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矢庭に質問して申し訳ないけれど、皆はゲームをするだろうか? いや、ゲームという括りで「したことがない」と回答する人類はまずいないだろう。正確に述べるなら、コンピュータゲームをするだろうか?
私はする。それもたくさん、まさに溺れてしまうくらいに。包み隠さず言えば依存症だ。そしてどちらかと言えば流浪的だ、次から次へと渡り歩くボヘミアン。ジャンルも、対象の性別も、レーティングだって不問だ。面白そうだと思ったら手を伸ばし直ちにプレイする。最近だと、1番面白かったのは「ゼルダの伝説」の最新作だ。前作もマスターピースの呼び声高かったが、その屹立としたハードルを今作でもぴょんと飛び越えてきた。まるでコントローラが手と癒合して離れてくれなくなったみたいだった。これ以上は明日以降にするべきだと分かっていても、肩から先が勝手な意志を宿して次々とスティックやボタンを弾いて物語を進めてしまう。そして私の頭の中の意志も、いつの間にかそちらに統合されて、支配される。まさに触覚が緑色に変色した蝸牛のように。私なりに病み付きを表現するとそのようになる。
さて、ゼルダについてはここでひとまず置いておく。実のところ、1番好きなジャンルはRPGではないのだ。私の最も敬愛するジャンル、それは乙女ゲームだ。乙女ゲームは私がゲームに1番求めている要素の、まさに集大成といって差し支えがないからだ。
私がゲームに1番求めているもの、それは「誠実」だ。
誠実という言葉は現在、現実においてその意味の大方が失われてしまったといって過言ではない。空虚だ。皆が皆、如何に矮小な見返りで相手からより多くを搾取するかしか考えない。1で10を得ようとすると、それはもう嘘をつく他ない。偽りが常態化する。そう、誠実と同様に、嘘という言葉の意味もある種失われたと言っていいだろう。しかし決定的に違うのは、嘘はその意味を失うことでより強力な構造を手に入れたということだ。うまい嘘に騙されること、それはもはや真実の愛と変わらない価値を持ってしまったのだ。以前、私もその大きな流れに含まれてしまっていた。
しかし、ゲームの中においてはその限りではない。そこでは現実で疾うに失われてしまった誠実を追体験することができる。10と10を交換し合う。それはとても素晴らしいことだ。相手からもらいすぎないし、渡しすぎもしない。そして息を合わせて、数字を11、12とひき上げていく。それを自身の好ましく思う異性――あるいは性愛の対象――と積み上げていく。それ以上の歓びを、私は想像することができない。私が現実で随分と昔に諦めてしまったそれが、ゲームの中ではいまでも熱く脈動している。
衆人は、それを逃げていると評するのかもしれない。現実逃避、夢見がち。でも、私はそれで構わないと思っている。言わせておけばいいのだ。むしろゲーム、いや物語は、そのための仲立でもあるのだから。
そうやって、私は今日もプレイする。テレビの電源をつけて入力を切り替えて、ゲーム機本体と端子で接続する。ゲーム機を起動しテレビにホーム画面が映ると、丁重にディスクを挿入する。音楽が流れて、ゲームタイトルが表示される。私がついさっきTSUTAYAで購入した乙女ゲーム、
『オールウェイズ・ラブ・ユー』
シンプルだけど、素敵な響きだ。
次話を本日21時台投稿します。
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