027
職員室までの道には慣れたものだ。
上級生の教室や未だ立ち入ることのない特別教室を通り過ぎた先で威圧感を放つその扉も、何度も呼び出されていれば、ただの木製の引き戸に過ぎない。いつものように三度叩いて中に入ると、ちらりと先生方の視線が集まるが、またか、とうんざりした顔ですぐに背中を向けられた。
「黒橡さん」
手招きする青褐先生のもとに向かい、言付けされていた書類を渡す。
今日の呼び出しの理由は、昨日締切の進路希望調査が僕だけ提出されていない、というものだ。
日常的に怒られている僕はなるべく早くの提出を心がけていて、件の進路希望調査についてもたしかに青褐先生に手渡した記憶がある。しかし、先生がもらっていないと主張すれば従うしかない。
「あれ?」
机に積まれた紙の束が目に入る。
一番上の付箋だらけになったそれは、紛れもなく僕の進路希望調査票だった。
「……先生も人間です。間違えることはあります」
人間なら間違えた時は謝罪すべきだと思う。
悪びれる素振りもない先生に非難がましい目を向けると、わざとらしい咳払いで誤魔化された。
「そんなことより、最近は烏羽さんとよくお話ししているようですね」
「まあ、席も近いので」
「趣味が合うとは思えませんが。何を話しているんですか?」
「学生らしい他愛もない話ですよ」
「他愛もない?」
青褐先生の声色が途端に冷えた。緩んだ空気がぴりりと引き締まる。
「私が貴方と烏羽さんの関係を知らないとでも思っているんですか」
「えっ」
「放課後、彼女に暴力を振るわれてますよね」
「ああ、そういうことですか」
僕が烏羽さんと特訓していること。
本当は隠しておきたいが、赤錆さんの例がある。僕なりに反省し、あれ以来、聞かれた時は素直に答えるようにしていたが、そういえば青褐先生にはまだ説明していなかった。
「稽古をつけてもらってるんです。いじめられてるわけではないので心配しないでください」
「それは知ってます」
それでは何が疑問なのか。首を傾げていると、突然手を握られた。
僕の右手を包み込む先生の両手は、手汗でしっとりと湿っている。
「心配です」
「だ、大丈夫ですよ。烏羽さんはきちんと加減してくれてますし、赤錆さんと濃墨先輩も見てくれてますから」
「……それでも、心配です」
青褐先生が絞り出すように呟く。
深く息を吐き出してから僕を見上げた瞳には、強い意志が宿っている。
「絶対に怪我をしないと約束してください」
申し訳ないが、約束はできない。
病院に行くほどの大怪我はしないと断言できるが、青痣くらいはしょっちゅうできる。
現に、僕の腹と腿にはいくつもの痣が刻まれている。痛みを知らないまま強くなることはない。
だが、正直に伝えたところで先生を不安にさせるだけだろう。嘘は吐きたくないのでてきとうに笑って誤魔化そうとしたが、先生は無言で小指を突き出してきた。
罪悪感を抱えながら、自分の小指と結ぶ。
「ゆびきりげんまん、嘘吐いたら……どうしましょうか」
「針千本じゃないんですか」
「できもしない罰を課しても意味がありません。そうですね、マッサージでもしてもらいましょうか」
「まあ、肩叩きくらいなら」
「全身です。先生に嘘を吐くのだから、それくらいは当然でしょう。たっぷり一時間はお願いします」
生徒に求めることではない。真面目ぶった顔で言い放たれた要求は非現実的な内容だが、冗談と笑い飛ばせないのが青褐先生の恐ろしいところだ。
早く強くなって怪我しない。
僕は一人、ゆびきりにしては重すぎる決意を固めた。
「それともう一つ。悩み事があれば、なんでも先生に相談してください」
「なんでもですか」
「なんでもです」
「はあ」
「なんですか、その気のない返事は」
「……すみません」
「いいですか、なんでもですよ。どんな些細な悩みでも必ず相談してください」
単なる定型句かと思ったが、青褐先生は今まさに相談されることを望んでいるらしい。爛々とした目は夜でも光を放ちそうなほどのぎらつき具合である。
悩みはないか。
そう問われれば、たしかにある。
あまりに個人的で、人を頼るものではないが、僕は今、男一人ではとても解決できそうにない問題を抱えている。
相談すべきか、しないべきか。
いや、どのみち先生からは逃れられないし、この場で白状した方が後々楽だろう。
「女性に喜ばれるプレゼントって何でしょうか」
母さんへの贈り物。
少し前から考えていたことだった。
最近の僕は突然外泊したり特訓を始めたりで、生活が一変した。当然、事情は事細かに伝えて一応の許可は得たものの、心配性の母さんは気が気でないはずだ。
心境の変化は行動にはっきりと表れている。
行き過ぎた発言はなくなったが、物憂げな顔で抱き締めてくることが多くなった。休日、目を覚ますと、僕の手を握ってベッドに腰掛けていたこともある。自主性を妨げたくはないが、危険を冒して欲しくもないという揺れ動く親心が、鈍い僕にも察せられた。
勝手気ままを許してもらっている身にできることはないか。短絡的だが、日頃の感謝を形にしたい、とプレゼントを贈ることを思いついたのだった。
「相手はどなたですか?」
こういう時に茶化されないのは本当にありがたい。
けれど、素直に母親ですと答えられるほど、僕は大人ではない。
「普段からお世話になっている、年上の女性です」
濁した結果、非常に曖昧な回答になってしまった。
具体性がなければ助言のしようもない。やはり観念して正直に打ち明けるべきかと思ったが、意外にも先生からの追及はなかった。
先生は唇に指をかけ、お世話、年上、と何かを呟いている。
「あの、先生?」
「え? あ、はい、すみません。す、少し考え込んでいたものですから」
何か気になるところがあったのか。それとも、反応が遅れるほど集中して考えてくれているのか。
「その方の好みは分かります?」
「ええっと、素朴な見た目のものが好きみたいです」
「まあ、そうですね。シンプルなものが一番です、はい」
そう言って先生が手を伸ばしたマグカップは、飾り気のない無地のベージュ色をしている。母さんも同じような色合いのものを多く持っているので、趣味が合うのかもしれない。
青褐先生は演技くさい咳払いをして、急に真面目な顔になる。
「黒橡さん、いいですか。プレゼントは気持ちです」
「はあ」
「どんなものでも構いません。その気持ちが嬉しいのです」
「そういうものですか」
「そういうものです」
得意げに言い切った先生は、ちなみに、と左手の甲を見せる。
「私は身につけられるものを贈ってもらえると嬉しいです。指輪とか可愛いと思います。薬指のサイズは、そうですね……十三号と伝えれば大丈夫です」
十三号というのは女性の平均的な指の太さなのだろうか。
聞き慣れぬ単位は混乱だけを生み、気づけば僕は意味も分からずお礼を述べていた。
「うふふ。楽しみにしてますね」
微笑みの理由は分からないが、取り返しのつかない過ちを犯してしまった気がする。
取り敢えず会釈して、僕は足早に職員室を後にした。
◇◆◇
指輪。
青褐先生はそう言っていたが、装飾品の類は普通、恋人に贈るものではなかろうか。普段のお礼としては不適切な気がする。代案があるわけでもないが、いまいちぴんと来ない。
説明できないもやもやに頭を悩ませていると、いつの間にか目の前にティーカップが置かれていた。爽やかな茶葉の香りが、行き詰まった思考に染み渡る。
「随分と悩んでいるみたいね」
「ええ、ちょっと」
濃墨先輩が僕の対面に腰を下ろす。ふわりと擬音が聞こえてきそうな軽やかな着席である。
「よければ聞かせてくれる?」
「実は──」
一度口にした相談だ。言うか言わないかで葛藤する段階はとうに過ぎている。
青褐先生の助言がすんなりと飲み込めていない現状では、他の意見も積極的に取り入れるべきだ。濃墨先輩なら茶化したりもしないだろうし、安心して相談できる。
というわけで、母さんに贈り物をしたい旨を包み隠さず伝えてみた。
「包介ちゃんのお母様。千影さん、だったかしら」
「はい。……あれ、名前、言ったことありましたっけ」
「私、気になることはとことん調べる性格なの」
僕の家族を気にするような出来事があったのだろうか。
そんな疑問が頭をよぎるが、よくよく考えればオカルト倶楽部に誘われたその日、簡単な面接みたいなものが行われた。家族構成について話したような気もする。
「それで? 私の他にも相談したのでしょう?」
「え、そんなことまで分かるんですか」
「包介ちゃん、分かりやすいもの。折角だから当ててみましょうか。青褐先生でしょう」
ぴたりと言い当てられた。
「そんなに顔に出てますか」
「まあ、それだけではないのだけれど。今日は悩める包介ちゃんが相談に来るだろうと思っていたの。だから、赤錆ちゃんと烏羽ちゃんには席を外してもらったわ」
そういえば二人の姿が見えない。いつもならとっくに資料室に屯し、小競り合いが始まる時間である。
濃墨先輩が言葉巧みにあしらったに違いないが、なんとなく恐ろしい予感がしたので、二人を追い出した方法は聞かないことにした。
それにしても先輩の、それだけではない、というのは一体どういう意味だろう。
「じゃーん」
そんな僕の疑問に答えるように濃墨先輩が取り出したのは、カードの束だった。トランプよりも縦に長く、緻密で意味深な絵が描かれている。
「所謂タロットカードというものね」
「ああ、占いに使うやつですか」
「あら、その素っ気ない反応。もしかして占いは嫌い?」
好きか嫌いかで答えるなら、間違いなく嫌いである。
世の中には星座占いやら手相占いやらの占い商法が溢れているが、科学的な根拠は一切ない。誰にでも当て嵌まることをさも理論に基づき導き出したように見せ、当たらなければ知らない振りで、当たった時だけそれ見たことかと騒ぎ立てる。言ったもの勝ちのインチキを信用する方がどうかしている。
特に信じられないのは血液型占いだ。人間の多種多様な気質をたった四つに分類するなんて明らかに無理がある。そもそも、A、B、O、ABなんて分け方をしているのは日本だけで、性格と結びつけるにしても、血液の型を考えればもっと細かく分けるべきだ。むしろ、この奇妙な風潮のせいで周囲から好き勝手に偏見をもたれ、性格が歪んでしまう気がする。こんな前時代的な文化からはとっとと脱却すべきだろう。
「包介ちゃん、B型でしょう」
「……そうですけど。何か問題ありますか」
「占い嫌いは血液型占いがきっかけになりやすいから。B型の人はあまりよく言われないでしょう」
「あのですね、そういう一部の人を陥れようとする考え方が嫌いなわけで、B型だから占いが嫌いというのは偏見ですよ」
「ごめんなさい。そんなに気にしているなんて」
「謝ってほしいんじゃないです。僕は血液型占いの非合理性を理解してほしいのであって」
「もう。謝っているのだからいいじゃない」
口に人差し指を当てられる。
それだけで黙るほど僕の熱量は低くないのだが、先輩の目はこれ以上の弁論を許していない。非常に不本意ではあるが仕方なく引き下がると、従順な態度がお気に召したのか先輩は深く頷いた。
「私も占いがすべてとは思っていないわ。ただ、迷った時に客観からの視点が欲しい時があるのよ。根拠がなくとも一応の理由付けがあれば、見知らぬ人の意見でも受け入れやすいでしょう? 決めるのはあくまで自分だけれど、参考程度にはなる。占いとはそういうものなの」
僕は何色の靴下を履けばいいかで迷ったりはしないし、ご飯は食べたいものを食べる。占いに頼らなければ物事を決められないほど落ちぶれてはいないが、そういう人種もいるということだろうか。
「強情な包介ちゃんには実際に試した方が早いわね。早速始めましょうか」
「いや、遠慮します」
僕の断りはまるきり無視して、濃墨先輩は笑顔でカードの山を崩した。時計回りで混ぜ合わせ、再びカードを束にする。
「はい。それでは、三つの山に分けてみて」
素直に分けるのも気が乗らない。わざと上の一枚だけを取ってみたが、先輩の冷ややかな視線を感じたので大人しく均等ぐらいの枚数で分ける。
「分けた山をまた一つに戻してくれる?」
言われるままに束を重ねる。一連の工程に意味があるとは思えないが、ケチをつけられる雰囲気ではない。
濃墨先輩は山を整えると、一番上のカードをそっと捲る。
「まず一枚目。これは貴方の過去を表すカード」
僕の目の前に差し出されたカードには、外套を纏った骸骨が鎌を構えて佇んでいた。見るからに不吉なカードである。
「幸先悪いですね」
「見た目はね。でも、悪い意味ではないわ。逆位置の死神は終わりからの始まりを表すの。つまり包介ちゃんは、すでにまったく別の道を歩み始めていると言えるわ」
「はあ。いまいち実感は湧かないですけど、そうなんでしょうか」
最近始めたことといえば烏羽さんとの特訓が思い当たるが、真逆の道というわけではない。前々から考えていたことだし、偶然機会が訪れただけであって、根底の人生観が変わったわけではない。死神が絡むような大袈裟な転換ではないだろう。
「占いは直感を大切にするの。細かな意味まで当てはめる必要はないわ」
そういう都合のいい部分が気に入らないのだが、濃墨先輩は途中で切り上げるつもりはないらしい。
普段お世話になっているのだからこのくらいは付き合うべきだと、今にも愚痴りそうな頭を無理に納得させる。
「二枚目は現在。カードは……月、ね」
「綺麗な絵ですね。いい事あるってことですか?」
「いえ、正位置の月は、迷い、誤解、疑心暗鬼。あまり良い意味ではないわね。けれど、現状を正しく表しているとも言えるわ」
「誰にでも悩みくらいありそうですけど」
「包介ちゃんは悩んでいても自分だけで解決しようとするでしょう。そんな貴方が青褐先生や私を頼るくらいだもの。生半かな悩みでないからこそ月のカードが現れた、そう考えるべきだと思うわ」
推察と併せるのはずるい。
何も言い返せずにいると、濃墨先輩は三枚目のカードを引く。
「三枚目。現状への対策は、あら、法皇の正位置」
「法皇? なんだか胡散臭いですね」
「その感性は分からないけれど……少なくとも、今の包介ちゃんの行動は正しいようね」
「そうなんですか?」
「ええ。法皇は良き相談相手との巡り合わせを意味するの。包介ちゃんが私に悩みを打ち明けたことは、きっと正解のはず」
「遠からず先輩には相談していたと思います」
「あら、ありがとう」
占い頼りになるとは想像していなかったが。
正直、青褐先生の助言の方が参考になる気がする。
「嫌そうな顔をしては駄目よ。次で最後だから」
言って、濃墨先輩が捲った四枚目のカードには、火の手が上がる塔が描かれていた。背景は豪雨に雷と荒れ放題で、天災をそのまま絵にしたような惨状だ。
「これは未来を示すカード。意味は……災難、事故、暴力、悲劇」
僕の将来は碌でもないらしい。
たとえ占いでも、不幸に見舞われると真正面から言われるのは気持ちのいいものではない。責任を感じているのか、濃墨先輩は暗い表情でカードをそそくさとまとめて箱にしまった。
「ごめんなさい。こんなつもりではなかったの」
「いいですよ、たかだか占いですから。それに、生きてれば嫌なことの一つくらいは起こります」
「いいえ。私が納得できないわ。何かお詫びをさせてちょうだい」
濃墨先輩にはいつもよくしてもらっている。占いで気分を害したのは事実だが、畏まって謝られるほどではないし、しょっちゅう物忘れを指摘される僕ならば明日には頭から抜けているだろう。
だが、濃墨先輩は一度言い出すと聞かないところがある。嫋やかな笑みに隠れた激情を赤錆さんとの喧嘩で何度か目にしているので、その頑なさはよく知っている。
上手い落とし所があればいいのだけれど。
俯く先輩を前にどうしたものかと考え込んでいると、ふとティーカップが目に留まった。
素人目にも分かる上品な造りだ。紅茶に興味がなくとも、これを贈って貰えれば、新しく始めてみようかという気持ちにさせるだろう。
「このティーカップって濃墨先輩が選んだんですか?」
「ええ。そうだけれど」
「あの、良かったらでいいんですけど、母さんへのプレゼント選びに付き合ってもらえませんか? こういう綺麗なものを贈れたらいいなとは思うんですが、自信がなくて。濃墨先輩が一緒に選んでくれると凄く助かります」
青褐先生の助言通りアクセサリーを買うにしても、僕の感性では酷いことになりそうだ。濃墨先輩なら年齢も考慮した最適なプレゼントを選んでくれるだろうし、一人で女性用のプレゼントを物色する怪しい男という構図も避けられる。
僕にしては冴えた提案である。しかし、先輩の反応は芳しくない。頭は下がったままで、両頬に手を当てて体を揺すっては、上目遣いでこちらをちらちらと窺っている。覗き込むようにして視線を合わせると、はっとして顔を背けられた。
「……嫌だったら全然断っていただいて結構ですよ」
「え! 嫌だなんて、そんな。私は全然構わないのよ。ええ、本当に。寧ろ、こちらからお願いしたいくらい。ただ、包介ちゃんから誘われるなんて予想外だったから、少し驚いただけよ。ええ、私は全然大丈夫」
あまり大丈夫そうには見えない。手うちわで顔を仰ぐ濃墨先輩は首まで赤く染まっていて、額には薄っすら汗が滲んでいる。
「本当に大丈夫ですか?」
「ええ、もう大丈夫。取り乱してごめんなさい」
刺繍の入ったハンカチで汗を拭きながら、一つ咳払いする。
顔を上げた先輩の笑みは普段よりぎこちなく、薄っすらと開かれた目蓋の奥の瞳は緊張している。
「折角のデートだもの。私も頑張らないと、ね」




