055
電車に揺られて一時間。そこからバスでもう一時間。
合計二時間の道程は、えっちな誘惑に溢れていた。
歯どころか頭蓋骨まで食いしばる意気込みで何とか耐えはしたものの、心身に受けた損害は大きい。夏休み合宿という心躍る響きからはかけ離れた疲弊具合である。
けれど、目的の旅館が見えた瞬間、体の怠さは吹き飛んだ。
「おー」
「雰囲気あるわね」
巨大な本館から少し離れ、節くれだった木々に隠れるようにして建っている木造二階建ての瓦張り。
玄関は昔ながらの引き戸で、垂れた暖簾の白は僅かに霞んでいる。しかし、看板の縁の金色は輝きを失っておらず、頼りなげな印象はない。柱は長い年月を経て黒く変色しているが、却って重厚感を出している。
古いけれど、古くない。歴史的建造物のような、趣のある佇まいだ。
「どうぞおいでくださいました」
門構えに圧倒されていると、着物姿の綺麗な女性が迎えてくれた。歳はまだ三十半ばといったところだが、丁寧なお辞儀は女将の風格がある。
「お久しぶりです、おつのさん。お変わりありませんか?」
「ええ、お陰様で。巳狗狸さんの方は? たしか、今年受験だったでしょう」
「偶の息抜きも必要かと思いまして。突然大勢で押し掛けてしまってごめんなさい」
「いえいえ。こんな時でもないと離れを使う用事もないですから」
常連の濃墨先輩とは顔見知りなのだろう、二人は畏まりつつも気安い挨拶を交わす。
大人のやり取りだ。本来は率先すべき保護者役の桑染さんは、僕の後ろでもじもじしていた。
「さあさ、外は暑いですから。お部屋までご案内しますね」
促されるまま暖簾をくぐる。
外観と同じく、内装も大正時代をそのまま写しとったかのようだ。
石畳の広い玄関に、板張りの床と壁。過度な装飾はなく、立派な花瓶に松の木が植えられているだけだ。
それでも、はっと息を呑んでしまう雰囲気がある。空気感が違うのだろうか。奥まで続く廊下は、埃一つない凛とした空気で満たされている。
「いい感じね」
「な」
用意されたスリッパに履き替え、奥に進むおつのさんの後ろをぞろぞろとついていく。
真夏の昼であるが、足裏に伝わる床板の温度はひんやりしている。軽い軋みの音も耳に馴染みが良い。
「こちらがお部屋になります」
一階の最奥でおつのさんが足を止める。
障子戸をするすると開いた先には、畳張の大部屋が広がっていた。
「すてき」
桑染さんが思わず声を漏らし、おつのさんがくすりと微笑う。彼女は恥ずかしそうに僕の背中を摘むが、声が漏れてしまうのも無理はない。
如何にも旅館然とした室内だ。間取りは普通の旅館と大差ないが、壁や天井、調度品に至るまでのすべてに、歴史を感じさせる風格がある。奥の広縁の窓から覗く青々とした緑は夏の陽射しのほとんどを遮り、隠れ家的な薄暗さが却って魅力だ。
「すげー!」
待ちきれなくなった赤錆さんと烏羽さんがスリッパを脱ぎ捨て、部屋に上がり込む。室内を早足で歩き、戸という戸を開けて回る様子は子供丸出しだ。
「温泉ついてんぞ!」
「やば! 最高じゃん」
内風呂までついてあるらしい。恥ずかしそうに肩を窄めていた桑染さんも温泉には勝てなかったようで、慌ててスリッパを脱ぎ揃えると、ぱたぱたと二人の後を追っていく。
「……騒がしくてごめんなさい」
「いいのよ。巳狗狸さん達の他にお客様もいないから。ここも久しぶりに使ってもらえて喜んでいるんじゃないかしら」
これほど雰囲気の良い宿に、誰も泊まっていないとは驚きだ。しかし、古い分だけ維持費もかかる。一般開放はしておらず、本当のお金持ちだけが利用する特別な場所と思えば、他にお客がいないのも不思議ではない。
「さてと」
区切りの息を吐いたおつのさんが腰に手を当て、僕に向き直る。
「君が黒橡包介クンね? うちの人から聞いてるわ。宿泊代分、お手伝いしてくれるそうね」
「は、はい。よろしくお願いします」
「フフ。そんなに緊張しなくてもいいのよ。包介クンにお願いするのは、離れの管理の手伝いだから」
おつのさんの言葉を聞いてほっとする。
冷静になれば、職場体験でもない中学生をお客さんの前に立たせる旅館などあるはずないが、一人だとどうしても難しく考えてしまう。昨日は布団の中で、制服を着てフロントに立たせられる自分を想像し、勝手に不安になっていた。
「それじゃあ早速、お仕事の説明しようと思うんだけど、その前に聞いておきたいことはある?」
仕事の予定を質問で狂わすのは、あまり印象がよくないだろう。けれど、折角の機会だ。今のうちに気掛かりは解消しておきたい。
「あの、僕の泊まるところはどこなんでしょう」
濃墨先輩達の泊まる部屋は分かった。しかし、僕の泊まる場所はまだはっきりしていない。
子供のアルバイトで賄えるのだから、この部屋ほど立派なはずはないが、それでも期待はしてしまう。それに、リュックサック一つとはいえ、荷を降さなければ身動きも取りづらい。
「そうよねえ。ワタシも、いくら子供だからってどうかなって思ったんだけど。でもねえ」
簡単な質問のつもりだったが、おつのさんの歯切れが悪い。頬に手を当て、ああでもこうでもと首を傾げている。
余程酷い場所なのだろうか。だとしても、贅沢は言えない。物置部屋でも吹きさらしでも、横になれれば何とかなる。
「あの、僕はどこでも大丈夫ですよ。寝つきが良いってよく言われるので」
「うーん。そういうことじゃないんだよねえ」
困らせ続けるのも悪いので声を掛けてみたが、僕が思うよりも事情は複雑らしい。うんうん悩むおつのさんを前に手をこまねいていると、部屋を見て回っていた濃墨先輩がひょっこりと顔を出した。おつのさんに音もなく忍び寄り、二人でこそこそと内緒話を始める。
一体何を話しているのか。そこはかとなく嫌な予感がする。
「……えーっと、そう。包介クンのお仕事だと一人部屋の宿泊料金に足らないから、巳狗狸さん達と同じ部屋に泊まってもらうことにしたの」
「えっ」
聞いてない。
いや、理屈としては分かる。一人部屋を借りるより、大部屋のうちの一人の方が料金が安いというのは全然理解できる。
だが、道義として。
年頃の男女が寝床を共にするのはどう考えてもまずい。
まして、道中の電車ではあんなことがあったばかりだ。彼女達にその気がなくて、数でも力でも男側が負けているとはいえ、許されていいことではない。
「なに騒いでんの?」
「包介ちゃんが私達と同じ部屋に泊まりたくないと駄々を捏ねているの」
「えー? なんでぇ?」
まごついているうちに、桑染さん達も合流してきた。定位置の打ち合わせでもしてあるのか、皆んなが僕を取り囲むようにして立つので、すごく圧迫感を覚える。
「ただ寝るだけだろ? なに照れてんだよ」
烏羽さんが他人事みたいに言ってくるが、一番の問題は君だ。
彼女の家に泊まった晩に起こった出来事を忘れたことはない。強さの中に確かに存在する柔らかさ。ふとした時に思い出しては、僕の体を懊悩させる。
次にあんなことを許したら、確実に終わる。
「うちで泊まったときも大丈夫だったろ? 気にしなくていいって」
周りに気取られないよう気遣ってか、肩を組んだ自然な流れで囁いてくるが、問題はそこではない。
胸が背中にあたっている。
見られるのは照れるのに、自分からぶつける分には気にしない。男友達のようでいて異性を感じさせる不思議な距離感が、尚更に僕を狂わせる。
烏羽さんに誘われてか、段々と囲いが狭まってきた。女の子の密度が高まり、思考が熱気に溶けていく。
ぱん。
「心配しなくても大丈夫よ」
赤錆さんが手を鳴らした。
僕と同じで体は小さいが、胸を張る姿は堂々としている。一瞬にして皆んなの視線を集めた彼女は、茹だる空気を払うように手を振る。
「一応は部活動なんだから、そういうのはナシ。あたしと濃墨がきっちり監視するし、ピンク桑染と無知エロ烏羽には手出しさせないから安心して」
桑染さんと烏羽さんは抗議の声を上げるが、濃墨先輩が優しく背中を押して二人を部屋に押し込んだ。
素晴らしい役割分担だ。赤錆さんと濃墨先輩が組めば、怖いものはない。
だからといって男女同部屋が許されるわけではないが、ひとまずは安堵の息を吐いていると、赤錆さんがそっと身を寄せてくる。
「あたし達からはなにもしないから」
聞き返す隙もなく、赤錆さんは悪戯っぽく笑って、部屋の中に入ってしまった。
彼女達に翻弄され続けて立ち尽くすだけの僕を、おつのさんが白い目で見つめている。
「……親御さんに怒られるようなことはしないでね」
すぐに返事はできなかった。




