ガラガラヘビの尻尾
マスターズ陸上はシーズンオフに入り、例年通り私は冬季練習を始めた。
屋外での投擲練習は来年3月下旬までやらず、近所の公園や室内で体づくりに励む時期だ。
そんなことで、テーマはしばらくマスターズ陸上から離れ、私の経営していた外国語スクールが静岡県の沼津にあった時代(21年前まで)の思い出話。
下記の文章中の年代は全て当時の数字である。
ブラジルの国語は、言うまでもなくポルトガル語である。
そのブラジル在住30年の日本人に、ポルトガル語を教えたことがある。
本田さんが、農業移民でブラジルに渡ったのは約30年近く前。
ブラジル南部の未開のジャングルを、夫と二人で開墾し、主に野菜を栽培していた。
最も近い隣家さえ2キロも離れており、かつ人交わりの苦手な彼女は、夫と一人娘との暮らしの中で、ブラジル人との付き合いはほとんどなかった。
自給自足に近い生活であったし、町での買物などの用事はポルトガル語に堪能な夫や娘が済ませてくれるので、ポルトガル語を話す必要もなかった。
5年ほど前に(当時)、彼女が体を少し悪くしたことと、不景気に陥っていたブラジルでは農業だけでは生活が苦しいということもあって、夫を残して、彼女は日本に出稼ぎにやって来た。
当時、私の教室の近くの水産会社に勤めていた。
いずれはブラジルに帰るのだが。60歳をとうに過ぎた夫に、いつまでもポルトガル語を頼っているようではいけない。
その日に備えて、ポルトガル語を一から勉強しようと私の教室にやって来た。
どういう訳か、彼女はブラジル人講師には教わりたくない、と言うので私が教えることになった。
当時、私はスペイン語は教えていたものの、ポルトガル語を教えるのは初めてだった。
なあに、スペイン語とポルトガル語は双子のようなものだ。スペイン語を鼻にかけて発音すればポルトガル語になるさ、とたかをくくってレッスンの日を迎えた。
その時初めて、彼女の口から、実はブラジルに三十年間住んでいた、ということを聞いた。
釈迦に説法とは、この事ではないか。ポルトガル語は全然分からないと言っていたじゃないの。
恥知らずの私もさすがにためらい、やめるのなら今のうちだと思って
「ブラジル人講師になさったら」
と再度勧めた。
彼女の答えは何故か断固としてノウだった。
こうなった上は仕方ない。
恥多き我が人生に、またもや新たな1ページを加えるのか。
私は、自分の甘さをのろいながらレッスンを始めた。
しかし、ポルトガル語は全然分からない、と言う彼女の言葉は嘘ではなかった。
その翌日から、彼女のレッスンに備えて、私も自分のスクールのブラジル人講師についてポルトガル語の勉強を始めた。
ブラジル人講師に教わった事を、次の日、彼女に教えるのだ。
市場で仕入れた魚を一匹残らず売り尽くす魚屋は少なかろうが、私は仕入れたポルトガル語を翌日には全部売り切った。
自転車操業そのものでもある薄氷踏むような日々が続いた。
1年ほど過ぎた頃、本田さんは少し体を悪くしたと言ってレッスンに来なくなった。
時々道で会う彼女は、背を丸め、足を引きずるようにして歩いていた。
私の机の中に、3cmほどの長さの、乾燥した蛇のしっぽが入っている。
本田さんが、ブラジルの彼女の畑で捕まえたガラガラヘビのしっぽである。
振るとカラカラと乾いた音を立てて鳴る。
ブラジルでは、幸運を呼ぶお守りだ、と言って私にくれた。
これは後になって知ったことだが、ガラガラヘビのしっぽはブラジルでは最強の強精剤として人口に膾炙しているそうだ。いくらくたびれている男性でも、乾燥させたガラガラヘビのしっぽをすりおろして酒なりジュースなりに入れて飲めば、たちまちにして18歳の朝がよみがえるそうな。
本田さんが私のスクールに来ていた当時、私はまだ40代だったが、ひょっとして私はさようにくたびれて見えたのだろうか。
しばらくして、人づてに、彼女は関節の病気がひどくなって工場での立ち仕事が続けられなくなり、ブラジルに帰ったと聞いた。
ジャングルの奥の畑で、夫と二人きりの生活に戻ったのだ。
三十年間の農作業を物語るように、彼女の手は分厚く、節くれだった指は太かった。農民の手であった。
百姓は大変だけど、やっぱり日本よりブラジルがいい、といつも彼女は言っていた。
一人でブラジルに残って農業を続ける夫のことを話す時は、決まって微笑みながら
「おとうさんが…」と言う人だった。
その「おとうさん」と言う言葉に、いつも私は暖かいひびきを感じたものだった。
それから20年後、広島に転居していた私の自宅に彼女の娘さんから本田さんがサンパウロで亡くなったとの知らせがあった。
ジャングルで、毒蛇に出会ったら、頭でもなく、尻尾でもなく、まず胴体を踏みつけて動きを止めることが大切だ、と本田さんは教えてくれた。
その教えを生かし、いつかガラガラ蛇と出会ったら、私もそうしようと思っている。
ガラガラ蛇対策で、彼女に聞き漏らした事が一つある。
胴体を踏んでから、その後はどうすればいいのだろう。