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旅は良い。
日頃の引きこもりがちな生活を知る人が聞けば、すぐに批判されそうな意見であるが、僕は目的のはっきりしない外出をしないだけであって、遠出はむしろ好きな方だ。灰色塗れの無機質な風景から抜け出して色鮮やかな自然に包まれるのも、見慣れぬ街並みを歩いて回るのも、どちらも得難い体験である。
つい先日の母さんの里帰りも、出掛けの理由は複雑だったが、思いがけない人に巡り合い、忘れられない思い出になった。
限られた時間での繋がりだからこそ、一瞬の情景が強く記憶に残るのかもしれない。今でも目蓋を閉じれば、夜空に咲いた満開の火の花が鮮明に蘇ってくる。
梔子先輩の唇の感触も。
「包介」
「はい!」
「次、包介の番だよ」
慌てて振り向くと、隣に座る赤錆さんが手札を突き出してむくれていた。浸っているうちに手番が回ってきていたらしい。
深く考えずに一枚引く。残念ながらペアは作れなかった。
「たかがババ抜きって手ぇ抜いてない?」
「抜いてないよ。ちょっと考え事してただけ」
「……ふーん。考え事、ね」
含みを持たせた言い方をして、赤錆さんはじろりと僕の顔を見回す。
ファーストキスの思い出に浸っていました、とは冗談でも言えないので誤魔化すしかない。えへえへ笑って反対隣を振り返る。
「あやしい」
すぐ目の前に桑染さんの顔があった。
桑染さんは道ですれ違ったら思わず目で追ってしまう美貌の持ち主ではあるが、鼻先数センチの至近距離まで迫られると驚きが勝る。
動揺を悟られないよう正面を向く。
「……包介ちゃん」
「チッ。トランプに集中しろ」
向かいの席には濃墨先輩と烏羽さんが座っている。邪な心を見透かしているかのような視線である。
逃げ場がない。物理的に。
なにせ、電車の四人席に五人が押し詰めているのだ。窓の外の景色を楽しむのも難しい密集具合である。
当初は、女子バスケ部の監督で手が空かない青褐先生を除いた、オカルト倶楽部の部員だけで合宿する予定だった。だが、子供だけの外泊に不安を抱いた母さんが桑染さんに密命を与え、いつの間にか保護者として同行することになっていた。
理屈としてはもっともで、すっかり旅行気分の桑染さんを拒むのも忍びない。女子三人の反応は様々だったが、僕が一方的に誘ったのだと責任を負うことで何とか理解してもらった。そうして、この奇妙な五人組が誕生したのだった。
「言えないようなこと考えてたの?」
母さんから僕の素行調査も頼まれているのだろう。桑染さんのやる気は凄まじく、些細なことでも根元ごと掘り起こす勢いで問い詰めてくる。
目的の駅まであと一時間。凌ぎ切るには厳しい時間だ。
席を移ろうにも、肩どころか側面がびったりひっつく状況では身動きも取れない。こんなことなら、席決めの時にもっと主張すべきだった。
「どうせ烏羽のデカパイに見惚れてたんでしょ」
後悔を募らせていると、赤錆さんがとんでもないことを言い出した。
烏羽さんの顔は一瞬で赤く染まり、両腕で胸を覆い隠す。
「す、すけべ!!」
風評被害も甚だしい。けれど、否定しきれない自分もいる。
あの夜から一週間が経った今も、梔子先輩とのキスの余韻に浸っているのだから。
自らの卑しい心を嘆いていると、桑染さんに肩を撫でられる。
「男の子だもん。仕方ないよね」
責めるような態度から一転、優しく擁護された。
心遣いは嬉しいが、擁護の対象は僕のすけべ心なので素直に喜べない。気恥ずかしさに目線を下に逸らす。
そこには、巨大なおっぱいがあった。
どんと聳え並ぶ双丘に、すけべ心よりも感嘆の気持ちが沸いてくる。烏羽さんも大概大きいが、桑染さんの重量感は二回り以上だ。
「……触ってもいいよ」
耳元で甘く囁かれる。落ち着いた女声は心地良く脳髄に染み込み、誘われるままに視線が胸元に集中していく。
これに、触れられる。
飲み込んだ唾液が音を立てて喉を通る。考える頭は消失した。無意識下のうちに両手が引き寄せられていく。白くて大きなふかふかの魅力に抗う術はない。
「ぐえ」
指先が桑染さんの体温を感じるまで近づき、あとほんの一息で触れられると思った瞬間、首に腕を巻きつけられ、ぐいと引き戻された。
赤錆さんに頭を抱え込まれた。後頭部に当たる慎ましやかな膨らみは心に優しい。
「桑染は爆乳すぎんのよ。そこまで行くと下品だわ」
言葉は全然優しくない。鋭い口撃が桑染さんを斬りつける。
「ふ、ふん! 小さき者共の嫉妬は醜いぞよ!」
桑染さんも言われっぱなしでは終わらない。阿保の皇帝みたいな口調で反論する。
常ならば言い争いに発展する場面だ。しかし、赤錆さんは大人を見せ、余裕そうな薄笑いを浮かべるだけに留まった。
「小さいは小さいなりに魅力があるの。ねー、包介」
言いながら、赤錆さんは更に身を寄せてくる。
ほとんど抱き付くような体勢だ。彼女の右手がすりすりと内腿に伸びてきて、擦れた肌がジーンズ越しに熱を持つ。
「次はハーフパンツ履いてきて」
「な、なんで?」
「そっちの方がきもちいいでしょ?」
「いや、気持ちいいとかの問題じゃ──あっ」
「なあに今の声。やらしいんだ」
赤錆さんの右手は糸を引くみたいな艶かしい速さでずり上がり、危険な領域に到達した。
ここから先の侵犯は許容できない。急いで止めようと腕を突っ張る。
「ちゅぱっ」
だが、赤錆さんの対処は早かった。
僕の腕を阻むのと同時に、無防備な首筋にキスされる。生っぽい吐息と肌を吸われる感覚に脳の奥が短絡し、見えない火花がばちばち弾ける。
これ以上はまずい。腹の奥で滾る何かが爆発する予感がする。
取り返しがつかなくなる前に力任せに振り解こうとしたとき、別の方向から腕が伸びてきた。両頬をがっちり挟み込まれ、無理やり首を振り向かせられる。
「……アタシのことも、ちゃんと見ろ」
俯き気味な烏羽さんの顔がある。上目遣いで僕を覗く瞳には潤んでいて、普段は吊られた眉尻も不安げに垂れている。
凛々しい彼女の媚びるような表情。
額に脂汗が滲むのと同時に、烏羽さんの胸元が目に入る。
今日の彼女はTシャツに薄手のジャージを羽織っただけのラフな格好だ。前傾すれば、健康的な谷間が見えてしまう。
烏羽さんも気づいているだろう。けれど彼女は頬を赤くするばかりで、胸元を隠そうとはしない。今にも泣きそうな瞳で、じっと僕を窺っている。
「こほん」
可愛らしい咳払い。
控えめな響きとは裏腹に、背筋にぞくりと悪寒が走る。
濃墨先輩がこちらを見据えている。口元こそ微笑んでいるが、表情筋は仮面を被ったかのように微動だにしていない。言外の威圧を強く感じる。
「ババ抜き! ババ抜きしましょう! 次は桑染さんが引く番ですよ! いやあ、盛り上がってきましたねぇ!」
認めよう。僕はすけべだ。
でも、彼女達の方がもっとすけべだと思った。




