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これまで登場したキャラクターで、1番気に入っているのはディアナですかね。
基礎魔法実技の担当は、背が低く背骨も曲がりはじめている高齢の男性だった。昨日の新入生オリエンテーションでは姿を見なかった。豊かな白髪にお茶目そうな目や表情、白い口髭に大きな鼻。あれだ、アルベルト・アインシュタインと似ている。銀色だが銀とは違う鉱石を加工したピアスを着けている。なるほど、ディオンヌ先生も学生時代に優しい指導をもらったという話が容易に想像できる。当時は背骨もシャキッとしていたことだろう。
彼は重そうなトランクをプカプカと魔法で浮かせながら教卓に移動する。教卓に着くと、彼のトランクは音もたてず床に着地した。
「ええ、みなさんはじめまして。キース・マンハッタンというものです。昨日は個人的な研究発表と日程が重なってしまいオリエンテーションに参加できず申し訳ございませんでした。実はこの授業に少し遅れたのもレポート執筆に熱を入れすぎて時間を忘れかけてしまったためです。今後もこういった遅刻だったり、休講なんてことも時折あるでしょうが、是非お付き合い頂けると嬉しいです」
キース・マンハッタンと聞いて、私はピンときた。『オールウェイズ・ラブ・ユー』において、名前だけが登場したキャラクターだ。学園中の先生が尊敬する現代魔法開発のスペシャリストだと。そんな偉人に片足を突っ込んでいる人に師事できるのは、とても幸運なことだと思う。
「さて、この授業では教科書を開くことはあまりしません。何よりも体験です」
キース博士(以後そのように呼称する)はそう言うと、トランクに向かって杖を振るう。するとトランクが開き、中から貸し出し用シンプルな杖がクラスの人数分飛び出して、それぞれの机の目の前に着地した。
キース博士は説明する。「それではさっそくですが、みなさんに浮遊魔法を実践してもらいます。ハンカチを出してください」
先生の指示に従って、私たちはポケットからハンカチを取り出す。しかし男子生徒の何人かが忘れていて、博士はまたトランクからハンカチを不足分取り出して彼らに貸した。今日この授業でハンカチが必要なことは昨日の終わりHRで伝えられていたのに。いやそうでなくとも、私から――あるいは女から――してハンカチを持たずに生活することがまるで理解できない。不衛生極まりない。
博士は準備が完了したの見て、説明を続ける。「浮遊の魔法に特別な呪文はありません。杖の先端を対象に向けて、浮けと念じるだけです。そして目線の高さまで上げて維持してください。では、はじめ」
ジュディも含めクラスメイトたちは、博士の指示した通りさっそく浮遊魔法を実践する。しかし、その様相は散々なものだった。みな、ハンカチに何かしらの作用を送り出すことはできている。ただ、博士が指示した内容を再現できているクラスメイトは1人もいない。ハンカチの端がゆらゆらとしか揺れないもの、上昇するもすぐに落下してしまうもの、逆に天井まであがって張り付いてしまうもの(これはジュディだ)、多様性に富んだ失敗の数々。愛おしさを覚えるほどだ。これではまだ、私生活に活用するなんてことはできない。誰もが、最初からうまくやれるものじゃない。学園長も言った、みな同じスタートラインだ。
さて、ここでまた疑問が浮上する。実際、入学する前に魔法を予習する機会なんて幾らでも作れるものじゃないのかと。しかしながら、この世界はそれが非常に難しくなっている。なぜなら、魔法の発動に補助的役割をする杖の生産や流通を国と学園が独占しているからだ。そして、魔法初心者が杖なしで魔法を訓練するのはどれだけ優秀な人物に師事しても無謀そのものなのだ。そういった仕組みを採用しているのは、魔法の反社会的利用を防ぐという狙いがある。私たちはこれからこの貸し出し用の杖をしばらく使用し、魔法の発動に覚えができると、自身にとって相性の良い材料で製作された杖を贈呈される。私たちがすることはまずそこを目指すことなのだ。
博士はクラスの状況を見て、1つのコツを伝授する。「えー、みなさん。学園に入学仕立てでまだ比較的魔力は弱いでしょうが、少なくともこのハンカチを浮かせてキープする魔力はみなさん備えているはずです。ただ、力の使い方がよく分かっていないだけです。想像してください。杖は水を出すホースと同じです。ホースの口を摘まんで水の勢いを調整するイメージです。それを加味して、続けてみてください」
私は博士の言葉にゲーム上での説明と相違がないことを改めて確認してから、杖をハンカチに向けた。
杖を通して、ハンカチに「浮け」と念を送る。博士の言う通り、ホースから飛び出る水をイメージする。水の勢いを調節して、ハンカチにアーチを描きながら注ぎ込むイメージ。ゲーム上の演出では、それはボタンを連打して一定のゲージの中に収め続けるというものだった。その時の感覚も助けとする。そして自身の魔力とそのイメージが合致した瞬間、私のハンカチは目線の高さに一定のゆったりとした速度で上昇し、そしてトンボのような停止飛行をはじめた。
お見事、と言って、博士は私に向けて拍手をしてくれた。
私は少し安心した。先述のこともあって、杖を使って魔法を操ったのは今世ではじめてだったから、もしできなかったらどうしようと幾分不安だったのだ。とんがり帽子から遠退いてしまう。いや、ただのモブの私がここで成功できないことなんて本来は些事でしかないのだけど。
「いやぁ、授業開始10分も経たずできた生徒は何年ぶりだろうね。素晴らしい。ところで、君の名前は?」
「ホ、ホイットニー・ブリンソンです」
「ホイットニーさん、君は素晴らしいセンスをしている。自信にしなさい。みんなも、ホイットニーさんに拍手を」
パチパチパチと、みんなが私に拍手をしてくれる。まるで入学式のレベッカら代表上級生たちのように。ジュディはそのなかでも一段と甲高い音で手を鳴らしていた。私の音を聞き分けて欲しいという意思をそこに感じた。私はそれら温かい行為に対して、控えめに笑って応えることしかできなかった。
基礎魔法実技の授業が終了した段階においても、先生の指示を実現できたのは私だけだった。それでも、皆が確かな成長を感じ取れたであろう50分だった。博士は教室を歩き回り、1人1人に聞き取りをして、それぞれに合ったアドバイスを伝えていった。そのおかげもあって、ディオンヌ先生の言った楽しむを皆が実践できていた。落ち込んでいる生徒なんて1人もいない。……いや、私だけは楽しむをまるで実践できなかった。顔には出さないように努めているけれど、心の中は水溜まりに落ちた枯葉のように沈み込んでいる。私はそのことに対し、悔しさでいっぱいになった。
私は改めて、自身の宿願を成就させる必要性を痛感した。どれだけ夢のような世界で夢のような成果を上げられたとしても、私の心を蝕む構造的暴力の呪縛を晴らさなければ、それらを正面から受け止めることなんてできない。たとえ目を背けようとしても、常に視界の端にそれらが見え隠れする。レベッカからいじめを受けたエイダの記憶がまさにそれだ(そうだ、私は物理的に盗み見をすることができない以前に、彼女のいじめを直視する勇気がなかったのだ)。私はそれらを1つ1つ潰していかないといけないのだ。そのための下準備を、これから本格化させないといけない。
次話は明日の20時台に投稿予定です。




