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ペトリコールと怪女達  作者: カシノ
はねこさん

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34/78

034

 あの事故から四日が経った。

 黒橡(くろつるばみ)包介(ほうすけ)というその子は、未だ目覚めない。管に繋がれたまま、ベッドの上で眠り続けている。

 当初の見立てでは一、二日で意識を取り戻すはずだった。主治医は、個人差の範囲であり問題ないと話していたが、ピクリとも動かない彼を見ていると、二度と目を覚さないのではないかと不安に駆られる。

 だから、私が毎日この病室を訪れるのは、罪滅ぼしの気持ちだけではないのだろう。不安を抱えたまま生きられるほど、私は丈夫にできていない。

 彼が生きている事実を確認して少しでも気持ちを落ち着かせようとする、卑しい願い故の行動である。


「……あの、黒橡包介さんの面会に来ました」


 上辺だけの反省は、他人にも見透かされているらしい。ナースステーションに声をかけると、年配の看護師は値踏みするような目で私の全身を検め、大仰な溜め息と共に面会証を渡された。

 おそらく、私が彼を撥ねたことは院内に知れ渡っている。つい先日、あれだけの騒ぎを起こしたのだから噂になっていても不思議ではない。彼の母親が去り際に告げた、二度と顔を見せるなという言葉を聞いた者もいるだろう。

 しかし幸運にも、それは口頭で叩きつけられただけで、正規の手続きは行われていない。それで私は恥知らずにも、近所の知り合いと身分を偽り、こうして彼を訪ねている。

 面会証をそっと首にかけ、靴音を立てないよう慎重な足取りで病室に向かう。

 薄緑の廊下に、薄汚れた白色の壁。鼻につく薬品の臭いが幼少期に風邪を拗らせた経験を想起させ、胸を押し上げられるような不快感に嘔気が込み上げる。

 滲む涙を拭いながら歩を進めると、すぐに目的の病室が見えた。

 四階の最奥。その窓際のベッドの上に、彼はいる。

 緊張で固められた空気が音を立てて喉を通る。

 彼の姿はカーテンに隠れている。もしも、奥に彼の母親がいたら、と想像するだけで足が竦む。

 それでも、進まなければ。

 拳を固く握り直し、首を伸ばしてカーテンの向こうを覗く。


「はあ……」


 いない。

 堰き止められていた息が、ようやく吐き出される。額に浮いた汗をハンカチで抑えて、ベッド脇に置かれたスツールに腰を下ろす。


「こんにちは」


 頭に包帯を巻きつけ、ベッドに横たわる彼に挨拶の言葉をかける。

 返事はない。しかし、何がきっかけになるかは分からない。

 管のついていない右腕を持ち上げて胸に抱く。大学の講義では、肥満児が増加傾向にあると話していたが、彼の腕は私の胸にすっぽり納められるほどに細い。

 彼の生白い指を開いて、手のひらに私の頬を載せる。肌は青褪めているが、薄い皮膚の下を通る血液は暖かい。子供特有の温もりが、冬の外気に冷やされた体に広がっていく。


「……あったかい」


 彼の親指を唇に当てがい呟く。指の腹が擦れる感触は焦ったい快感をもたらし、自分の頬が彼の体温と同じほどに熱くなるのに気がつく。

 罪悪感。保身。救いを求める卑しい心。

 私が彼を訪ねる理由はそれだった。

 しかし、彼に触れ、安らかな寝顔を眺めているうちに、私の中に母性のような慈しみの感情が生まれつつある。

 加害者が持つ資格のない愛情が、私を今に至らしめている。


「すみません。包帯を替える時間なのでどいてもらえますか」

「ひぃっ」


 いつの間にか、彼の担当看護師がすぐ後ろにいた。

 素っ気なく言われ、慌てて飛び退く。


「勝手に触らないでください」

「……すみません」


 看護師は冷ややかな眼差しで私を一瞥し、ぶっきらぼうな物言いとは真逆の丁寧な手つきで、彼の包帯を解く。分厚い層が一つずつ剥がされ、傷の輪郭が透けてきた。

 私がつけた傷。

 強かに打ちつけた跡は青紫を通り越したどす黒さが物語っている。欠けた目蓋は閉じ切らず、亀裂から無感情な瞳が覗く。未だ腫れを残す眼窩の上に空いた数多の穴は、現場に撒かれた滑り止めの砂利が原因らしい。それがなければ車は取り返しのつかないところまで進んでいたかもしれないが、それのせいでに一層惨い傷が刻まれたと思うと、恨まずにはいられない。


「こんな酷い傷をつけて、よく顔出せますね」


 看護師は極めて不愉快そうに言う。

 事故の直後はもっと酷かった。

 いくら拭おうが滲み続ける血。テラテラと光る染み出した体液が傷の輪郭をはっきりと浮き立たせ、縦に長く裂けた目蓋は、彼の頭が持ち上がるたび、眼球の上まで捲れる。ぶつかる瞬間に歯を食いしばったのか、左の頬肉が抉られて、ピンポン球を詰めたみたいに腫れていた。

 痛々しく、生々しい。

 インターネットで戯れに見る画像とは違う、リアルでグロテスクな痕。初めて彼の傷を目の当たりにしたとき、私はトイレに駆け込んだ。

 自分がつけたにも関わらず呑気にゲロを吐き散らした非礼を、彼の担当看護師は覚えていたらしい。会うたびに敵意が増していき、ここ最近は直接暴言を吐かれることも少なくない。


「あんたが死ねばよかったのに」


 その通りだと思う。

 殺してくれと懇願した記憶は新しい。実際、あの場で締め殺されていれば、罪の意識に魘される毎日を過ごすことはなかった。

 この愛情を知ることもなかっただろうが。

 彼との出会いが不幸なのか幸運なのか、私には分からない。

 看護師の言葉を粛々と受け入れ、複雑な心情をそのままに彼の顔を見つめる。

 焦茶の混じったふわふわの髪。形のいい耳。うさぎみたいに小ぶりな鼻先。ぽちゃぽちゃと柔らかそうな薄桜色の唇。

 丸い輪郭が甘い童顔を引き立たせるが、黒檀の瞳が神秘性を感じさせる。眩しそうに目を細めた表情も険しさの中に可愛らしさがあり、名前を知らなければ女の子だと勘違いしていただろう。

 黒檀の瞳。眩しそうに細められた目。


 細められた目?


「えっ!?」


 彼が目を覚ました。

 スツールを蹴り飛ばす勢いで立ち上がった私を睨みつけた看護師も、彼の変調を認めると素早く胸元のPHSに手を掛ける。

 すぐに数人の看護師と主治医が駆けつけ、問診が始まった。

 名前、年齢、住所、自動運動の確認。

 簡単な質問だが、彼が答える気配はない。時折、強く瞬きするだけで、両手足は力なく伸ばされたままだ。首は主治医に向いているが、茫とした目は焦点があっているか怪しい。

 主治医は傷に触れないよう彼の顎を指で上げ、黒曜石のような滑らかな黒に染め上げられた右目を覗き込む。

 そして、言った。


「右目、見えてないかも」


 簡単に。あっさりと。

 私が彼からまた一つ奪い取った事実は、突然に告げられた。

 後ずさる私に看護師の視線が突き刺さる。


 あんたが死ねばよかったのに。


 先ほど吐き捨てられた痛烈な批判が脳内を反響する。

 感情がグシャグシャになった私は、手荷物を抱えて病室から逃げ出した。




 ◇◆◇




 彼の右目には障害が残った。

 外傷性散瞳という、眼球の筋肉が損傷し瞳孔が開いたままになる症状らしい。失明したわけではないが、光の強さによっては目を開けられなくなるほど眩しく感じることもあり、日光の差す時間帯は見えないのと同義だそうだ。保険会社の担当者は後遺障害の等級を低く抑えられたと誇らしげに話していたが、そんなことはどうでもいい。

 私は彼の右目を奪った。

 その事実は、私を再び絶望に落とすのに充分すぎる。

 彼の主治医に大罪を突きつけられたその日から二週間、私は一度も外に出られていない。

 蒸し暑い布団に包まり、声を押し殺して泣く。涙を流したところで罪が濯がれるはずもないが、私の壊れた涙腺は延々と雫を垂れ流す。


 殺してください。


 もう何度目にもなる自分への呪詛を諳んじた時、伏せていたスマートフォンが鳴った。

 私に友人はいない。大方、引きこもったままの私を叱責する両親からのメッセージだろう。

 彼の痛みを知らない連中からの連絡など見る価値もないが、家に来られでもしたら面倒だ。嗚咽を噛み殺して舌打ちをし、布団から腕を伸ばしてスマートフォンを手繰り寄せる。


「……大学から?」


 予想外にも、連絡は大学の事務局からだった。

 光る画面には、履修登録について、とメールの標題が表示されている。ホーム画面に戻ってカレンダーを確認すると、三月も終わりに差し掛かろうとしていた。

 大学。私の日常。

 彼の日常を破壊した私が、どの面提げて日常に戻れるというのか。こちらの気も知らない事務的な文章に、無性に腹が立つ。スマートフォンを握る手にも力が入り、カバーが軋む嫌な音がした。

 このまま壊してしまえば少しは気が晴れるだろうか。

 布団を捲り床に叩きつけようと腕を振り上げたところで、ふと思い直す。

 急いで履修登録のページを開き、一覧表の中にに事細かく説明書きされた単元を見つけた瞬間、掠れた笑い声が漏れた。

 教育実習。

 右目を奪い、正当な罰も受けず、一人で懺悔することしかできない無力な私が、彼のために唯一できること。


「教師になるんだ」


 私は彼のためだけに、教師になる。

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