026
マラソンは苦行だ。
達成感という不確かな報酬を手にするため、果てしない距離をひたすらに走り続けなければならない。集団で臨まされるせいか諦めることが罪のような圧力があり、限界を迎えようが怪我をしようが足を動かすことを強要される。
時期もまずい。照りつける太陽は気力と水分を容赦なく奪い、靴底を焼く灼熱の砂は立ち止まることさえ許さない。冬場はグラウンドに雪が積もるので、夏のうちにマラソンが授業に組み込まれるのも仕方がないのかもしれないが、それにしても辛すぎる。
設けられた時間制限の中では自分のペースを保つことも難しい。一足先に走り終えた生徒の視線は、貧弱な僕を責めているようで、汗と涙の判別が難しくなってきた。
「包介、がんばれ! あと一周!」
醤君の声が遠くに聞こえる。もうすぐこの長い苦行も終わるらしい。
あと一周。まだ一周。
通学路より遥かに短いその距離が、永遠のように思える。体力はすでに底をつき、一歩がひたすらに重い。酸素を求めた肺が暴れて、何をもって足が動いているのか自分でも分からない。上がった顎が視界に焼き付けさせた雲一つない青空は、死にかけの僕を嘲笑うかのような鮮やかな色をしていた。
「よし、頑張った! よく戻ってきた!」
突如として抱き留められる。
醤君だ。僕は気がつかないうちにゴールしていたらしい。
汗で潰れた目は終わりすら見えていなかった。彼が止めてくれなければ、僕は走りながら息絶えていたかもしれない。
「おー、やっと終わったか。時間もないしさっさと締めるぞー」
荒れ狂う呼吸を整える暇もない。
吾亦紅先生が心底面倒臭そうに掛けた号令に従い、震える足を引き摺るようにして隊列に加わる。気遣わしげに背中を押す醤君の手のひらが、ただただありがたい。
「気を付け。礼」
「次の授業に遅れんなよ」
大口を開けて欠伸をする吾亦紅先生の背中を見届け、各々が校舎に戻っていく。
背筋を伸ばし仲間内で談笑を楽しむ者や、疲れが抜けきれず俯きがちな者。
同い年とはいえ体力差は大きい。青白い顔で必死に息を整える僕は、中でも最底辺の存在だろう。
特訓の成果は未だに表れない。強いて言えば、多少痛みに耐性がついたことぐらいか。つい先日に抱いた淡い期待は、既に色を失い始めている。
泥の沼を掻き分けるような抵抗を感じながらひたすらに腿を上げ、何とか渡し廊下に入る。砂に塗れた運動靴を脱いで汚れを叩き落としていると、頭上から声を掛けられた。
「死にかけじゃん。ウケる」
「これからの課題は体力だな」
赤錆さんと烏羽さんだった。彼女達はすでに制服に着替えていて、額には汗一つ浮かんでいない。
運動靴を靴袋に収めた醤君が立ち上がり、不満げに声を上げる。
「おいおい、こっちはマラソンだぞ。マット運動と比べんなよ」
「は? マット運動も辛いし。ていうか、何で女子の内容知ってんのよ。気持ち悪い」
「美咲から聞いただけだ。別にキモくねえだろ」
「あっそ。どうでもいいわ」
横柄な態度である。
反論は無駄と悟った醤君は大袈裟に溜め息を吐いて、面倒臭そうに顎をしゃくった。
「早く行こうぜ。やってらんねえよ」
「うん」
「あ、ちょっと待って。栗皮が用事あるって」
「えっ、美咲が?」
醤君の表情が一転して明るくなる。
たしか、醤君は栗皮さんと付き合っているのだったか。いつも爽やかな彼がもじもじする様子は新鮮で、何となく気持ち悪い。
「なっ、なんだよその目は」
「いや別に」
「言っとくけどな、女子に触られてる時、お前も似たような顔してるからな」
そんなはずはないと思うが、念のため気をつけておこう。
そんな、たわいもない軽口の応酬であったが、横槍を入れてくる者がいた。
「女子に体触られてるの」
赤錆さんだ。なんてことのない真顔だが、言いようのない恐怖と圧力を感じる。
醤君の失言である。
筋違いとは分かっていても文句を言いたい気分になり、横目で彼を睨めつける。マラソン由来ではない冷えた汗を額に浮かべた醤君は、素知らぬ風を装いながら口笛を吹いていた。
「たまに囲まれるよな。かわいいだのなんだの言われてっけど、そこらへん、男としてどう思ってんだ?」
烏羽さんまで参戦してきた。
素直さ故に空気を読むことを知らない彼女は、ずけずけと地雷を踏み抜いていく。
「へえ、そう。そうなんだ」
「いや、その、女子って小さいものに何でもかわいいって言うじゃないか。だから別に本当にそう思われてるわけじゃなくて、なんかこう、その場の流れみたいなものだよ」
「体触られたのは?」
「ええっと、ほら、丁度頭が撫でやすい高さにあるんじゃないかな。きっと」
何が悲しくて己の背丈の低さを根拠に弁明を図らなければならないのか。身を切ったにも関わらず、赤錆さんの反応は渋い。
「二の腕とか太ももとかも触られてるだろ。オマエも満更でもなさそうだし」
頼むから静かにしていてくれないか。
烏羽さんの言葉は的確に事態を悪化させる。醤君は遠い目で青空を眺めていた。
「よかったね。女の子と仲良くできて」
赤錆さんの怒気が殺気に変わった。据わった瞳に睨まれて、膀胱が縮み上がる。
「ねえ、嬉しかった?」
「嬉しくないです」
「それじゃあ烏羽が嘘ついてるの?」
「アタシ嘘つかない」
もう耐えられない。大声を上げて逃げ出す狂った案が頭をよぎる。
小刻みに震える膝が使い物にならなくなる前に実行に移そうと踵を返すと、すぐ後ろに立っていた女子にぶつかりそうになった。
「なにやってんのさ」
腰に手を当てた栗皮さんが呆れた様子で嘆息する。彼女の顔を見るなり、意識を彼方に飛ばしていた醤君に生気が戻った。
「助かった!」
「もう。智がなんとかしないとダメでしょ」
「いやー、正直キツいぜ」
「なにがキツいのよ」
「はいはい、丁もすぐ喧嘩しない」
協力者が一人増えるだけでこうも違うのか。
栗皮さんはいとも簡単に赤錆さんを御し、剣呑な空気はあっという間に収拾した。
「それじゃあうちらはもう行くね。智は……後で二人で話そっか。みんなの前だと、ちょっと恥ずかしいし。それと、包介くんはあんまり丁に心配かけちゃダメだよ」
颯爽と去っていく栗皮さんの背中が大きく見える。
恋人の手腕を誇り、得意げに目配せする醤君に若干の腹立たしさを覚えたが、栗皮さんに免じて言葉にはしなかった。
◇◆◇
マラソンとその後の出来事で予想以上に消耗した僕は、すぐに睡魔に襲われた。
微睡の中で受けた国語の授業はいつの間にか終わりを向かえ、日直の号令でようやく正気を取り戻したが、起立と同時に膝を机に強打し、哀れにも嘲笑の的となってしまった。
「シャキッとしろよ」
いびきをかいていた烏羽さんに注意されるのは釈然としないが、言っていること自体は正しいので言い返せない。せめてもの抵抗に不満顔をつくると、頬肉を抓られた。
「いたい」
「師匠に生意気な顔するからだ」
烏羽さんは好き放題に僕の頬を捏ねた後、トイレ、と短い言葉を残して教室を出て行った。赤くなった頬を摩りながら溜め息を吐いていると、後ろから肩を叩かれる。
振り向くと、玄君が含みのあるにやけ面でこちらを見ていた。彼の隣に立つ松葉鼠君も、机に手をついて下世話な笑みを浮かべている。
「なあなあ。最近、烏羽とめっちゃ仲良くね? 付き合ってんの?」
「つーか、赤錆さんはどうしたんだよ」
「濃墨先輩の謎も誤魔化されたままだしな」
またか。最近、この手の質問が増えた。
烏羽さんには稽古をつけてもらっていて、赤錆さんと濃墨先輩は同じ倶楽部に属しているだけだ。共に過ごす時間は長いが、彼女らは僕を手のかかる子供か、暇潰しの玩具くらいにしか思っていない。彼等が期待するような甘酸っぱい関係には程遠い。
「なんにもないよ。びっくりするくらい」
「なんだよ。つまんねえな」
「そういう松葉鼠君達はどうなのさ。いい雰囲気の人とかいないの?」
玄君と松葉鼠君は数秒顔を見合わせたあと、がっくりと肩を落とした。現実はどこも厳しいらしい。
「まあ、女だけが人生じゃないしな」
「そうだよ、男だけの方が楽しいよな!」
から元気が救いになることもある。
無理に明るい声を出して肩を組んできた松葉鼠君に応えていると、彼の体が大きく揺れた。誰かに背中を押されたみたいだ。
「っテッエなァ」
松葉鼠君は大仰な動作で振り返り、すぐに青くなる。
トイレから戻った烏羽さんが、手を振り水を切っていた。
「邪魔」
金縛りの恐怖から解放され、烏羽さんの眉間はずいぶん和らいだが、それでも不意に険しさが覗く。
ぶっきらぼうな一言は、彼女をよく知らない人を畏怖させるには充分で、松葉鼠君はすごすごと自席に帰って行った。後ろの席の玄君は逃げ場もないので、ただ俯いてやり過ごすことにしたようだ。
「機嫌悪そうだね」
「……別に、悪いわけじゃねえけどよ。近ごろ彼氏がどうとか彼女が欲しいとか、くだらねえ話が聞こえるからうんざりしてるだけだ」
「前に恋バナしたがってなかった?」
「あれはその場のノリだろ。毎日聞こえてたら流石に鬱陶しいわ」
あの夜に聞いた烏羽さんの独白はまだ記憶に新しい。気に入らなければ実力行使を厭わない性格でありながら、男性に恐怖心を抱く彼女が恋愛に抱く感情は、ひときわ複雑なのだろう。
「オマエも彼女とか欲しいの?」
「いたら楽しそうだよね」
「ゲ、マジかよ。考えらんねえわ。大体、彼女できたとして、何して遊ぶんだよ」
いざ問われると答えに窮する。
すぐに思いつくのは、どこかに出かけたり、プレゼントを渡したり、そんなところだ。赤錆さんならもっと上手に説明できるのだろうけれど、僕の貧困な想像力ではそれが限界である。
もごもごするだけの僕を前に、烏羽さんは勝ち誇るように鼻を鳴らした。
「なんだよ。一緒にゲーセン行くとか、その程度なんだろ? だったら彼氏と彼女なんて、アタシとオマエの関係と大して変わらねえじゃんか」
「えっ、じゃあやっぱり、お前ら付き合ってるってこと?」
「あ゛?」
聞き耳を立てていた玄君が耐え切れず、といった様子で口を挟んでくる。
「いや、だって、そういう関係ってことは、付き合ってるみたいなもんじゃん」
音が出そうな勢いで赤くなった烏羽さんの頭には、たしかに湯気が見えた。
わなわなと口元を歪める彼女は何故か僕に向き直り、腕を高く振り被る。
「いだぁっ!?」
脳天を直撃した張り手は、目から火が出たと錯覚するほどに強烈だった。




