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例の袋小路に到着すると、レベッカは辺りに遮音の魔法を施して効果を確認してから、取り巻きの2人共を見張りに立たせた。レベッカとエイダのみ、サシで向かい合う状況になる。
レベッカはエイダを壁際に誘導すると、エイダの左耳を掠めかけるように壁を平手で打った。バァン、と打った本人も痛いであろう音が鳴った。そしてそのまま手に体重をかけてまた壁ドンのかたちになり、エイダの顔に目掛けて自身の思いを爆発させた。ドスの効いた、鼓膜がビリビリと震えるような声量。唾が飛ぶことなんてお構いなしに。それは概ね、先ほど私が叙述したことだ。ロバートが私が排除したはずの泥棒猫に接触しあまつさえ生徒会役員として迎え入れたこと。その対応が自分にとってあまりにも不愉快であることを伝えても素っ気ない返事しかくれなかったこと。以前からクールではあったけれど、ここまで心のない返答だったのははじめてだったこと。――きっとあなたが彼に何かしたのよ。下品に誘惑して、バターを切り分けるように篭絡したのよ。ねぇ、なんであなたたちってそこまで恥知らずなの? 人のものを取ってそんなに楽しいの? いい加減にしてよ、現実をみなさいよ。本当に王子様と結ばれることができると思ってるの? たとえ万が一にでも彼にその気があったとしても世間や制度がそれを許さないわ。私と彼が結ばれることは絶対に覆らない決定事項なのよ。分かったらこの後生徒会に行って、書記に就任する話をきっぱりと断ってきなさい。そして私と彼と交わらないふつうの学園生活を送りなさい。それが、あなたにとって正直に生きるということなのよ。
それらを捲し立てるレベッカの剣幕は、先日のそれと少しの遜色もなかった。むしろ言葉の密度においてはより苛烈だといっていいかもしれない。しかし、当のエイダはさほどの恐怖も感じなかった。それはレベッカに、先日のような立場的優位性を背景にした余裕というものが微塵も感じられないからだ。そのうえで、エイダにはある種のバフがかかっている。先に指摘した上機嫌・浮き足立ちに加えて、いまのエイダの心には優越感が注ぎ込まれている。昨日の私にはしてもらえた紅茶のご馳走や優しい声かけが、今日のレベッカには――たとえ形だけでも――一切なかった。その事実が、エイダを精神的優位に立たせた。それはエイダのこれまでの人生において、美味しいものを食べる、暖かい布団で眠る、家族の温かさに寄り掛かる、それらよりも遥かに増した、天国的な快楽だった。全てを持っている彼女に無いものを、いま私が持っているということ。
エイダはレベッカの目をまっすぐと見る。レベッカはエイダのその行動に怯んでしまう。身震いすらして、思わず壁から手を離して距離をとった。まるで人が変わったみたいだ、とレベッカは思ったに違いない。そして、先日に自分が指摘したことの意味を肌で強烈に理解した。男の承認によって、女はまるで芋虫から蝶に変態するように変わること。レベッカはそれを言葉としては理解して利用もしていたけれど、自分に対して意志を持って向かってきたのははじめてのことだった。レベッカは自分が振るう言葉の意味を軽んじていたことを思い知る。
エイダはキッと表情を固めてから、口を開く。「レベッカ様の言う通りでした。私は生徒会長のことを、ロバート様のことをお慕いしています。仕えるべき臣民としてではなく、性愛として。昨日までは、そのことを自覚していませんでした。ただよく分からない感情の塊のようなものは、入学式から心の中にずっとありました。それが昨日、ロバート様から生徒会へお誘い頂いた時に、その正体は恋なんだと自覚することができました。きっかけは一昨日にレベッカ様から頂いたご指導です。先日は本当にありがとうございました」
「なっ……」
レベッカは、先日のエイダからは想像のできない挑発的な言動に呆気をとられる。滑舌もよく聞き取りやすい発声、本当に人が変わったみたいだ。もしかしたら誰かが変装の魔法でエイダに化けているのかもしれない、レベッカはそんなことも考えたかもしれないが、目の前にいるのは紛れもなくエイダだし、いまのエイダに全面的な味方となってくれる優秀な上級生がいるはずもなかった。
「もちろん、平民の私がレベッカ様からロバート様を奪えるなんて思っていません。お2人が卒業後にご婚姻されることは私なんかが覆せないことです。そのことは完全に諦めています」
「あなたは一体、何が言いたいの?」
レベッカの声音が随分と弱腰になっている。会話の主導権が、完全にエイダへ移ってしまっている。
「私はこの恋を実らせる気はありません。それはレベッカ様の言う通り不相応です。そこを無視してロバート様に迫っても迷惑にしかなりません。それくらいは私にも分かります。ただ、ロバート様は生徒会のメンバーとして私を欲してくれました。それはもしかしたら、レベッカ様の指導の行き過ぎを危惧してのことで私の能力とは関係ないのかもしれません。でも役割を求められたら、私は可能な限りそれに応えたいです。生徒会以外のことでもです。全力でロバート様を助けたい。それだけはレベッカ様に止められたくありません。それが私の正直な気持ちです」
「ふざけたことをべらべらと……このおぅ!」
レベッカは怒りと恥が合わさった般若のような表情を浮かべ、右手を平にして振り上げる。エイダは目を瞑って歯を食い縛る。エイダはレベッカの直接的な暴力をその身に受けることを覚悟した。殺されたり体の一部を欠損させらるようなことは隠蔽体質のレベッカとしてあり得ないと分かりきっていたし、万が一に怪我をしてもレベッカが自身の治癒魔法で治してしまうだろう。だったらここは耐える他ない。一生の後悔より、一時の痛みの方が遥かにマシだから。
しかし、予期した痛みはやってこない。つま先に体重を乗せて両手まで握りしめて待ち構えているのに。ついに恐る恐る目を開くと、レベッカは右手を振りかぶった状態で硬直していた。
それは第三者の魔法によって神経伝達を阻害されているという風ではなかった。レベッカ自身が、何かしらの精神的なセーブをかけている様子だった。エイダが目を開いても苦々しく歯軋りをするだけで、平手は振り下ろされない。エイダは呆気にとられる。すると少しして、取り巻きの1人が走ってやってきた。そしてレベッカに、生徒会役員が彼女を探しているようにうろうろしている、と告げた。レベッカは取り巻きの方に振り返り、まるで救われたように体の緊張を解いて手を下ろした。そして息を1つ吐いてから、またエイダの顔を見た。いろいろな感情がごちゃごちゃと入り交じった、まさに南方曼陀羅のような表情を浮かべていた。
「いい? 書記への就任の件はちゃんと断るのよ。また確認させてもらうからね」
レベッカはいかにも小者な捨て台詞を吐いてから、取り巻きと共に立ち去っていった。
エイダは事態を理解するのに数分を要した。いや、レベッカがその高々と掲げた平手を振るわなかった真意を看破できたわけではない。正確を期するなら、呑み込むことができたのだ。天上の身分・立場の人間に対して、肉体的に損なわれることなく自分の意志を通すことができた奇跡を。それは彼女の体内にあるケミストリーを発生させた。ぶくぶくと大きな泡が、腰から背中を伝って頭頂まで上っていくような感触。それはしばらく――もしかしたら日を跨いでも――収まりそうになかった。エイダはまたしても、その内的な変貌をすぐには言語化することができない。ただ、ここは私が先に明示させて頂こうと思う。
その正体は、「自信」だ。
自信とは、他者からの承認と自身が自らに向ける承認が合わさった時にはじめてかたちづくられるものだ。それはエイダにとって、ほんの幼少の時から随分と遠ざかってしまっていた体験だった。エイダはいま、その自信が良い方向へ向かうかそれとも悪い方向へ向かってしまうのか、その分水嶺に立たされているのだ。
エイダはひとまず生徒会室に向かった。その道中で、レベッカの取り巻きが言っていたであろう生徒会役員と遭遇した。それは会計のショーンだった。
ショーンは彼女に歩み寄って言った。「時間になっても現れなかったので心配しましたよ」
彼女は申し訳ない表情をつくって言った。「申し訳ございません。まだ馴れないもので、道に迷ってしまいました」
「――レベッカ様とどこかへ歩いていかれたのを見た生徒がいるのですが」
「――はい」と彼女は答えた。「生徒会のはじまるまででいいから少しお話がしたいとお誘いいただきまして、他愛のない内容でしたがとても楽しかったです。ただレベッカ様と別れた後、いま自分のいるところから1号館への行き方がよく分からなくなってしまいまして……心配をお掛けしました」
ショーンは彼女の返答の内容とその饒舌さを訝しんだが、とにかく皆さんお待ちしているので向かいましょう、と言ってエイダを生徒会へ連れていった。
生徒会室の前に到着し、ショーンがこんこんと扉を叩く。続けて、入ります、と彼が言うと、ロバートの声で、どうぞ、と返事があった。
生徒会室に入ると、両袖机にロバートが座っていて、ソファーでは男子生徒が2人向かい合うように座っていた。
ロバートがほっとした顔をして言った。「無事、合流できてよかったです」
少ししてエイダを探しに出ていたもう1人の役員が帰ってきて、改めて自己紹介の場が設けられた。最後に戻ってきた役員も含めて、彼女以外のメンバーは全員男だった。それぞれ副会長1人、会計2人、書記1人(エイダ含めると2人になる)。それは悪しきホモ・ソーシャルの……、というよりは、レベッカが女性のメンバー入りを嫌がってのことだったのだろう。だからなおのこと、エイダの書記就任の件がレベッカにとってショックだったのだ。
自己紹介が終わると、さっそく業務に移った。その業務をしながら、彼女ヘの指導も行われた。生徒会全体の業務内容をさらい、とりわけ書記としてのいろはを教示された。彼女はこまめにメモをして、分かりづらい部分はより易しい説明を求めた。けして要領がいいわけではないけれど、その前向きな姿勢は概ね役員たちから好評だった。
しかし、その前向きさがエイダの本来かと問われると、首を縦には触れない。先ほどからとめどなく溢れでる自信が、彼女をせっつくように突き動かしているのだ。
もちろん、自信の運用方法としてそれはしごく正解に近い。先ほどのレベッカとのやりとりだって、挑発的すぎたところはあれど、主人公的な強さを感じられて悪くはなかった、と私は思っている。4号館前のエイダに感じたうすら寒さも、どちらかと言えばその内的な変貌ぶりに対する驚きの面が強かった。
しかし、ここからの彼女の行動が、私はどうしても好きにはなれない。
次話は明日の20時台に投稿予定です。




