お酒は僕の力持ち
今回もテーマはマスターズ陸上から離れ、私の経営していた外国語スクールが静岡県の沼津にあった時代(21年前まで)の思い出話。
「ぼく、タナカです」
タナカのナを強く発音する声で、すぐに彼と分かった。
日系二世ブラジル人のネルソン田中さんだ。
「翻訳してもらいたいから、行っていいかな」
「どうぞ、どうぞ」
「今から、すぐ行くよ」
「お待ちしてます」
その電話があったのは、午後の一時。
一週間前、やはりすぐ来ると言ったはずの田中さんが私の教室に来たのは、翌日になってからだった。
五時の時報がなった。
「やあ、元気」
すぐ、に来たわりには、ずいぶん明るく入って来るじゃないか。
今が何時か分かっているのか、こんな事だからブラジル時間などと言われるのだ、とばかりに、私はわざとらしく腕時計を見てみせるが、彼には私のほのめかしを気にする様子はまったく見られない。
「これ、僕のお父さんのナシメント(出生証明書)。翻訳してね」
私の知っている日系ブラジル人たちは、自分の両親のことを、「父」、「母」ではなく、「おとうさん」、「おかあさん」と呼ぶ。
田中さんは、家族や友人の証明書などの翻訳の依頼に、時々私の事務所にやってくる。
その度に、こちらの都合などまったくおかまいなしで(実は、私はいつだって暇を持て余しているのだが)、たどたどしい日本語で、一時間以上だべっていく。
今日は、ブラジルの正月の話になった。
ブラジルでも、日系人の家庭の正月は、日本のそれと変わりはなく、雑煮やお節が元旦の祝いの膳に並ぶそうな。
「同じよ。だって、おとうさん、おかあさん、一世だから」
「じゃあ、祝いの酒も、ピンガじゃなくて、日本酒ですか?」
ピンガとはブラジルの焼酎である。
「そう、日本酒。でも僕は飲まない。お酒は僕のチカラモチ」
「力持ち?」
「そう、お酒は僕のチカラモチ」
「どういう意味ですか、それは?」
「だって、お酒は僕のチカラモチだから」
田中さんは力持ちの意味を、取り違えているに違いないと思い
「力持ちって?」
と聞くと
「チカラモチはチカラモチよ」
ときた。
私は、手を変え品を変えして、田中さんにおけるチカラモチの意味を探ろうとしたが、ついに不得要領に終わった。
その日も、田中さんは、主語があるのに、述語がいつまで待っても出てこなかったり、意味不明の言葉に満ちた日本語で、雄弁に話し続けたあげく
「今日、僕、夜勤だから。急いでるからね」
と言って帰っていった。
奇怪な日本語を浴び続けた私は、その後ぐったりと疲れてしまった。
その後、あるブラジル人からこんな話を聞いた。
日本人は人を訪ねた際、相手の時間をつぶしてはいけないと、用件が済んだらすぐに帰ろうとする。
ブラジル人にとって、用件だけ話してすぐに辞去するということはむしろ失礼にあたる。
肝心の話が終わっても、サッカーの話や、チカラモチの話などして相手と会話を楽しんでから暇を告げるのがマナーであるそうな。
だとすれば、田中さんが、悠悠としてかつ急がず、不思議に満ちた日本語で、雄弁を振るっていくのは、私に対する心遣いであったのだ。
なお、チカラモチは依然として謎のままである。