057
怪談。
相変わらず恐ろしい響きだ。部活中に何度か触れ、濃墨先輩の解説もあって昔ほど大袈裟に怯えることはなくなったが、未だ克服には至っていない。
隣に座る烏羽さんも僕と似たようなもので、心霊系はしっかり苦手だ。金縛りもそうだが、自分の力が及ばない事象が恐ろしいのかもしれない。
「面白そうな話してるじゃん」
「その話、わたしも知ってるよ」
会話を聞きつけた赤錆さんと桑染さんがやって来た。
水遊びに興じた赤錆さんの肌は、水の珠が陽光を反射して艶かしく煌いている。桑染さんは上着を羽織り直したものの、濡れた体に服がぴったりと貼り付き、立体感がえらいことになっていた。
「こ、このままだと風邪ひいちゃうからさ。二人とも体拭いてきなよ」
「へえ。そうやってまた桑染のドスケベ紐ビキニ見ようとしてんでしょ。賢いエロガキねぇ」
「違う!」
「そんなに否定したら桑染が可哀想でしょ。ほら、落ち込んじゃった」
「わたし、がんばったのに」
「いや、悪い意味じゃなくてですね、僕はあくまでも──」
「見たいの、見たくないの、どっち」
「……見たいです」
「へえそう。でも包介にはえっちすぎるから許しません。あたし達で我慢しなさい」
「何なんだよもう……」
「桑染も脱ごうとしない。あっちで体拭いて着替えるよ」
満足した赤錆さんは、桑染さんを連れて荷物置き場に歩いて行った。
好き放題攻撃された挙句、恥ずかしい告白までさせられたが、おかげで雰囲気は和らいだ。烏羽さんの手は僕の左手首を掴んだままだが、瞳に力が戻っている。
僕等の顔を見回した濃墨先輩は、咳払いをして居住まいを正した。
「私、どこまで話したかしら」
「リゾートバイトという怪談と、今の僕等の状況が似ているところまでです」
「そうだったわね。それで、怪談の内容だけれど、簡単にまとめると、三人組の大学生が夏休みに始めた旅館のアルバイト中に、女将さんが儀式で呼んだ何かを憑けられそうになる話よ」
「儀式?」
「口で説明するのは難しいわね。調べた方が早いかしら。文章が整っているから、読み物としても楽しめると思うわ」
自分から怖い思いをしに行く勇気はない。曖昧に相槌を打つと、僕の意気地の無さを察した濃墨先輩は苦笑いを浮かべる。
「まあ、詳細は知らなくても結構よ。私が気にかかるのは、今の包介ちゃんの状況が怪談の導入部分とあまりに似ていることなの」
「大学生が化け物に襲われる話なんですよね。詳しくはないですけど、ホラー映画の定番って感じがします」
「そうね。ただリゾートバイトは、使っていないはずの二階に女将さんが食事を運んでいるのを目撃したことから始まるの。ここまで限定的な状況に一致するのは珍しい。不自然とも言えるわ」
確かに似ている。運ぶ役目は僕自身が担っているが、誰もいないはずの部屋に食事を運ぶところから始まる怪談は、そう多くはないだろう。
段々と寒くなってきた二の腕を摩っていると、ひた、と濡れた手が肩に置かれる。咄嗟に振り返った先には、桑染さんの驚いた表情があった。
「ご、ごめんね。急に触っちゃって」
「僕こそすみません。ちょっと驚いただけです」
「そう? それなら、う、うしろ失礼しまーす」
桑染さんは謝罪を述べつつも、離れる気はないようだ。僕の肩に手を置いたまま、すりすりと距離を詰めてくる。
設置面積は肩と手だけとはいえ、大人の女性が背後に迫る存在感は凄まじい。しっとりとした空気に収まりかけていた欲望がもぞもぞと頭を持ち上げるが、怪談に集中して何とか平静を保つ。
「それで、みんなリゾートバイトの話してたんだっけ」
「はい。今の僕達の状況が怪談に似ているって」
「……言われてみればそうかも。でも、あれって女将さんが黒幕だったよね。本館自体は大きいホテルだから隠れて何かしようって雰囲気はないし、おつのさんも悪い人には見えないけど」
「リゾートバイトだって、女将さんは感じの良い人だったでしょ」
着替えを済ませた赤錆さんがやってきた。彼女は団子になった僕達の前で立ち止まり、一瞬考えてから僕の正面に座った。
自然豊かな広々とした空間に五人で密集するのは勿体ない。さりげなく立ち上がろうとするが、烏羽さんが手首を離してくれない。この合宿中は女の子達に囲まれてばかりだ、と男には贅沢すぎる悩みを抱きながら座り直す。
「見た目じゃ腹の内なんて分かんないわよ。直接聞いてみる?」
「いえ、それは早計ね。私達、特に包介ちゃんはおつのさんの好意で受け入れてもらえている状況だもの。確証がない今、悪戯に問い正して関係を壊すのは避けたいわ」
僕はみんなと違って、お金を払って泊まるお客さんではない。今すぐ荷物を纏めろと言われても断れない立場だ。折角の楽しい場を妙な勘繰りで台無しにはしたくない。
しかし、合宿の前からずっと心に引っ掛かていることがある。怪談に似ている、なんて抽象的な理由ではなく、もっと現実的で不可解な点が。
「おつのさんはどうして、僕の宿泊代をおまけしてくれたんだろう」
中学生に任せられる仕事なんてたかが知れている。二泊三日の手伝いで宿泊代に届くはずはなく、そもそも雇うことで発生する厄介ごとの方が多いから、常連客の頼みであっても普通は受け入れない。
にも関わらず、おつのさんは受け入れた。しかも、僕の名前を聞いてすぐに。
「おつのさんの考えは分からない。でも、何か隠し事があるのは確かだ」
知らないままでは終われない。
思考の海から顔を上げると、赤錆さんと目が合った。彼女は口元だけで笑い、弾むような勢いで立ち上がる。
「よし決まり。それじゃ、早いとこ動きましょ」
「マ、マジかよ。ホンキでヤル気か?」
「当たり前でしょ? あたし達が何しに来たと思ってんのよ」
赤錆さんが濃墨先輩に視線を寄越すと、先輩は力強く頷く。
「ええ。私達はオカルト倶楽部。分からない、を不思議で済ませられるほど、楽観的な生き方はできないわ」
こうして僕達オカルト倶楽部の、発足以来初めての調査が始まった。
◇◆◇
調査の段取りは単純だ。
夕食の配膳に合わせてみんなで張り込み、食事が消える瞬間を抑える。誰も手をつけないなら、おつのさんが回収しに来たところを捕まえて理由を聞き、部屋の中から腕が伸びるようであれば正体を突き止める。
力づくではあるが、手っ取り早い方法だ。二泊三日の合宿も、二日目の夕方を迎えた。残された時間は多くなく、謎を解くには多少の強引さもやむを得ない。
そういう訳で、おつのさんから夕食の配膳の指示を受けた僕は、早速二階の開かずの戸の前に立っていた。
右側を振り向くと、角から四人の顔だけ飛び出している。下から赤錆さん、濃墨先輩、烏羽さんに桑染さんと、背の順に並ぶ様子は妙に収まりがいい。監視というにはあまりに丸見えであるが、おつのさんに見咎められたとしても、僕が怠けていないか観察していたとでも説明すれば納得するはずだ。
彼女達から視線を切って、いま一度、手元のお盆を見やる。
懐石料理の幾つかを普通の皿に取り分けたものだ。別館の調理場は使用できないので、本館の裏口で受け取り、ここまで運んできた。僕等は昨晩、本館まで移動して夕食をとったから、この部屋の主が人間であるなら、僅かな移動も嫌がる相当な出不精であることは間違いない。
お盆を置いて、三回、戸を叩く。おつのさんに教えられた食事の到着を知らせる合図だ。
とたとた、と敢えて足音を鳴らし、部屋から少し離れたところで立ち止まる。子供騙しの小細工だが、勘違いして出てきたら好都合だ。希望的観測を抱きながら、そっと後ろを振り返ると──
「ひっ」
引き戸の隙間から、白い手が伸びている。腕だけが床を這うように。
指は五本。色白ではあるが、青褪めてはいない。すらりとした女性の腕だ。腕だけが飛び出る様は、井戸を這い上る幽霊を連想するが、腕の先には体があるはずで、ならばあれは間違いなく人間だ。
動揺は数瞬で、すぐに正気を取り戻す。あとは偶然目撃してしまったことにしておつのさんに伝えれば、何かしらの進展はあるだろう。
しかし、彼女達にそんな悠長な考えはなかった。
「包介くぅん! お疲れさまぁ!!」
「あれぇ!? 二階って誰もいないんじゃないのぉ!?」
「誰だろぉ?! ちゃんと挨拶しなくちゃ!!」
桑染さんと赤錆さんがいきなり大声を上げた。わざとらしい会話を繰り広げながら、部屋の戸に向かって一直線に走る。
突然の襲撃に白い腕が驚く。慌てて引っ込もうとするが、お盆が引っ掛かってまごついている。
そうこうしているうちに桑染さん達が辿り着いた。戸の隙間に躊躇なく指を掛け、力任せに引き開こうとする。
「こんにちはぁ! 下に泊まってるものですぅ!」
言葉でどう言おうと、やっていることは押入り強盗そのものだ。部屋の主の執念も凄まじく、桑染さんの膂力を相手にしてなお戸を押し留めている。
「烏羽! 手伝え!」
「おうよ!!」
第三の矢、烏羽さんが参戦した。
幽霊の可能性に怯えていた彼女だが、必死に抵抗する様子を見て、白い腕の持ち主は人間だと確信したのだろう。赤錆さんの助けに意気揚々と応え、突入班に加わる。
「いけるよ!」
「オラァッ!!」
廊下を震わす雄叫びと共に、とうとう引き戸が開かれた。おつのさんに怒られるのは確実だが、もう後にはひけない。好奇心に誘われるまま、部屋の主を覗く。
「ふ、ふぇ」
部屋の主は、二十歳くらいの女性だった。
長い黒髪をおさげにして、さつまいもみたいな赤紫のジャージを着ている。単体で見ればお洒落なはずの丸眼鏡も、地味な色合いのせいで野暮ったく見える。田舎の中学生をそのまま大人にしたような風貌だ。
けれど、何かが引っ掛かる。彼女とは初対面のはずだが、どこかで会った気がする。
平時であれば凛々しさを感じるであろう、整った顔立ち。
二つ結びで無造作に括られた、艶のある黒髪。
唇の横にある、切り傷の痕。
「……榛摺さん?」
「ふぇぇ……」
榛摺麗美さん。
憧れの大学生を体現したような彼女は、変わり果てた姿でへたり込み、か細い悲鳴を上げていた。
◆◇◆
「……あらためて自己紹介しましょうか。麗美ちゃんのお兄さんの妻の、榛摺おつのです」
騒ぎを聞きつけ二階に上がってきたおつのさんは、縮こまる榛摺さんと爆笑する僕等を見てすべてを察したらしい。榛摺さんのお兄さんの妻、つまりは義姉にあたる彼女は、現在に至る経緯を説明してくれた。
事の発端は、榛摺さんが久しぶりに帰省してきたところから始まる。
家族との間にどことなく壁を作っていた彼女が自分から会いに来るのは初めてで、おつのさん達は大層驚いたそうだ。
丁度、父親が腰を痛め、入院せざるを得なくなったことが理由と考えたが、話を聞くと偶々時期が重なっただけだという。
ついにチャンスが訪れた、と大興奮のご家族は、病室でみっちり話し合い、榛摺さんの気持ちを知った。
彼女が抱えていた後悔、苦悩、そして、両親への感謝。
涙を流しながら微笑み合う様子は、当時を知らないおつのさんも胸を打たれる光景だったらしい。
そして話は、榛摺さんが家族と向き合うきっかけになった、一人の中学生に移った。
「そこで包介クンのことを知ったの」
夕暮れの公園。榛摺さんと出会ったあの日。
僕などは美人と知り合えたと浮かれるばかりだが、榛摺さんにとっては自分を見直す大事な一日になった。
「みんなでいつかご挨拶にいかないとね、なんて話したりもして。だから、巳狗狸さんから連絡を受けた時は本当にびっくりしちゃった」
お得意様の頼みとはいえ、責任者不在の中、学生を受け入れる余裕はない。当然断ろうとしたが、僕の名前を聞いて考えが変わった。
ぜひ、御礼を。
正面から御礼すると遠慮してしまうだろうから、こっそりおもてなしすることを決めた。別館を綺麗に掃除し直し、食事も一つ上に上げる。申し出のあったアルバイトを通して、気安い関係を作る。そうして最後の日に、家族できちんと御礼を述べるのだ。
しかし、この計画には問題があった。
「麗美ちゃんがこんなになっちゃうとはね……」
両親とのわだかまりが解けた榛摺さんは、盛大にだらけていた。
今までの反動だろうか別館の一室に閉じこもり、だらだらと衣食住の提供を受ける毎日。ぱつぱつのジャージに身を包み、寝転がって漫画を読み耽る姿は、とても人に見せられるものではなかった。
「包介クン達も、ちゃんとした麗美ちゃんしか知らなかったでしょう? こんなだらしないとこ見せたら幻滅しちゃうし、隠しておこうと思ってたんだけど、ねえ」
おつのさんは榛摺さんに呆れと蔑みの目を向ける。視線の先にいる彼女は、両手足を折り畳んで蹲ったまま動かない。
「ま、悪いのは自分だからね。これに懲りたら、掃除くらいは自分でしなさい」
「うぐぐ……」
「それじゃあワタシはお仕事に戻るわね。その子のことは好きなだけ弄っていいわよ」
おつのさんは榛摺さんの呻きを無視して、本館に戻って行った。残されたのは、丸くなったさつまいもと散々笑った僕達だけだ。
「物持ちいいのね、麗美ちゃん」
「ブフッ!」
早々に赤錆さんが仕掛けた。吹き出す烏羽さんを、濃墨先輩は無言で咎める。
「い、いや、濃墨センパイは知らないだろうけど、この人メッチャ美人なんだぜ。それがこんな、フフッ」
「あの素材からこんだけ芋臭くなれんのは才能よ、才能。弄ってあげなきゃ逆に失礼でしょ」
「どんな人にも気を抜いてしまうときはあるわ。恥ずかしいことではないでしょう」
濃墨先輩の優しい言葉に、榛摺さんの心が開いた。恐る恐る顔を上げて、吐息で曇った眼鏡を晒す。
「ふっ」
「あ、笑った」
榛摺さんの心が再び閉じる。
青褐先生のお宅でも見たことのある光景だ。こうなってしまえば回復するまで待つか、動かざるを得ない状況を作るしかないだろう。
みんなも好きなだけ弄り倒して満足したのか、丸くなる榛摺さんを放置して部屋の中を物色している。赤錆さんと烏羽さんは当然の如く、濃墨先輩ですら我慢できなかったようだ。特に桑染さんは部屋の隅で何かを熱心に見ている。
「桑染さんは何してるんですか?」
「麗美って、あんまり自分を出さないから。どんな本読んでるのか気になって」
桑染さんは、榛摺さんのタブレットを勝手に触っていた。電子書籍が保存されている端末だ。趣味嗜好を調べるのに、これ以上うってつけのものはない。
勝手に探っていいものではないが、大学生が読む本には興味がある。悪いと思いつつ、桑染さんの肩越しに購入履歴を覗き見る。
少女漫画、映画の原作になった小説、料理本にファッション誌。
榛摺さんの印象どおりの品揃えだ。しかし、一ヶ月くらい前から、変わった題名が並んでいる。
「バリキャリだけど中学生にガチ恋してもいいですか、隣の真面目系美少年は私を愛しすぎている、オオカミ少年に食べられたワタシ……」
どれも聞き馴染みのない題名である。作者は違うようだが、表紙の構図は服のはだけた少年が頬を赤らめる女性を抱き締めるものばかりだ。
「へえー。麗美もマジびしょ好きなんだ」
「マジびしょ?」
「隣の真面目系美少年は私を愛しすぎている、ってやつ。うわっ、購入時期もドンピシャだ。麗美も分かりやすいなぁ」
僕が知らないだけで、有名な作品なのかもしれない。試しに読んでみようとタブレットを触ろうとしたところ、上から手が伸びてきて取り上げられてしまう。
「な、なにみてんの」
榛摺さんが動いた。余程に見られたくないものだったのか、顔を真っ赤にして、口元はわなわなと震えている。
「おっ。なんかあったぞ」
今にも雷が落ちそうな瞬間、烏羽さんが何かを見つけた。榛摺さんが首を痛めそうな速度で振り返る。
「あんた、それ……」
「スイッチついてるぞ。うわっ、すごいブルブルする。なんだこれ」
烏羽さんが持っているのは、何らかの電化製品のようだ。棒に丸い頭がついたこけしみたいな形状で、頭がぶるぶる震えている。
動きとしては道路工事で見る地均しの機械に近いが、家庭用があるはずもない。面白いものは大体茶化す赤錆さんすら敬遠しているし、触れてはいけないものなのだと思う。榛摺さんの顔色も赤に紫が混ざり始めてきた。
「それいいよね。わたしも使ってる」
多分、優しさのつもりなのだろう。桑染さんが励ますように榛摺さんの耳元で囁く。
しかし、ぶち切れ寸前の人にはまったくの逆効果で、軽率なひと言は最後のとどめになった。
「今すぐ出てけ!!」
爆発みたいな怒鳴り声に、僕達は慌てて部屋から飛び出した。




