050
山の緑が延々と流れていく。
天候に恵まれたため風もなく、青空に浮かぶ巨大な入道雲も固まったままだ。動くものと言えば反対車線を走る車くらいで、ただ通り過ぎていくだけのそれに目新しさはない。
久しぶりの遠出に最初は心を躍らせたが、家を出てから一時間半、単調な風景ばかりが続くようになると、流石に退屈してくる。
窓の外を眺めながら大きな欠伸を吐くと、軽自動車を運転している母さんが申し訳なさそうに口を開いた。
「ごめんね、ほう君。せっかくの夏休みに、こんな田舎に行くことになっちゃって」
椋実先輩にビンタされた後、マネージャーになる話は結局、有耶無耶になった。
平穏を得た僕等オカルト倶楽部は早速、夏の合宿の予定を詰めようと集まったのだが、間の悪いことに急な用事が入ってしまった。
母さんの父親の訃報が届いたのだ。
日頃から親族とは縁を切ったと話す母さんだが、肉親の死となると無視するわけにはいかない。葬儀への参列は頑として断ったものの、母親からの度重なる連絡に辟易し、とうとう実家に戻ることを決断したのだった。
「戻ること自体は全然大丈夫だけど……本当にいいの? 僕も連れてきて」
母さんは実家を嫌っていたし、絶対に僕を近づけたくないとも言っていた。事情は知らないが、敢えて僕を連れていく理由は分からない。
純粋な疑問を投げ掛けると、母さんはコーヒー豆を噛んだような物凄く渋い顔になった。
「ママだって嫌よ。でも、しょうがないの。お願いだから分かってね」
「まあ、母さんがそう言うなら何でもいいけど」
「ほう君いい子! 着いたらいっぱい抱っこしてあげる」
「そういうのはいいや」
「なんでよ!」
再び窓の外に目をやると、丁度、木と土肌ばかりの山々を抜けた。緑一色だった景色に、夏の陽射しと開けた世界が飛び込んでくる。
「海だ」
眼下には海と隣接する小さな町が広がっている。
山間の平地に民家が並ぶ様子は素朴なミニチュア模型のようだ。細波は陽光を反射してきらきらと輝き、港にはフェリーも停泊している。あんな田舎、と蔑むほどの哀愁は感じられない。
「……はあ。最悪」
けれど母さんは、ちらと外に目をやると重い溜め息を吐いて頬杖をついた。億劫そうに左のウィンカーを上げて、勾配のきつい坂道を降る。
母さんの母親。
僕にとって祖母にあたるその人は、溜め息が出るほど面倒な人なのだろうか。
初めて出会う母さん以外の親族に緊張と不安を抱きながら、両脇が草木で溢れる下り坂の先をじっと見つめていた。
◇◆◇
「やっと着いた」
母さんが車を停めて、気怠げに首を回す。
「ほんとにここ? 間違ってない?」
「そうだよ。やっぱり嫌になった?」
「いや、そうじゃないけど……」
想像していたよりずっと大きい。
ちょっとした体育館くらいはありそうな敷地を二メートルほどの木板の塀がぐるりと囲い、開け放たれた頑丈そうな門扉の奥では古風な御屋敷が構えている。地方の大地主の家といった様相だ。
「無駄に大きいだけだよ。呼んでくるからちょっと待ってて」
母さんがハザードランプを点け、車から降りる。門扉に対してやけに小さいインターホンを押すと、しばらくして奥の邸宅から一人の女性が小走りでやってきた。
「ひ、久しぶりね」
彼女が、母さんの母親。
母さんの年齢を考えると少なくとも五十代ではあるはずだが、四十代前半くらいに見える。ひどく疲れた顔をしていることを除けば、母さんによく似た綺麗な女性だ。
「そ、それで、この子は? 貴女の子なの?」
母さんは僕の存在すら伝えていなかったらしい。不審とも思える不安げな目つきで、母さんと僕を交互に見やる。
注目されて何もしないのも気まずいので、とりあえず会釈をする。
「こ、こんにちは。千影の母の銀煤竹彩です」
彩さんが一歩、前に出る。
「寄るな!」
瞬間、母さんが激しい剣幕で割って入り、大音量の罵声を浴びせた。
空気が震える迫力に、彩さんは首を竦めて引き下がる。
「……車で来た。早く車庫あけろ」
「え、ええ。今開けてくるから。ちょっと待ってて」
ぱたぱたと車庫に向かって走る背中を眺めていると、母さんが手を握ってきた。
少し力が強い。大声で誤魔化してはいるが、僕以上に緊張している。
彩さんが車庫に繋がる門を開けたのを確認すると、母さんは無言で運転席に座った。車庫まではごく近い距離だが、母さんは僕に助手席に乗るよう手招きする。ほんの僅かな時間でも、僕と彩さんを二人にしたくないようだ。
「あいつに気を許さないで」
母さんはバックミラー越しに僕と目を合わせ、淡々と告げる。
母さんと実家の間にある軋轢の理由は結局教えてもらえなかったが、緊迫した関係を目の当たりにすると尚のこと聞き辛い。
母さんが後ろ向きで駐車すると、ずっとタイミングを窺っていた彩さんが好機と言わんばかりに運転席に駆け寄ってきた。
「お、お腹空いた? お昼用意してあるから一緒に食べましょう」
「お前の作ったものなんて食べるわけないだろ」
母さんは頑なだ。項垂れる彩さんを見ていると段々可哀想になってきた。
「暑いからさ。取り敢えずは入れてもらって、それから考えよう。ね?」
とはいえ、事情を知らない僕が、彩さんを直接手助けするわけにもいかない。悩んだ末に中途半端な助け舟を出すと、母さんは流し目で僕を一瞥し、渋々車を降りた。
無言で邸宅に向かう背中を追う。
後ろから彩さんが慌ててついてくるが、母さんは振り返りもせず、ぶっきらぼうに玄関扉を開けずかずかと上がり込んだ。
「わ」
入って早々、玄関の広さに目を奪われた。
寝転べそうなほど広々とした土間。上がり框には謎の巨木が鎮座し、申し訳程度に添えられた花瓶も見たことのない大きさだ。視線を上げれば読めない書体で書かれた掛け軸が額縁に収められ、高価そうであることだけがひしひしと伝わってくる。
「ふふふ。お父さん、玄関にはお金かけてたの」
呆気に取られていると、彩さんがそっと耳打ちしてきた。お金持ちは玄関に力を入れるというのは本当のことらしい。
「胸糞悪い成金趣味は相変わらずね。いくら外面を整えても腐った根性が透けて見えてんだよ」
ずっと下手に振る舞っていた彩さんだが、亡くした夫への侮辱は我慢ならなかったのだろう。母さんが不愉快そうに吐き捨てると、目尻がきつく吊り上がる。
剣呑な空気。しかし、母さんはむしろ待ち望んでいたように歯を剥いた。
「なんだよ。飯炊き女の分際でえらく生意気な目だな。言いたいことでもあるのか?」
「あなたはお父さんのこと、なにも知らないじゃない」
「よく知ってるよ。あのクズがどういう人間か、誰よりもね。当ててやろうか、葬儀には誰も来なかっただろ」
「来たわよ。お香典だってたくさんいただいたわ」
「馬鹿だな。私が言ったのは、本気で線香をあげに来た奴のことさ。人数だけなら集まるに決まってるだろ」
「違う。皆さんは、本当にお父さんを惜しんで──」
「傲慢な成金が死んで、残ったのは世間知らずで奴隷のババアだ。両手いっぱいに金を抱えた馬鹿を見逃す手はないよな。香典なんて金ヅルの見物料みたいなもんさ。集まった中に土地と株の話をしなかった奴はいるか? いないだろ。あんたらの命に金以外の価値はない」
彩さんは押し黙る。母さんは勝ち誇るように鼻を鳴らした。
「……いつまで続けるのよ」
踵を返そうとした母さんを、彩さんが掠れた声で引き留める。母さんが大義そうに視線をやると、彩さんははっきりと怒りの表情を浮かべた。
「お父さんは亡くなったの! もう終わったことでしょう!」
悲鳴のような、障子が震えるほどの怒鳴り声。
それを正面から浴びせられてなお、母さんの顔色はひとつも変わらない。刻み足で彩さんに詰め寄り、胸倉を捻りあげる。
「父親に強姦される娘を見て見ぬふりして逃げた母親が、許されるわけないだろ?」
底冷えする響きで、確かに母さんはそう囁いた。




