059
「いてて」
三日目。二泊三日の最後の早朝。
玄関周りを掃いていると、また頭痛に襲われた。薬を飲むほどの痛みではないが、錘を載せられたみたいな不快感がある。体を動かせば多少は和らぐかと期待したが、怠さは消える気配がない。
一体、昨日に何があったのだろう。
僕の記憶は榛摺さんの部屋を訪ねたあたりからぷっつりと途切れている。目を覚ましたのは泊まっている部屋だったので知らぬ間に移動していたのは確かだが、それにしても不可解な点が多すぎる。
何故、僕一人で寝かされていたのか。浴衣が異常なまでにはだけていた理由は。
起床してすぐに榛摺さんを訪ねたのだが彼女は留守で、そのまま榛摺さんの部屋に泊まったのであろう桑染さん達に理由を聞くも、追い返されてしまった。
「……はあ」
気掛かりはまだある。僕を追い出した時の桑染さん達の反応だ。
昨日までは、恥ずかしくなるくらい距離が近かったのに、今朝は何だかよそよそしかった。戸の隙間から僕の顔と下腹辺りに視線を往復させては、解釈違い、だとか、将来性を考えればプラス、など、ごにゃごにゃ話していたし、気づかないうちにやらかした可能性は高い。
記憶については色々あったから、忘れないよう心がけていたのに。
自分の不甲斐なさを恥じながら、大して汚れてもいない周りを掃き続ける。別館の外周を一周りし、二周目に差し掛かろうというところで、本館に繋がる道から男性が歩いてくるのが見えた。
年齢は三十歳くらいか。背筋の伸びた綺麗な歩き姿で、髪はきっちり整えている。作務衣に法被を羽織っているので、旅館関係者の方だろう。
榛摺さん一家の思惑があったとはいえ、今の僕は下っ端アルバイトだ。すぐにお辞儀する。
「おお、そんなに畏まらなくていいから。ほら、顔上げて」
言われるままに顔を上げる。
きりりとした眉に鼻筋の通った端正な顔立ちの男性だ。どことなく既視感を覚えたのは気のせいか。
「キミが黒橡包介クンだね? いや、オレの自己紹介が先か」
男性は軽い咳払いして胸を張る。
「当館の支配人代理を務めます、榛摺権蔵です。妹が世話になったね」
言われてみれば確かに。相好を崩してなお凛々しさが残る顔立ちは、榛摺さんによく似ている。
「挨拶が遅れてごめんな。親父の代わりってのがえらい大変で──いや、今話すことじゃないか。とにかく、ありがとう。オレ達の問題を解決してくれて」
「いえ、僕が何かしたわけではないですから。それに、妹さんにはいつもよくしてもらっています。こちらこそ、ありがとうございます」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。ハハ、ハ……」
権蔵さんの空笑いを最後に会話が途切れる。同性とはいえ歳も離れているし、初対面から親しくなるのは中々できることではない。当然の空気感だろう。
「よし」
互いに気まずい雰囲気の中、権蔵さんが切り出してくれた。目元に力を入れて、真っ直ぐに目を合わせてくる。
「包介クン、一緒に風呂入るか」
「え?」
「男同士、ハダカの付き合いといこうぜ」
旅館の人って、裸に抵抗がなくなるのだろうか。
漠然とした偏見を抱きながら、僕は権蔵さんに連行された。
◇◆◇
連行された先は、僕達が宿泊している部屋に備え付けられた部屋風呂だった。
本館の大浴場は朝風呂で混み合っている頃だし、個人的な付き合いにはこちらの方が都合がいいのだろう。
とはいえ、出会って数分の知り合いのお兄さんと入浴するには、距離が近すぎる気もする。丁度いい座り位置が見つけられずそわそわしてしまうが、権蔵さんはむしろ落ち着いたようで、両脇を開けてとっぷりと湯に浸かっていた。
「ここも包介クンが掃除してくれたんだろ? いい仕事するね」
「おつのさんの教え方が丁寧でしたから」
「な。ほんと出来た妻だよ。オレには勿体ないね」
「権蔵さんもかっこいいです。できる男って感じで」
「そうかあ? ……そうかも」
真面目な顔で自賛するのが妙に面白く、思わず笑ってしまうと、権蔵さんもつられて微笑んだ。
「それで麗美のことなんだが、何があったかは大体聞いてるんだよな?」
「はい。同級生に刺されて、その親のせいで家族仲がぎくしゃくする原因を作ってしまったと。妹さんと御両親の仲はそんなに悪かったんですか?」
「悪くはなかった。表面上はな」
おそらく、家族にしか分からない繊細な隔たりがあったのだろう。権蔵さんは悔いるように、湯に映る自身の顔を見つめる。
「本当はオレが何とかするべきだったんだ。けど、当時はバカで、親に反抗してたからさ。家を空けるなんてしょっちゅうで、麗美の気持ちに気づいてやれなかった」
静かに語る権蔵さんの表情は後悔に満ちていた。きっと、榛摺さんの両親も同じ表情をしていたはずだ。
彼等はお互いを大切に思い過ぎたが故に、切り出す機会を逃していた。けれど、思い合う気持ちがあれば、どこかで向き合う機会もできるはずだ。僕がいなくても関係はいずれ修復されていたと思う。
「やっぱり僕は、御礼されるようなことしてないですよ。僕と話をしなくても、そのうち仲直り出来てたと思います」
「いつかは時間が解決してくれたかもな。でも、九年経ってもすれ違ったままだった。アイツが二十歳になる前に仲直りできたのは、間違いなくキミのおかげだ」
権蔵さんはきっぱりと言い切って、あらためて僕の方に向き直る。表情に先までの陰りはなく、けじめをつける漢の覚悟が宿っている。
「包介クン。妹のこと、オレたち家族のこと、本当にありがとう」
「……はい」
誠意の込められた謝辞は、安易な謙遜で濁すべきではない。権蔵さんの言葉を正面から受け止める。
たっぷり五秒、間を置いてから、権蔵さんはふ、と表情を緩めた。
「ようやく言えた。ありがとな。……で、話は変わるんだけど、麗美とはどんな感じなんだ?」
「どんな感じ?」
「いやあ、ほら、なんていうか、兄としてはさ、大学生と中学生ってどうかな、とか思ったりしてさ。俺と麗美よりは歳の差はないけど、やっぱり心配しちゃうわけだよ」
もしかして権蔵さんは、僕と榛摺さんが特別な関係にあると勘違いしているのだろうか。
あんな美人と付き合えたならこれほど嬉しいことはないけれど、冴えない男子中学生と綺麗な女子大生の組み合わせなんて、あまりに釣り合いが取れていない。並んで歩く想像も難しいので、実現はまずありえないだろう。
「そうだったら嬉しいんですけどね。普通のご近所付き合いしかないですよ」
「そうか? じゃあ麗美の片想いなのか」
「いやいや、僕なんて、口うるさい年下としか思われてないですよ。他の女の子達からも、からかわれてばっかりですし」
権蔵さんの目つきが鋭くなる。当たり障りのない返しをしたはずだが、何か引っ掛かったみたいだ。
「年長者として忠告しておく。自分を下げて、女の子の気持ちを蔑ろにしちゃいけない」
「そんなことは──」
「よく思い返せ。キミの周りの女の子達は、本当にからかうだけだったか?」
自惚れて関係を崩さないよう、自分はもてない男なのだと言い聞かせてきた。彼女達が僕に構ってくれるのは昔の僕との繋がりがあったからで、いつ飽きられても傷つかないよう心の準備をしていたつもりだ。
でも、違う。
彼女達は、今の僕に興味を持ってくれている。
桑染さんが毎朝挨拶してくれるのも、赤錆さんが遊びに誘ってくれるのも、濃墨先輩がデートしてくれたのも、烏羽さんが特訓に付き合ってくれるのも、榛摺さんがお見舞いにきてくれたのも、青褐先生が僕の日記をつけていることも。
何より、梔子先輩と交わした約束は勘違いなんかではない。
「キミはモテる男だ。自信もっていこうぜ」
「……はい」
調子に乗ってはいけない。けれど、期待を持つくらいは許されるのかもしれない。
僕と彼女達が両想いだという、淡い期待を。
「よし、良い顔になったな。それじゃあ、そろそろ上がるか」
「色々ありがとうござい──うわっ」
立ち上がり際に、足が滑った。あわや床にぶつかりそうなところで、権蔵さんが両手で腰を支えてくれる。
「す、すみません」
「滑りやすいからな。気をつけろよ」
裸同士での接触だが、嫌な感じはしない。本音で語り合い、心の距離も近づけたのだろう。互いに見合って、にへらと笑い合う。
「失礼します」
そんな折、外から突然、女性の声がした。
反応する暇もなく、浴室の扉が勢いよく開かれる。
「お背中流しに来ましたー。ほら、麗美ちゃんも」
「お、お邪魔しまーす……ハ?」
薄桃色の作務衣を着た榛摺さんとおつのさんが、口を開けて固まっている。
驚きたいのは僕の方だが、あまりの驚愕具合に文句をつける隙が見当たらず、数秒、無言の時間が流れる。
「アナタ」
口火を切ったのはおつのさんだ。権蔵さんを見据え、つかつかと詰め寄ってくる。
「ン? ……アッ、ちがう! そういうのじゃない!」
権蔵さんは大袈裟に手を振って否定するが、おつのさんの歩みは止まらない。
これは、何をどうしても無駄だろう。そういう雰囲気がある。権蔵さんも悟った顔になって、僕に語り掛けてくる。
「いいか、包介クン。男には、たとえ自分が悪くなくても、受け入れる度量が必要だ。好きな女の前では尚更な」
直後、おつのさんの特大のビンタが権蔵さんの頬を打った。




