043
光に嫌われている。
それだけ聞けば、思春期にありがちな自意識だと思われるかもしれないが、僕の場合は身体的な事情がある。
瞳孔の開ききった右目。焦点が合わないばかりか、雨空の日光でさえ煩わしく感じる瞳。
闇に好かれているわけではないが、真昼の往来を歩くよりは夜道の方が目が馴染む。
とはいえ、夜の校舎となれば話は別だ。
どこまでも暗闇が続く廊下には、飲み込まれるような底知れなさを覚える。見慣れたはずの教室はことごとく表情を変え、所々で灯る非常案内板のぼやけた明かりは却って異質さを増長させている。
事実、窓枠に足をかけた時点で半泣きになっていたし、ここに来るまでにちょっとだけ漏らした。度胸試しに忍び込む輩もいるらしいが、僕には到底理解できない。
「遅れてごめん」
濃密な紺色が広がるトイレの個室に足を踏み入れながら、心からそう思う。
小窓から差し込む月光に晒された赤錆さんの顔は涙と鼻水で大変なことになっていたが、それを揶揄する気持ちは微塵も湧いてこない。
「えっ、あ、なっ、なんで」
「ん?」
「な、なんでっ、包介が、ここに」
「なんでって、赤錆さんが呼んだんだろ」
赤錆さんは力が抜けたのか、便座からずり落ちそうになった。
正面から抱き留めると、首筋に水っぽい感触が広がる。
「ごっ、ごめっ、ごめん」
「いいよ」
腕の中にすっぽり収まる彼女の体は、少し見ない間に随分薄くなってしまった気がした。夏の夜だというのに肌は冷え切り、奥歯はかちかちと震えている。
赤錆さんがこれほどまでに追い詰められ、怯えている原因。
たしかに夜の校舎は恐ろしいが、それほどの恐怖を覚えるならそもそも単身で入り込めたりしない。オカルトを空想と割り切れる彼女の震えが止まらないのは、別の要因があると考えるべきだろう。
赤錆さんの小さな体を抱きしめながら、これまでの道程を思い返す。
「……吾亦紅」
あいつか。
廊下を彷徨く懐中電灯の光。見つかると面倒だと咄嗟に身を屈め持ち主を見定めた時、歯を剥き出しにして徘徊する吾亦紅先生の顔があった。
そして何より、下着を身につけていなかった。いくら人気がないとはいえ、一物を振り回しながら職場を闊歩するのは常軌を逸している。
吾亦紅ならやるだろう。
まあいい。非難も軽蔑も後回しだ。今はこの場を離れることが先決である。
周到にも、道中、通り過ぎた教室には全て鍵がかけられていた。逃げ場は自ずと限られ、吾亦紅先生が鍵のかからないトイレに辿り着くのも時間の問題だ。
「早いところ家に帰ろう。歩ける?」
体を離して、赤錆さんの手を取る。
しかし、彼女は素早く僕の手を振り解き、胸の前に抱え込んでしまった。
「ごめん。嫌だったかな」
「ち、違う。……さ、さっき、逃げるときに、吾亦紅のキンタマ、握ったから」
「うげっ、ばっちいね」
思わず率直な感想を述べてしまった。赤錆さんはひどく傷ついた顔になって、右手に強く爪を立てる。
汚いのは吾亦紅先生の局部で赤錆さんは綺麗なままだと訂正するのは簡単だが、気持ちは言葉でなく行動で示すべきだろう。アルコールティッシュを持っていてよかった。
「じっとして」
逃げようとする赤錆さんの手をとる。
彼女はびくりと大袈裟に反応したが、控えめな抵抗は無視して、人指し指を付け根から爪の間まで丹念に拭う。次に中指、薬指と順々に五指を磨き上げ、手のひらの皺の溝も余すことなくなぞり上げる。
「よし。綺麗になった」
きめ細やかな肌は、暗がりの中でも光を放ちそうなほどに美しい。
遠慮なく指同士を絡めてぎゅっと握る。今度は振り払われることはなく、赤錆さんも握り返してくれた。
「とりあえず図書室に行こう。僕、そこから入ったんだ」
彼女は音を立てて鼻水を啜り、小さく頷く。
空いた左手で震える背中を支えながら慎重に便座から下ろす。膝は震えているが、ゆっくり歩く分には支障ないだろう。
摺り足で出入り口に近づき、そっと耳を立てる。
足音はしない。扉と床の隙間から明かりが漏れるということもない。
「行こう」
扉を背中で押し開き、素早く廊下に出る。
重ねた手から赤錆さんの恐れが伝わる。明かりと呼べるのは点在する非常灯くらいのもので、彼女にとっては真っ暗闇に近い。動きづらくとも、落ち着くまでは手を引いて先導すべきだ。
腰を低くしたまま壁伝いに歩く。つるりとした壁面は慣れ親しんだ触り心地であり、ここが僕のよく知る校舎であることを確かにする。僅かにではあるが恐怖が薄れ、引けた腰にも力が入る。
「あ」
中庭を挟んだ向かいの廊下に、白い光がちらついた。
繋いだ赤錆さんの右手がびくりと強張り、じっとりした汗が滲み出る。
「静かに」
まだ距離はある。光はうろうろと向きを変え、僕達に気がついた様子はない。音を立てなければ離れることは容易だ。
息を殺して、光の行く末をじっと見つめる。
「~~~ッ!!」
何事かを叫んだ後、光は直進し、壁に阻まれ見えなくなった。
下半身を丸出しにしている時点で分かりきっていたことだが、吾亦紅先生は異常なまでに昂っている。あの様子では、トイレという隠れ場に辿り着くことすら当分先になりそうだ。
赤錆さんの手を軽く引いて合図する。しかし、彼女は動かない。
「赤錆さん?」
赤錆さんは蹲っていた。
石のように丸まり、酷く怯えている。
勝ち気で横暴で、けれど、面倒見が良く優しい彼女の様子は見る影もない。
吾亦紅がこうさせたのだ。
こめかみが疼く。毛細血管が切れたのか熱と痒みがじわりと広がり、薄い目蓋が呼応してひりひりと痙攣を始める。
「ほ、ほうすけ、だいじょうぶ?」
「……ああ、ごめん。なんでもないよ」
駄目だ。落ち着け。
自分の感情を優先するな。今は赤錆さんの安全が先だろう。
僕の顔色を窺う赤錆さんに愛想笑いを返す。暗闇で分からないだろうけれど、それ以外の方法が思いつかない。
深い呼吸で酸素を取り入れ、煮える脳を丁寧に冷ます。
吾亦紅は逆方向に消えた。進むなら今が好機だ。
赤錆さんがついて来れる範囲の早足で、図書室まで一直線に向かう。
奥まで闇が続く廊下は距離を長大に感じさせるが、所詮は学校の廊下である。ほどなくして図書室の戸が現れ、僕達は速度を殺さず滑り込むように入室した。
この図書室の本棚は壁沿いに配置されている。円卓は複数置かれているがいずれも脚は低く、大人が隠れるのは難しい。念のため視界を巡らすが、人影はなかった。
一先ずは安全か。
束の間の安心感と一緒に、ずっと握っていた赤錆さんの手を離す。
「や、やだっ」
間髪入れず、赤錆さんがしがみついてきた。
二度と離せまいとぎゅっと指を絡め取られ、腕ごと抱きしめられる。こんな状況でなければ、気持ちの悪いにやけ面を晒していたことだろう。
気を抜いてはいけない。僕にはまだ、やることがある。
赤錆さんの胸からゆっくり腕を抜き取り、血の気のない彼女の手を両の手のひらで包む。
「いいかい。ここからは一人で逃げるんだ」
「な、なんでっ。やだよ、ひとりにしないで」
「大丈夫。あいつは全部の教室の鍵をかけて君を学校に閉じ込めたつもりでいるから、外までは追って来ない。今のうちにご両親に連絡して、コンビニとか、人のいるところまで迎えに来てもらうんだ」
学校の敷地を隔てる塀はすぐそこだ。素早く動けば吾亦紅にも見つからない。
夜道を安全とは言い切れないが、このまま校内に留まるよりはマシだ。
「やだ、やだよっ、いっしょににげよう?」
「駄目だ。あいつをこのままにはしておけない。あいつがしたことを証明しなきゃ、君はずっと怯えて暮らすことになる。そんなのは耐えられない」
「いい! いいの! ほうすけがいてくれたら、あたしは」
「僕が許せないんだ。わがままでごめん」
それでも彼女は納得しない。せっかく納めた涙を再び溜めて、僕の手を強く握り返す。
「だって、あたし、まだ言わなきゃいけないことがある、たくさんあるの。このままお別れなんていやだよ」
大袈裟だ、と流すことはできなかった。
多分、見透かされているのだろう。
吾亦紅の罪を証明するには、どうしても危険を冒さなければならない。
すぐに会えると嘘を吐いてでも赤錆さんを逃がすべきだったが、悔やんでももう遅い。彼女の濡れた瞳に見つめられると、喉がつっかえて言葉が出なくなる。
仕方ない。一緒にあの人の到着を待つしかないか。
そんな甘えた考えが過った瞬間、右目の奥が眩んだ。反射的に入り口を振り返り、全身が一気に冷える。
扉が閉まりきっていない。僅かに開いた隙間から懐中電灯の光が漏れている。
ほんの些細な違和感。しかし、暗闇の中では致命的な異変。
忙しなく揺れていた光がぴたりと止まる。
気付かれた。
「行け!」
赤錆さんの背中を押す。
無事に脱出できたかを見届ける余裕はない。
「てぇぇいぃぃぃ……!」
低音の呻き声。
引き戸が外れそうな勢いで開き、仁王立ちの吾亦紅が現れる。
でかい。身長こそ平均的な成人男性と同じくらいだが、至る所に無駄な肉が載り、横幅が大きい。中学生男子の平均を下回る貧弱な体では、腕の一振りで簡単に弾き飛ばされるだろう。
勝ち目はない。
それでも僕は、真正面から対峙した。




