太陽がいっぱい
今シーズンに入って七回目の河川敷での投擲練習。
砲丸(5K)は10m30と今年初めて10mオーバーが出た。今年初めてどころか2020年以降、練習時では一番の距離が出た。
いい感覚がつかめた感じがするが、次回の練習でこの感覚が再現できるかどうかが問題なのだ。
「つかんだ!」
と思った感覚が、数日後の練習では全く雲散霧消しているのは今まで何度となく経験している。頭で覚えたことを我ながらあきれるほど簡単に忘れるのは年のせいか日常茶飯事だが、体で覚えたことをその体が短時間で忘れてしまうのはいかなることか、忌々しいが私にはこれが頻発するのだ。
まあ、とにかく今日砲丸は飛んだのだし、円盤(1K)も34m50と今年一番の距離が出たのだからこの幸せを喜ぼう。
練習後、満ち足りた思いで春爛漫の川岸を歩く。本流に流れ込んでいる小川の藪では一羽のウグイスが気持ちよさそうにさえずっているが、今の私を祝福してくれているようだ。
この小川に去年の春、私は転げ落ちたのだ。
あの日、いくら投げても飛ばない円盤を、今日の練習はここまでと草に置いて、私は川の本流に流れ込んでいる河川敷の中の細い流れの方に歩いて行った。
幅5mほどの川の水は澄み切って川底の砂の波紋まできれいに見えている。
鶯の声が遠くに聞こえ、もうしばらくすると蝶もこの河川敷にやってくるころで、数日前にはつばめの姿も見かけた。
草はまだ冬枯れの様相だが、もうしばらくするとクローバーやイヌノフグリが花を見せ始める頃だった。
「春風や 闘志いだきて 丘に立つ」という中学時代に教わった高浜虚子の句を私は思い出していた。
(春だなあ)
私は対岸に咲いている菜の花をデジカメで撮ろうと川岸に身を乗り出した。
その瞬間、右足が滑った。
とっさに手近な雑草をつかんだが、私の75kの体重を支えることなど想定外だった草はあっけなく抜け、勢いのついた私は草をつかんだまま土の川土手を滑り落ち、頭から小川に転げ落ちて行った。
水しぶきがガラスの破片のように砕け散ったのを鮮明に覚えている。
生まれて初めて味わった4月上旬の川の水は冷たかった。
全身ずぶぬれになった私は、水を滴らせながら滑りやすい川岸を、哀れな老犬のように四つん這いになって這い上がった。
河川敷に人の姿はなく、体中から水を滴らせ、寒さに震えている、見るも痛ましい70男の姿を人に見られることがなかったのは不幸中の幸いだった。
川に落ちたのはあれが二回目だった。
一度目は30数年前、当時住んでいた静岡県沼津市の狩野川でカヌーに乗っていた時のこと。
当時愛読していたカヌーイストの野田知佑の本に影響され、私もカヌーの川旅をしたいと思い、まずその手始めにと沼津市の広報で見た一日カヌー教室に参加した。
私の雄姿を一目見んものとやって来た、妻と幼かった娘と息子が川岸から私に声援を送ってくれていた。
パドル操作にも慣れた私が川の真ん中に差し掛かった時、突然カヌーがひっくり返り、私は頭を下に川の中でカヌーに宙づりになった。一瞬のことで何が起こったのか分からなかった私も、このままではまずいと、必死にもがいてカヌーから脱出し、インストラクターに助けられてあえぐようにして川岸にたどり着いた。
全身から川底のヘドロのにおいが立ち込めていた。
全身ずぶ濡れの私は、ヘドロの悪臭を振りまきながら、妻と子供たちと一緒に家まで歩いて帰ったものだ。
しかしあれは夏だったので川の水こそ汚れてはいたものの、冷たくはなかった。
今の今まで、4月の川に飛び込むという酔狂なことなど思いもよらないことだった。
(まあこれも川の水で禊をしたのだと考えよう)
なにせ4月の川に頭の先まで浸かったのだから、とあの時私は思ったものだ…。
今日もその小川の辺には菜の花が群生している。
去年はそのセイレーンの魅力に引き寄せられすぎたが、今年は
(落ちるなよ)
と自分に言い聞かる。
歩を進めながら北山修が作詞し、由紀さおりが歌った「初恋の丘」を我知らず口ずさむ。
「太陽がいっぱい」というフランス映画がある。
このタイトル、フランス語の原題の直訳とも言えるが、完璧な邦題だなあ。私はこれに勝る映画のタイトルを知らない。
「太陽がいっぱい」のラストシーン、完全犯罪を成しえたと、海辺のデッキチェアーに横たわり、主役のアラン・ドロンが地中海の太陽の下で、満足感に包まれてつぶやいたセリフ
「最高だ!」
も思い出す。
めったに訪れないこの恍惚のひと時に浸っていたく、私は陶然として草の中をしばらく歩き続けた。
見上げれば春の「太陽がいっぱい」だった。