11
私は続ける。「この場を借りて申し上げさせて頂きますと、私には学園を優秀な成績で卒業し公務を頂いて1人で立って生きるという目標があります。ですからケビン殿下とロバート殿下、どちらが私の仕える王となって頂けるかはとても重要なことなのです。その点においては、ロバート殿下の方が普段の業務負担は楽だと思います。大抵のことは殿下が合理的な判断を下されて、表向きには面倒とは程遠い政治運営をして頂けるのだと思います。しかし、個人の資質に依存した政治はとても脆いです。あるいはその資質に無欲が合わされば最も優れた状態となるのかもしれませんが、少なくともロバート殿下はそうではなかった。人並み以上の私欲をお持ちでした。そして実際に、それが政治に結び付かない訳がなかったのです。誰かを従えて不正や濫用行為を働いて、それが白日のもとに出てしまうと途端に全てが破綻する。それは最悪の場合亡国という結果すらもたらすかもしれない。そのことがきわめて個人の責任によって成ってしまった場合、我々はただその結果を受け止めることしかできません。それほど恐ろしいことが、はたして他にあるでしょうか?」
いや、ない。それは死ぬことの次に恐ろしいことといっていい。そして、その規模を縮小させた事象が女性には常につきまとい悩ませている。男との結婚生活がまさにそれだ。両性とも子供を求めないならいざ知らず、子供を欲すれば実際に妊娠・出産をする女性はほぼ確実に社会から退かないといけなくなる。そして育児に自身のリソースの大半を持っていかれて、それが一段落する頃には以前のバイタリティは失われてしまう。そこから社会へと独力で還るには、かなりの才能に運も必要になってくる。しかし悲しいことに、大半の女性にはそれがない。あるいはパートナーの男がその女性の身体的構造を理解してくれて、適切な負担分を引き受けてくれるなら幾分楽になるだろう。まぁ、そういう男が隣にいるのなら、社会に戻る必要性もなくなるだろうけど。しかし、ほとんどの男がそうじゃない。父親になった自覚が薄くいつまでも独身時と変わらない価値観を固持して、母子ともに適切な関係性を構築できずに、家庭は不安が恒常の状態に陥る。そこに離婚や致命的な失敗が振りかかると、高確率で女性は2度と立ち上がることができなくなる。母親という役割以外全てを失うのだ。私はそうなってしまった女性を何度も間近で見たことがある。まさに生きながらの死だ。
しかし、それは単純に男だけが悪いと言えない部分もあるのだ(そして子供のせいだとも)。もし何か1つのせいにしたいのなら、それは有性生殖、雌雄非同体というシステムをつくった神と定めるべきだろう。
体のつくりが違うということ、生殖の負担割合が異なること。それはどうしても詰めることのできない強大な隔たりだ。人の想像力には限界がある。どこかの悪趣味なサングラスをかけたおじさんが言ったように、『戦争を知らない子供と平和を知らない子供の価値観は異なる』。立場が入れ替わらない限りは――もちろん私はそんなことは望まないが――お互いのことを真に理解し合うことはできない。ただし経済や治安については、先述のようにして相互理解は可能ではあるけれど、身体の構成についてはそうはいかない。前世では性転換手術という技術が確立され法律的に性別を変更することは可能であった。しかしながら、孕妊性を移し変えるようなことはできなかった。今世においては変装の魔法が存在するけれど、実は異性の体になることはいまのところできないのだ。見て呉れは異性らしくできても、生殖器や内蔵はそのままだ(そう、だからこそ変身ではなく変装なのだ)。
結局のところ我々は、肉体を持っている以上は体験できないことを理解することができないのだ。その代表的な事例が男女の性差だ。雌雄を決する、先ほど私も使った表現だけれど、実に核心をついた言い回しだと思う。
結局のところ我々は、たとえ理解できなくとも想像を働かせて寄り添おうとする営為を愛でることしかできない。もしかすると神はそれを尊いだてぇてぇだ等と言いながら消費するために、性別に代表される様々な差異を生み出したのかもしれない。そしてその特別性を持たせるために、想像力の欠いた人たちを数的マジョリティとして配置した。
そう、私たち女性も想像力の不足で無自覚に男を踏みつけているところが必ずあるのだ。男の立場からしたらあからさまでも、女性の立場からしたら些事として片付けてしまっていることがあるのだ。女性であることを楯にして、不当に攻撃していることがあるはずなのだ。
だからこそ、私はそれをお互い様として受け入れることはしたくない。被害にも加害にもしっかりと向き合うこと、想像力とはそうやって育まれていくのだろうから。それを放棄することこそが、生きながらの死なのだ。だから私は、納得のできないことはしっかりと文句を言わせてもらう。けして弁えたりはしない。だからそちらも、遠慮なく文句を言って欲しい。まぁそれも納得できなければ反論はさせてもらうけれど、それを互いに幾重にも重ねていこう。それもまた、寄り添いの1つのかたちなのだ。
故に私は、ロバートに対しても遠慮はしない。周囲を自身の都合のいいように動かして、想像力を損なわせしめることがどれほど愚かしいことかを余すことなく突き付けなければならない。そしてそれを政治に絡めることがどれほど恐ろしいことなのかも。それを発展させて、独裁という体制を築いたものたちが何をしでかしたのか、私は二十分に知っているから。
「それに引き換えケビン殿下の治世は、ロバート殿下のそれよりは負担が大きいかもしれません」私は続ける。「勿論、問題に直面していない時はさほど違いはないのでしょう。ケビン殿下もやはり、もともとの能力はとてもあるお方です。しかし、何かしらの問題に直面した時には、ロバート殿下と比べたらそれなりに脆い人だと私は分析しています。いや、分析なんて高尚な言い方をする必要もありません。この1年のケビン殿下の様子を見ていた全員が、内心そう感じていたと思います。でもそれは、よい言い方をすれば全ての事柄を真正面から受け止められるからです。それもまたとても素晴らしい資質です。でも一部の人たちは、それを弱いとも称するのかもしれません。でも私は、それでいいと思います。弱い人たちの心や痛みは、弱い人にしか分からないのです。政治の理想とは、勝手に救われる強い人たちのためではなく、自分で自分を救うことが難しい弱い人たちにこそ向けられるべきだと私は信仰しています。しかしロバート殿下、いえ、ロバート殿下だけではありません。ほとんどの政治が強い人たちによって強い人たちがより快適に生きるためにしか機能していません。そしてその強さも結局のところ、自分にとっては都合の悪いことを受け流して、そのつけを物言えぬ弱い人たちに押し付けているが故なのですよ。弱い誰かを悪役にしたてて、自分は正義を自認する。しかし全ての化けの皮が剥がれた時に、まるで鉄柱が砕けたように取り返しがつかなくなる。まさにこの度のロバート殿下のように」
ロバートは口許を歪めながら私を見ている。その唇の奥で、きっと歯を食い縛っているのだ。
私は一呼吸入れてから続ける。誰も、私の弁を遮るものはいない。
「ロバート殿下のそれが鉄の柱なら、ケビン殿下はしなることのできる木と表現できると思います。台風のような強い風が吹けば震えて揺れて、端から見れば情けなく映るのかもしれません。対照にその中を悠然と立ち尽くす鉄の柱はそれは頼もしく映るでしょう。一部の人たちは、それをカリスマとも呼ぶのかもしれません。しかしその表面的な様相とは裏腹に、折れないのはしなることのできる木の方なのです。鉄は襲ってきた力をそのままに周囲に散らします。鉄の後ろにいるものだけが守られている。しかしその性質故に自分自身も気が付かないうちに歪みや損傷を受けていて、ちょっとしたきっかけで轟音を上げながら粉砕してしまう。その際に周辺に幾つもの破片も撒き散らします。なかには致命的と言えるほどに鋭利なものも含まれている。それはもっぱら、鉄の後ろにいたものたちに降り注ぐのです。――でも、しなれる木は違います。それはまず自身の柔らかさを持って脅威を受け止めて、その勢いを減衰させてから周囲に流してくれる。長期的に見れば、しなる方が確実に周りを傷つけないのです。そして生きているが故に、葉が全て落ちてみすぼらしく見える時期も出てきてしまうでしょう。しかし季節が巡れば、また以前と同じように青い葉をいっぱいに身に纏うのです。……人々は、いえそれ以前に私は、そういう存在こそを支えたいと思うのです。日の光を浴びせたい、肥料を与えたい、水を与えたい、必要な時には支柱を取り付けてもあげたい。そうやって主体的に関わることを通して、自分の生に対する責任も実感したい。自己の権利を血液のように感じとりたい。それは固い信頼によって結び付いたやりとりでのみ成り立つことなのです。それこそが本当の豊かさだと私は思っているのです。……ただそれでも、折れてしまう時は出てくるでしょう。それでも、私は、私たちは、やれることをやりきったと言える実感が欲しいのです。しかしロバート殿下の政治には、いえそれ以前にコミュニケーションの段階から、それが皆無なのです。殿下にあるのは一方的な押し付けと一方的な拒絶だけです。冷たくこわばっていて、生きていないのです。だから結局、周囲は殿下に全てを委ねようとなってしまう。殿下の場合能力があるからなおさらです。それ故に、砕けてしまえばあいつだけのせいだ、なにもすることができなかった、私は悪くない、そういった阿鼻叫喚に包まれるのです。私は絶対に、その狂気の中に含まれたくありません」
私はいっそう強い表情を浮かべることに努める。それはもはや、明確に睨んでいる状態にまで昇華させる。いよいよ決着をつける時だ。私はロバートに、いや世界全体に対し、いや、過去の自分自身にも向けて主張しなければならない。私はただ強い力に身を任せて流されるだけの存在ではないということを。その強い力が自分に対してどのように作用するのか、それに一喜一憂するだけの生ではないということを。私は私だけが持つ力によってまず立ち上がって、残ったほんのささやかな力を、同じように立ち上がりたいけれど弱ってしまっている人たちに分け与えたい。その輪を広げていって、ヒーローや悪役のレッテルの貼り合いから解放されたゆとりのある人生にしたい。個人が役割ではなく個人そのものを尊重しあえる社会を生きたい。感想の押し付け合いなんてもうまっぴらだ。そのためには、いまの目の前にある悪に引導を渡さなければならない。矛盾しているように聞こえるかもしれないけれど、それは「寛容のパラドックス」と同じだ。そのために必要とあらば、私は自身の血を流す覚悟もしている。
ただし、この度のロバートとの一連は、まだその序章に過ぎない。これから恐らく後4人、同じようにして叩きのめすことになるだろう。いや、今回の私の行動が作用してその彼らが鳴りを潜めてくれたらそれだけ涙を流す人がいなくなるわけだ。結局のところそれが1番いいだろう。しかしなんとなく、そういう風にはならないだろうという気がしている。だからこそ、私は容赦しない。そのことも私はいまここで示さなければならないのだ。
次話は明日の20時台に投稿予定です。




