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私は傍点を多用するのですが、それは好きな作家の村上春樹のリスペクトでもあり、主人公の人間不信の状態を表現したいという意図もあります。
担任は教室の前方を毅然とした態度で横切る。私たちはその凛々しさを目の当たりにして、いっそう背筋がシャキッとする。
背の高い人だ。170cmはゆうに越えている。カッコいいという印象が先行する美人で、女生徒のファンダムが結成されていそうだ。黒髪でユニセックスなショートのセンターパート、灰色の瞳、横顔はどこかジャーマンシェパードを想起させる。クリソベルキャッツアイのピアスを着けている。
私は『オールウェイズ・ラブ・ユー』において、彼女のような造形をした人物を知らない。しかし、ただのモブとしてはやけにキャラクターが立っている。
服装の色合いは私たち生徒と同じ紺色なのだけれど、足もとまで隠れたロングスカートで魔法使いという雰囲気がより顕著になっている。いや、その雰囲気を作りだしているのはそれだけじゃない。彼女は所謂とんがり帽子を被っている。学園の教師や重要な公務を任せられるような優秀な魔法使いにのみ着用が許される代物だ。生徒の段階で被ることは基本的に許されない。そしてそれは、私が目標の1つとしているものだ。この世界において誰かと婚姻を結ぶつもりのない女性が唯一世間から無下にされないのが、その帽子を被れるようになることだからだ。私はそのために、この学園を優秀な成績で卒業せねばならない。隠しながら研ぎ続けた爪を、ここぞという時に発揮していかなければならない。
彼女は教卓の前に立って、私たちをざっと見渡した。そして気持ちのいい微笑みを浮かべる。
「賢そうな生徒ばかりで私は嬉しいです」彼女は言った。「はじめまして、私はディオンヌ・ウォーロックと言います。皆さんの大切な3年間、その最初の1年が実りの豊かなものになるよう精一杯お手伝いさせていただきます。よろしくお願いします」
彼女のシンプルで完璧な挨拶に、男女問わず教室中が色めき立つ。対して彼女は、さも見慣れた光景という風に控えめな笑みを見せた。
「では、皆さんからも自己紹介をしていただきましょうか」先生(ディオンヌのことをこれからそう特別に呼称する)は言った。「窓側の先頭から後ろに順々といってそこから折り返していきましょう。名前と一言、1分だけ考える時間を与えます。難しく考える必要はありません、これが成績に反映されるようなことは勿論ありませんので」
先生の粋な言葉に、教室の空気が柔らかくなる。クスクスとした笑声で満たされて、先生はまた気持ちのいい笑みを浮かべる。
「近くの方と相談しても構いません。ではシンキングタイム、スタート」
先生の掛け声により、クラスメイトの7割くらいは近くの生徒と相談をはじめた。その多くはもとから交遊があるのだろうという雰囲気だったが、中には初対面同士と見える組み合わせもあった。一方が会話をリードしていて、それは私が教室に入室した際にも積極的に関わりを持とうとしてくれた人たちだった。
なるほどなと、私は思った。各自の自己紹介よりも、この1分の方が担任としてクラスの現状を知るよい材料になりそうだ。結果よりも、結果までの道程こそが人間を量る上で重要だ。先生はやはり優秀な人なのだと、改めて尊敬の念を抱いた。
私の見る限り、いまのところこのクラスの空気は清浄だ。威張り散らすような生徒もいないし、クラス内カーストを積極的に構築しようなんて企みそうな生徒もいない(しかし逆にこういったクラスの方が、誰かを敵と認めた際の残虐性がひとしおなのだ。そして1つの結果に辿り着くまで、そのことを自覚することができない)。
そういったカーストにおいて、平民はやはり最下層に押し込まれやすい。しかし、このクラスで明確に平民だという雰囲気の生徒はいない。そもそも平民の入学生は希少だ。全学部の1学年に10人もいたらいい。むしろ平民が1人もいないクラスの方が大多数だ。いま耳を隠している生徒が6人ほど見えるが、貴族のなかでも見せつけるようにするのははしたないという考えの家もあるので(結局のところ、それは見栄の張り合いに発展するのを避けたいだけなのだろう)、耳を隠している=平民とは限らないわけだ(だからこそ、エイダも髪で隠す方向で対応を図ったのだ)。
「ねぇ、周りばかり見てないで私たちもどうするか考えましょうよ」ジュディが言った。
そうねぇ、と私は言って、視線をジュディに向けた。
「あなたは好きな食べ物とか言っておけばいいんじゃない?」私はジュディに提案する。「食べ物について話している時が1番あなたらしさがあるわよ」
「なんか誉められてる気がしないわね、それ」そして、彼女はわざと気取った言い方をする。「私が食いしん坊やいやしんぼだとでも言いたいのかしら?」
私は答える。「正確な評論だと思っているけれど、不満かしら?」
「――そうね、その通りだと思うわ。実は私も食べ物のことしか思い付かなかったの」彼女は素直に答えた。
「いいじゃない、自信を持ってそれを答えたら。少なくとも、ここにいる人間でそれを不快に感じる人なんかいないわよ」
「えへへっ、ありがと」彼女は無邪気に笑った。「で、ホイットニーはどうするの?」
私は、と私が言ったところで、先生がパァンと手を鳴らした。
「はい、そこまで!」
シンキングタイムの終了が告げられる。ジュディは潜めた声で、楽しみにしてるね、と言って、先生の方を向いた。
「入学式まで時間も少ないので、さっそく窓側の先頭からお願いします」
先生の呼び掛け通りに、窓側の先頭が起立して名前と一言を述べる。終えると皆が拍手して、次のクラスメイトに移る。私もその空気感にちゃんと参加する。それが続いて、ジュディの番になった。その次が私だ。
「ジュディ・グランです。食べることが好きです。1番好きな食べ物は苺です。街道沿いに苺を使った美味しいスイーツを売っているお店があると聞いてるので、今度みんなで行ってみたいです。実はさっき1人で下見に行ってました。よろしくお願いします」
一言どころではない自己紹介だったが、親しみ深いよい自己紹介だった。クラスメイトの拍手や表情もこれまでで1番よかった気がする。この後に自分の番なのは少しだけ嫌だなと思ってしまった。ただまぁ、先生のいう通り成績には関係ないんだ、気楽にいこう、そう思って私はさっと立ち上がった。
私は1つ深呼吸してから言った。「ホイットニー・ブリンソンです。ディオンヌ先生のようなとんがり帽子の似合う人になりたいです。よろしくお願いします」
自己紹介が終わると、私はすっと座った。それまでと同じように拍手が起こるが、次の生徒が立ち上がる前に、おー、と私を囃し立てる――男子生徒の――声もあった。隣のジュディもキラキラした顔で私を見て拍手をしている。先生もにんまりとした笑顔を見せている。
私の後ろの2人が自己紹介を終えると、ジュディが潜めた声で言った。「ホイットニーにしては珍しいじゃない、はっきりと自分の目標を公言するなんて」
ジュディは私がとんがり帽子を欲していることを以前から知っている。勿論、それが婚約・婚姻を回避するためとまでは知らない。
「そうね」私も小声で言った。「私だって言いたくなる時があるのよ。それでいまなら大丈夫じゃないかなってね」
「なるほどね、でももっといろんな場所でそれを言っていいんだと私は思うわよ。目標を語れる人ってとても魅力的よ、ホイットニーはいまでも十分素敵だけど」
だから、とジュディが続けようとしたところで、私は机の彼女の目の前の辺りを平手でタンタンと叩いた。自己紹介の順番が私の右斜め後ろにまで折り返してきたからだ。彼女はその意を受け取ると、手をひらひらとさせて応えた。
自己紹介の戻ってくるタイミングに救われた、と私は思った。これ以上ジュディの話を聞くと顔が真っ赤になってしまいそうだったし、彼女の「だから」の音量が先ほどまでより明らかに大きくなっていたから、ひそひそ話の内容が周りに漏れてしまうところだった。ただ声が聞き取れなくても、ひそひそ話をしていることが目に見えて分かるはずの先生から注意はされなかった(教卓と学生側の最前席は人が3人横に並んで通れるくらいの幅が空いている。それは授業で魔法の実演をする際、近接していると危ない場合があるからだ)。マナーとしては褒められないはずなのに。きっと、せっかくの入学式の日くらいとお目溢ししてくれたのだろう、授業中でもないわけだし。しかし今回に限っては、先生からの注意が欲しかったと個人的に思った。
私は自身の自己紹介を振り返る。目標を公言したのは、何よりも先生に気に入られたいという気持ちが強かったせいに違いない。それ自体は悪いことではないのだと思う。でもやはり、今後こういったことは控えようと思った。エイダと思いもよらぬところで接触があったことも含めて、心の隙間に温かな流動体が注がれるような感触があると、これまで燃やすように洗練させてきた戦意が弱まってしまうのを感じた。まるで酸素が欠乏するように。それでは駄目だ、むしろこの学園に入学してからこそが本番なんだ。酸素をどんどんと送り込み、もっと鋭利で残酷な形状にしていかないといけない。まるで金閣寺を全焼させたあの焔のように。
次話は明日の19時台に投稿予定です。