7
作者は男性です(20台半ば)。
この物語は概ね妹の愚痴と周りの女性への聞き取り(どしたん、話聞こか?)で構成されています。
男だからこそできる「リアル」なクソ男の心理と行動を表現できればと思っております。
ホイットニーさん、どうされたのですか? と背後から聞き馴染みのない声に呼ばれた。次いで、右肩にとんとんと軽い感触を覚えた。
「ホイットニー、大丈夫?」今度は正面からジュディが言った。「移動の指示が出たわよ」
「ご、ごめんなさい」私は前後に振り返り答える。「ちょっとボーッとしちゃって」
ジュディと後ろのクラスメイトは、それでも心配だ、という風に私の顔を見ている。
いけない。どうやら私は思考の回廊に迷い込んでしまっていたようだ。私の悪癖の1つだ。ある境界を越えて考え事が過ぎると、途端に外的世界の描線がするっとほどけてしまう。そして外的世界の方から――つまりは客体、他者――からの呼び掛けがないとこちらに戻ってくることができない。危険なことだ、とりわけ女にとっては。だから自身の安全が確保されている状況で、なおかつ座るか横になっている状態でない限り長考をしないように心がけているのだけれど、ジュディの単独行動の理由を知れたことで気が緩んでしまったみたいだ。
「ホイットニーさん、大丈夫ですか?」
先生も心配して私のもとへ来てくれた。
「せ、先生、その」
面と向かって声をかけてもらえて、顔が照れ照れと熱くなってしまう。
先生が私の顔を覗き込む。あ、顔がお強い、なんて限界オタクのようなことを思ってしまった。そして、創作の男性恐怖症の女性キャラクターが中性的な同性に熱をあげてしまう気持ちが、いまならよく理解できる気もした。
「顔が赤いですね、熱でもあるのでしょうか」
そう言って、先生は私の額に手を伸ばす。
「だ、大丈夫です!」
私はつい大きな声を出してしまう。先生の手が私の前髪に触れる直前だった。はっとして周りに目をやると、クラスメイトだけでなく他のクラスの生徒までぎょっと私の方を見ていて、余計に恥ずかしくなってしまう。今世でこれだけの注目を浴びたのははじめてのことかもしれない。
「違うんです、そのぉ」私はできるだけ声量を抑えることを意識する。「これから入学式で、そこから新しい生活がはじまると思うと、とても不安な気持ちに、なってしまいまして」
「そうなんですよ」ジュディが隣から助け舟を出してくれる。「先生が来る前の教室でも、ちょっとホームシック気味だなんて言ってまして」
先生は自身の手を引っ込めてから言った。「なるほど、そういうことだったのですね」
先生は優しい表情をつくってから続ける。「私も昔、この学園に入学した時に同じ気持ちになったことを覚えています。ほとんどの生徒にとってはじめて親もとから離れて暮らす機会ですから、みんな大なり小なり不安を抱えています。でもその不安と離れ離れの期間は、やがてポジティブなものに転回するようになります。授業と魔法を通して自分自身が高められていくことを実感し、そのことを最初の夏休みに久々にあった家族に認めてもらえること。それはこれまで生きてきた中で5本の指に入るような素晴らしい体験です。それをいくつも重ねて、そしてついに卒業となる頃には、いま抱いている不安もただの笑い話になってしまうものなんですよ」
ああ、なんて優しい言葉をくれるのだろう、と私は思った。その言葉は実体のある弾力に富んだ物体として私の方へ飛んできて、私の内的なあらゆる部分を弧を描くように揉みほぐしてくれるみたいだ。もやもややイガイガも、例に漏れず。
3組さん! はやく移動お願いします! という大きな声が廊下に響いた。気が付くと1と2組は既に階下へ降りていったようで、続かない3組にしびれを切らして学生課の職員が呼びに来たのだ。
「ごめんなさい、私のせいで」私は頭を下げて言った。
「顔を上げてください」先生は応えた。「こんなことは毎年必ずあるものなんですよ」
先生はその場で4組の方に軽く頭を下げる。そしてすばやく私たちの先頭に移動して、3組進みます! と声を上げた。私たちは指示に従って進み階段を降りて、1階の学生課の前を横切りA館から出た。外は新入生の大移動の真っ最中だった。まずは西側の生徒から移動しているようだ。列が街道を横断して西側のメインストリートの奥まで伸びている。しかしぐーっと覗き込むと西側の列の終わりがなんとなく見えている。その最後尾がここまでやってくるまで、およそ2分と言ったところだろうか。そこに1組2組と続いて私たち3組も合流していくことになるのだろう。東側の他の学部の新入生もぞろぞろと、自身の学部棟の前に待機をはじめている。
私は肺の空気を全て吐き出すくらいの大きなため息をつく。
私は白状する。正直に言語化する。私はいま、感動をしてしまっている。まるで頭を掴んで振り回されるように、がんがんと心に響いている。
切っ掛けは間違いなく、エイダとの邂逅だ。エイダの美しさにあてられて、私が強固に建設してきたある種の心の壁に亀裂が生じた。そこにジャーメイ、ジュディ、ディオンヌ先生が様々な流れを注ぎ込んでいった。それは染みて、次に温めて、やがて回転をはじめた。
焔もはや窒息寸前だ。
「たじたじだったわね、ふふ」ジュデイが潜めた声で言った。
「……ええ、まったく」私も潜めた声で応えた。
「それにしても、ホイットニーにアドバイスをする先生はとてもカッコよかったわね」
「そうね」
「先生を前にしたホイットニーはまさにかわいい乙女みたいだったわ」
「よしてよ、恥ずかしい」
ジュデイはいっそう私に寄って、自身の口に手を添えた。「……ねぇ、ホイットニーってもしかして女の子が好きな人なの?」
「――何でそう思ったの?」私は小声だけれど、わりかし強めの口調で言った。
「だって、ホイットニーって男の子に対して基本的に冷たいし、たまに近寄らないでくれますオーラを出すときもあるし」ジュデイは添えた手を下ろし、もとの距離感に戻ってから言った。
私は今世において、はじめて自身の対男性の印象を話された。数度私の性的指向を疑った両親からも、そこまでの言及はしてはこなかったのだ。
「――そうね」私は自身の中の感触を確かめてみる。丁寧に慎重に、佳品な薄紙を扱うように。そして答える。「うんうん、私の性的指向は男性なんだと思う」
私は心の中で、エイダに感じた魅了や先生に対するドキドキが性欲に結び付くかどうか確かめてみた。結果は否だった。それらと性欲の間には大きな溝があって、性欲の方から橋を架けてもらわないと結ばれないようになっていた。
私はその結果に、少し嬉しく思った。
「だったら何で男の子に冷たいの?」ジュデイは言った。
それは、と私が言おうとしたところで、先生が、3組も進みますよー! と声を上げた。見ると、西側から伸びた列は全て東側の敷地に収まって、その最後尾に1組、続いて2組が合流していた。次が私たちになる。
「その答えはまた今度ね、ほら進んで」私は言った。
ジュデイはまだ納得できていないという風に、うぅん、と言って翻り進んだ。私も続く。そして1匹の小さな働き蟻になった気持ちで、入学式会場の大ホールへ向かう。
次話は明日の19時台に投稿予定です。