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デート。そうか、デートになるのか。
帰路についた僕は自宅の玄関扉の前でようやく事態の重要性に気がついた。
緊張と興奮がない混ぜになった生温い汗が、今更になって溢れ出る。
赤錆さんとのお出かけは何度も経験している。しかし、僕は引っ張り回されるばかりで、男女の関係を意識する余裕はなかった。
だとすると、濃墨先輩とのお出かけが、僕にとって初めてのデートということになるのか。
「ほ、包介くん? だいじょうぶ?」
「うわあ」
慌てて振り返ると、桑染さんがすぐ後ろに立っていた。
「ご、ごめんね。おはようの返事がなかったから心配になっちゃって」
メールアドレスを教えてから、僕の携帯には毎朝七時に桑染さんからおはようメールが届く。
一応、僕からも短文ではあるが返信するよう心がけていたのだが、今朝は偶々忘れてしまったらしい。
「元気ならいいけど……できれば返事して欲しいな」
隣に住んでいるのだし一日くらいどうということはないと思うのだが、僕には大事な約束を忘れた前科がある。不安にさせないためにも、これからは一層気をつけることにしよう。
「それで、さっきから玄関の前でぼーっとしてたけど、何かあったの? わ、わたしでよかったら相談にのるけど」
桑染さんは大人の女性だ。性格は多少、いや、結構変わっているけれど、意見を聞いておいて損はない。
そういう軽い心算で、つい口にしてしまった。
「ええっと、今度デートすることになりまして、初めての経験なので緊張してたんです」
和やかだった空気が突如として凍りつく。ぞわりとした怖気に肌は粟立ち、首筋を撫でる夏の風はいやに冷たい。
肩を怒らせ背中を丸めても尚、強大な体躯をありありと示す桑染さんを、本能的に恐れた故の反応であった。
「どういうこと」
「え?」
「なんでデートするの」
「何でと言われましても、まあ、その、色々事情がありまして」
「わたしとのデートは忘れたくせに」
「いやまあ、そう言われると謝るしかないんですけど」
「謝る気持ちがあるなら、先にわたしとデートするべきじゃん」
自然と足が後ずさる。
桑染さんは伏せ目で僕を睨んだまま一歩も動いていないが、徐々に距離を詰められていると錯覚するほどの圧力を発している。
「なんで逃げるの」
桑染さんがゆらりと上体を動かした。日々の鍛錬の成果か、本能が察知した危機は反射で体をのけぞらせ、後頭部が誰かにぶつかる。
いつの間に。
振り返る暇もなく抱きすくめられる。唯一自由な首で見上げると、無表情の母さんの顔があった。
「なにをしている」
冴えた瞳で、一切の油断なく桑染さんを見据えている。
母さんと桑染さん。二人の格付けはすでに終了している。桑染さんは先の怒気はどこへやら、みるみるうちに萎み、ついには項垂れてしまった。唇の先が何か言いたげに震えていたが、母さんの強い視線を窺うとそれすらもなくなる。
「学習しない奴だな、お前は」
「……ごめんなさい」
「謝る相手は私か? そんなことも言われないと分からないのか?」
首をすくめた桑染さんが躙り寄り、僕の右手を両手で包む。大きくて柔らかい手のひらは冷や汗でびちょびちょに濡れていて、僕の手はあっという間に水浸しになった。
「ご、ごめんなさい……」
「いや、僕の方こそ。色々申し訳ないです」
色々に何が含まれているのか自分でもよく分かっていないが、謝られた時に謝り返してしまうのは日本人の習性なのだろう。泣きそうな桑染さんを放っておくわけにもいかず、しばらく手を繋いだままでいると、溜まった汗が熱を持ち始めた。
ぬるぬるした中で握り合っているのも恥ずかしいので引き抜こうとするが、桑染さんの力は強い。僕の手は微動だにせず、諦めて桑染さんに視線で訴えかけるも、彼女は頬を染めて微笑むだけだ。
そんな落とし所のわからない時間を引き裂いたのは、業を煮やした母さんが床を踏み鳴らした音だった。
「失せろ!」
「は、はいっ」
びくりと背筋を伸ばした桑染さんは大慌てで自宅に戻っていく。
残ったのは僕に腕を回したままの母さんと、夏の夕陽に染まった外廊下に響く風の音だけだ。
「おかえり。今日もお疲れ様」
「……うん。早くおうち入ろ」
背中にしがみついたままの母さんが、二人羽織で開けた玄関扉の先の室内が、どこか遠いものに感じたのも、夏の夕陽のせいなのだろうか。
◇◆◇
夕食は無言で終わった。
いつもなら一日の様子すべてを聞きたがる母さんだけれど、烏羽さんと特訓を始めてからはずっとこの調子だ。
「ごちそうさま。お皿、流しに置いといて」
「今日は僕が洗うからそのままでいいよ」
「ううん、ほう君疲れてるでしょ。ママが洗う」
「いいから。これくらいはさせてよ」
腰を上げようとする母さんを抑えて、手早く食器を片付ける。
水で簡単に汚れを流していると、後ろから声がかかった。
「背中、大きくなったね」
「そうかな」
「うん。ちょっとだけ」
ちょっとだけか。まあ、変化がないよりはましだろう。
スポンジに洗剤を垂らし、洗い残しのないように食器を磨いていると、水の音に混じって長い溜め息が聞こえる。
視線だけ後ろに向けると、母さんが物憂げな表情で頬杖をついていた。
「最近仕事忙しいの?」
「ううん、別に。いつも通りだよ」
「そう? なんだかいつもより疲れてそうだったから。あんまり力になれないかもしれないけど、話したいことがあったら言ってね」
「……それじゃあ聞くけどさ」
「なに?」
「今度デート行くってほんと?」
「あー……うん」
「誰と? 赤錆? それとも烏羽?」
「いや、倶楽部の先輩」
「誰それ。ママの知らない女」
「話したことなかったっけ。濃墨先輩って言って、何でもできる凄い人なんだ」
「騙されたりしてないよね」
「全然そんなことないよ。むしろお世話になりっぱなし。それに、デートって言っても僕の買い物に付き合ってもらうだけで」
「買い物? 欲しいものあるの?」
しまった。
水音で聞こえなかった風体を装って皿を洗い続けるが、内心は焦りでぐちゃぐちゃである。
もしもプレゼントを画策していると知れば、母さんは絶対に遠慮する。有無を言わせぬサプライズだからこそ意味があるのだ。
時が来るまでは隠し通さなければならない。
背中に突き刺さる強烈な視線を感じながらも、皿洗いを続行する。
「言えないの? また隠し事?」
やはり、母さんの目からは逃げられない。
だが、僕はすでに濃墨先輩を巻き込んだ。簡単に白状はできない。
「……ごめん」
「そう。わかった」
せめてもと真摯に謝るが、何の解決にもならない。母さんを喜ばせるためなのに、辛い思いをさせている。
道を間違えた。そんな予感が心に重くのしかかる。
「やっぱり母親だけじゃダメなのかな」
「違うよ。そんなことない。僕は」
僕は、充分に幸せだ。
そう伝えて抱き締めるのに、泡塗れの手を洗い流してからでは遅過ぎる。まごつく僕の傍をすり抜ける母さんに腕を伸ばすことさえ叶わない。
どこまでも間抜けな僕は、洗いかけの皿を片手に佇むしかなかった。




