051
母さんは過去、父親に襲われた。血の繋がった実の父親に。
許されない行為だ。
大人が子供を襲う現場を目にしたから分かる。あれほど醜く吐き気のする行いを、僕は他に知らない。
しかし彩さんは強権に振る舞う夫を恐れ、見て見ぬふりをした。
そうして母さんは実家を飛び出し、自力で生活しているうちに結婚、僕が生まれたらしい。
母さんがそんなに辛い過去を抱えていたなんて、考えもしなかった。与えられる愛情を当たり前に思っていた。
重い。子供の僕が受け止めるには、あまりにも。
「嫌なこと聞かせちゃってごめん。でもね、まだこの人と話さなきゃいけないことがあるの。それで、本当にごめんなんだけど、ちょっと外してくれないかな。多分、一時間もすれば終わるから」
そう母さんに告げられたときも、従うことしかできなかった。
言われるまま外に出た僕は、玄関先の軒下で途方に暮れていた。
「……どうすればいいんだろう」
こんな日に限って陽射しは強い。
高く昇った太陽から鋭い光が降り注ぎ、長い前髪がちりちりと熱を持つ。この場に居続けていては、そのうち火が着きそうだ。
とりあえず、どこか日陰に入って頭を整理しよう。
喫茶店、コンビニでもいい。歩いていればそのうち見つかる。
そういう甘い腹づもりで散策を始めたものの、すぐに後悔する羽目になった。
この町には家以外何もない。年季を感じさせる一軒家ばかりが並び、お店らしい建物は見当たらなかった。
「あっつい……」
首に流れる汗にハンカチをあてるが、拭いきれない。木陰でも何でも早いところ暑さから逃れる場所を見つけないと、熱中症で倒れてしまう。
壁伝いにふらふらと歩く僕の横を、小学校低学年くらいの子供らが走り抜ける。田舎といえど夏休みの時期は一緒だろうし、不思議なことではない。
けれど子供らにとって、僕は物珍しい存在のようだ。通り過ぎたかと思えば少し離れた場所で立ち止まり、じっとこちらを見つめてくる。もしかしたら、この辺りの子供達は顔見知りばかりなのかもしれない。
異邦人には居心地の悪い場所だ。お店に入っても同じような視線に晒されるだろうし、目的地を人気の無い場所に変える。
そうして、町の中心地から道をずらした矢先のことだった。
階段。
山の斜面に沿って、石造りの階段が伸びている。
傾斜が急で先は見えず、立て看板もない。生い茂る木々によって光は遮られ、一帯はトンネルの中のような薄暗さに覆われている。
ただでさえ人通りが少ないのに、この道を使う人は誰もいないらしい。振り返っても人影はなく、野鳥と虫の鳴き声が響くだけである。
正直、怖い。
田舎の伝奇特有の不気味さがある。少し前の僕なら、直感に従いこの場を離れていたことだろう。
しかし、今の僕はオカルト倶楽部の一員である。活動らしい活動は一切していないが、それでも正式な部員なのだ。いつまでも及び腰では、濃墨先輩に面目が立たない。
ひとつ息を整え、もう一度階段を見上げる。
「……よし」
ちっぽけな勇気を振り絞り、一段目に足をかける。
思ったよりも踏み面が狭く、泥や枯葉で汚れて目視もしづらい。斜面に並行になるくらい前屈みになりながら、一段ずつ慎重に登る。
一段、また一段。
登るたびに森が深く、影が濃くなっていく。
しかし、熱気が薄れることはなく、むしろ、まとわりつく湿気のせいで先までよりも汗をかく。欠けた目蓋に沿って右目に流れ込むので沁みるし痛い。脱水症状で気絶する可能性もいよいよ現実的になってきた。
引き返そうす選択肢が頭を過ったその時、ようやく階段の終わりが見えてきた。
重い足に鞭を入れ、一段飛ばしで駆け上る。
「ついた」
登り切った。
しかし、清々しい達成感とは裏腹に、眼前に広がる光景は何とも寂しいものだった。
塗装の剥げた木製の鳥居と老朽化の激しい社。緒と鈴はなく、賽銭箱の蓋は外されている。当然、手入れもされておらず、石畳の道にも緑が侵食していた。周囲の木々の背丈はそれほど高くなく、青空が綺麗に見えるのだけが唯一の救いだろうか。
「はあ」
何を期待していたんだ、僕は。
使われていない階段の先には、放棄された建物があるだけ。
よく考えなくても分かることだった。秘密の力が眠っているなどという都合の良い話はない。
「……はあ」
また、あの階段を降りるのか。
勝手に登ったのだから文句を言う権利はないが、それでも気は重い。
すぐに降り始めるには体力が厳しいので、一旦座って休もうと、社の裏手に回り腰を掛けられる場所を探す。
「なんだこれ」
縁側に何か置いてある。
鉛筆、だろうか。よく削られたそれらは偶然か、図形を成すようにして置かれている。漢数字の八が二つとマイナス記号に見えるが、意図は分からない。
端の一本を摘み上げてみる。持ち手の部分の色が変わるほど使い込まれてはいるものの、材質はしっかりしている。ここに持ち込まれたのはつい最近のようだ。
しかし、こんなところに人が来るだろうか。
損耗の具合からして、関係者が修理のためにやってきたという線は薄い。地元の子供等が秘密基地として使っている、なんて可愛らしい想像もできるが、行き来するには道が険しい。
それじゃあ、一体誰が。
ざわり、と周囲の音が遠ざかる感覚がした。
あれほどうるさかった生き物達の鳴き声が、膜を一枚隔てたみたいにくぐもって聞こえる。
何か、大きな気配。
階段の方から強い視線を感じる。野生動物ではない。こちらに近づいてくる。
ひたひたと、足音を殺して。
気配は徐々に近づいてくる。向こうも警戒しているのか、足取りは慎重だ。
ゆっくり、ゆっくりと。
三歩離れた距離で気配が立ち止まった。
同時に振り向き、鉛筆を構える。
「……ほっけ君?」
どうして彼女がここに。
振り向いた先には、トートバッグを肩にかけた梔子螺実亜先輩が、ぽかんと口を開けて立っていた。




