれば絶対に諍いが起きる。この場に母さんがいないのは正解だった。
「……は? 烏羽、あんたなに言ってんの?」
「なにって、ホースケのかーちゃんの話だよ。すげえ過保護で、めちゃめちゃキレてくんだよな」
「うん。怒るとすごい怖い」
烏羽さんの意見に桑染さんが同調する。母さんの小間使いと化している桑染さんは、色々と溜まっているものもあるのだろう。
とはいえ、自分の母親の悪口を言われているようで、居心地が悪くなってきた。機会を見て話題を変えたい。
「わたし、突き飛ばされたことあるもん。体格は麗美と同じくらいなのに。脅しもなれてたし、昔やんちゃしてたんだよ、きっと」
「へえ。前からメアリはよく愚痴ってたけど、あらためて聞くとクセの強いお母さんだね。あ、それじゃあ学校でもモンスターペアレントみたいな扱いなんですか? えっと、担任の青褐先生? でしたっけ」
「……いえ。私も過去のことがあったので構えていたんですが、お母様から苦情が入ったことはありませんね。お会いしたのも、入学の手続きの一度だけです」
「ま、まあまあ。母さんの話はその辺に──」
「待ちなさいよ!」
突然、赤錆さんが声を張り上げた。
雑談に混ざるにしては深刻な表情で、額には汗が浮いている。
「あんた達、さっきから誰の話してんの……?」
「誰って、母さんの話だけど」
「それがおかしいっつってんのよ!」
何かおかしなところがあっただろうか。たしかに、息子としては居た堪れない時間ではあったが。みんなの顔を見回しても、困惑の表情ばかりだ。
赤錆さんは一斉に視線を向けられて引き退がりそうになるが、拳を握り締めて踏み留まり、怒るように目を見開く。
「包介のお母さん、覚せい剤で捕まったでしょ!?」
「……え?」
え?




