033
生きる意味とはなんだ。
ある哲学者は欲求を満たすことに意義があると唱えたが、私には理解できなかった。
食欲、性欲、物欲、承認欲求。
現代における能動的な欲求は、すべて等しく価値がない。
それらを求めて奔走する人を見ても、ああ頑張っているな、と他人事な感想を抱くだけで、私自身の衝動に結びつくことはなかった。
私が今生きているのは、死ぬほどの理由を見つけられていないだけにすぎない。
未知の事象への忌避感が二の足を踏ませているのであって、事故や災害、避けられない事由で突如死を迎えることになったとしたら、そんなものかとあっさり受け入れるだろう。
つまるところ、青褐姫香という人間は、命に興味がなかった。
◇◆◇
くだらない。
シラバスに載っている教育実習の文字を見て内心毒づく。
教育大なんて入るんじゃなかった。
もともと教師になるつもりはない。この大学を選んだのは学力、環境、家庭の金銭的な事情を加味した消去法でしかなく、目標や熱意を持って入学したわけではない。卒業後は地方の役所にでも勤めるつもりでいた。使う予定のない資格のために、騒ぐしか脳のない小猿共と関わりを持たないといけないとは、まったくもって馬鹿馬鹿しい話だ。
くだらない。本当にくだらない。
溜め息を噛み殺してブラックコーヒーを飲み干し、荷物をまとめて席を立つ。
そろそろ学食が混み合う時間だ。今日の予定は終えたので、長居する必要はない。
学食を出ると案の定、講義を終えた学生がたむろし始めていた。用事がないならさっさと帰ればいいものを、奴らは道の真ん中で立ち止まる歪な習性がある。方々から聞こえる喧しい会話からいち早く逃れるため、集団の間を縫って早足で駐車場に向かう。
「寒」
三月に入ったものの、春はまだ遠い。自動ドアを潜った先では雪が降っていた。
視界を塞ぐほどではないが、雲は厚く、風が強い。景色は淀んだ白に上塗りされて見え、コートの裾から入り込む冷気が肌を粟立たせる。近頃は暖かい日が続いていたが、地面は再び雪で覆い尽くされた。
歩幅を狭めた小走りで駐車場を横断し、自分の車に乗り込む。
親の買い換えに合わせて譲り受けたこの軽自動車は走行距離が十万キロに差し掛かり、アイドリングで車体が揺れる不良品だが、公道を走るだけの最低限の機能は保っている。家と大学を往復する分には問題ない。キーを回してエンジンをかけ、暖気もせずにアクセルを踏み込む。
駐車場を右に抜け、両脇に雑木林の生える長い通りに入る。
この大学はそれなりの規模であるため、街中から外れた場所に立っている。自然に心を癒されるなどと言えば聞こえはいいが、通う学生からすれば億劫なだけだ。枝の先まで雪の積もった木々がずらりと並ぶ光景も、単調で刺激がない。
眠気に目を擦りながら十数分走ったところで、ようやく街が見えてきた。
ここからは信号が多い。堆雪が車線を減らしているにも関わらず、路肩に車を停める非常識な連中も増えるので、とにかく進みが悪い。
苛立ちを深い溜め息と共に吐き出して、窓の外の風景を横目で眺める。
背の高いビル群。俯きがちに早足で行き交うサラリーマン。スマホに夢中なヘッドホンの学生に、大きな声で捲し立てる着膨れした中年女性達。
汚らしい。いずれ自分もあの中に混ざると思うと怖気がする。
信号の切り替わりと同時に発進する。制限速度を超えているが、邪魔な警察の前以外で律儀に守る必要はない。
しばらく直進し、ようやく自宅前の通りに繋がる曲がり角に辿り着く。ブレーキもそこそこに左折して、アクセルを踏み直す。
飽きるほどに走り慣れた道だ。目を瞑っていても運転できる。
いつもの道。いつもの日常。
歳を取り、多少環境が変わったところで、有毒ガスのように漂う、つまらないという感覚は、息を引き取るその瞬間まで続くのだろう。そんな些末なことばかりに思考を巡らせながら近所の公園に差し掛かった頃。
目の前に子供が飛び出した。
「ばっ」
かじゃない。
咄嗟にブレーキを踏むが、タイヤが滑る。止まらない。
子供と目が合う。後ろ向きの態勢。
傍に別の子供が立っている。
突き飛ばされた?
でも、確認してる余裕なんかない。
ぶつかる。
ガツン。
固い何かにぶつかってアルミが潰れる音がする。
耳鳴りがうるさい。視界は鮮明なのに何も考えられない。
撥ねた。子供を。
ギアをパーキングにいれ、ポケットのスマートフォンを取り出す。
救急車の番号がわからず、ネットで検索しようにも指が震えて上手く入力ができない。何度も間違えながらようやく探り当て、電話をかける。
「はい、119番消防署です。火事ですか? 救急ですか?」
繋がった。
繋がったけど、どうしたらいいんだ。
「火事ですか? 救急ですか?」
もう一度聞かれる。
救急。救急だ。
とにかく状況を伝えないと。
顔を上げる。
そこで初めて、私は眼前に広がる凄惨な光景をはっきりと認識した。
うつ伏せの子供。血塗れの頭。
流れる血は採血で見るよりずっと赤く、凍りついた道路の上に広がっていく。
「子供を、撥ねました」
それからどうしたかはよく覚えていない。
ただ、降り落ちる粉雪が血溜まりに溶けていく様子は、今も網膜に焼き付いている。
◆◇◆
子供が救急車で運ばれた後、警察が来た。
色々なことを聞かれたが、どれもまともに返せない。
駆けつけた母の顔を見てからは、つっかえた喉が動くようにはなったものの、それでも頭は真っ白で、体中が熱に侵され痺れている。動悸はまるで治らず、聴取が終わるまでに一度、過呼吸になりかけた。
陽が落ちる頃、汗だくの父と合流して子供の搬送先に向かった。受付の看護師によると、緊急の措置はすでに終わり、今は病室で安静にしているらしい。
生きている。
それが分かって、ようやく肺に酸素を取り込めた。同時に腹の底から疲れが沸き出て、強張った肩がだらりと下がる。
私は人殺しにならずに済んだ。
そう頭の中で理解した時、緊張の糸がプツリと切れた。ボロボロと涙が溢れ、感化された母に抱き締められる。
ああ、よかった。本当によかった。
一頻り泣き、少しだけ平静を取り戻す。そして、次に心を満たしたのは、現状への怒りだった。
事故の原因は子供が急に飛び出してきたせいだ。あんなもの避けようがない。どうして私がこんな目に遭わなければならないのか。見知らぬ子供のせいで犯罪者にされるなんて、冗談じゃない。
私は恥知らずにも、本気でそう考えていた。
だから、両親と話し合い、保険会社に任せきりにせず直接会って謝罪しようと決めた時も、気後れはしなかった。
私だけが悪いわけじゃない。
撥ねた直後の絶望はすでに忘れている。浅ましい怒りと独善的な勇気が胸を張らせ、確かな足取りで病室に入る。
一先ず、謝罪の事実を作る。最低限の筋さえ通せば罪悪感はなくなる。
その後の対応は保険会社がどうとでもするだろう。望まない経験をしてしまったが、ひと月もすれば苦い過去として処理できる。
そんな甘い考えは、扉の先にある光景を見た瞬間に掻き消えた。
病床で仰向けになる子供。
ぐるぐるに包帯が巻かれた頭。
力なく投げ出された腕からは管が伸び、繋がる点滴の水音と脈拍を示す電子音が薄暗い病室をこだまする。
私が、この子を撥ねた。
入り口で固まる私に、子供の傍で項垂れる女性が気づいた。
若い母親だ。二十代後半くらいだろう。元は美人であろう女の顔はひどく疲れている。
窶れた頬に澱んだ瞳。
希望を失った無気力な表情は、私を見るなり烈火の如く燃え上がった。
強い衝撃。
突き飛ばされたと理解したのは、床に尻を打ちつけてからだ。
女は牙を剥き出しにして私の胸倉を掴み、無理矢理に立ち上がらせる。
「この子が何をした!!」
至近距離で怒号を浴びせられる。
制御の外れた感情で声は震え、目は鬼のように吊り上がっている。襟を引きちぎらんばかりに力んだ拳は赤く染まり、私の気道を押し潰す。
「どうしてこの子ばかりが、こんな目に遭わなきゃいけないんだ!!」
女は泣いていた。涙を流しながら叫んでいた。
怒鳴り声を聞きつけた看護師が駆けつけて、女を引き剥がす。力の抜けた膝では体を支えることができず、私は再び床にへたり落ちた。
ああ、そうか。
私はこの子の未来を奪ったんだ。
私は自分がしでかしたことを、何一つ理解していなかった。そのうえ、的外れな自己弁護を頭に浮かべ、許されて当然とさえ考えていた。
許される資格なんて、あるはずがないのに。
女は何かを叫び続けている。耳と目はぼやけ、意味を理解する頭は残っていないが、殴りつけるような響きが杭となり、私の足を磔にする。
見えない鎖に首を引かれ、つんのめるように頭が垂れた。
「殺してください」
許されることはない。ならばせめて、罰してほしい。
感覚の朧げな口は楽になりたい一心で、どこまでも身勝手な贖罪を求める。
殺してください。誰か私を。
どうかお願いします。
どうか。




