化けたアスリート
2023年9月、福岡でのマスターズ陸上の試合で一人の選手が化けた。
そのレースは同年からマスターズ陸上の3000m競歩を始めた妻の4回目の試合でもあった。
妻はそのレースで65歳代の部(65~69歳)の広島県新記録、中国新記録である20分06秒48の自己ベストを記録したが、レースでは2人の選手がスタート直後から飛び出した。
先頭に出たのは予想通り50歳代の部(50~54歳)の福岡県マスターズ大会記録15分49秒99保持者の54歳のHさん。
その後ろをぴったりと追走するのは55歳代の部(55~59歳)のSさん。
Sさんの最近の試合結果を見ると17分40秒台から18分台の前半で、両選手のタイムにはおよそ2分の開きがある。
3000m競歩は400mトラックを7周半するが、2分の開きということは少なくとも300m以上の差がつくということ、つまり圧倒的な力の差があるということだ。
54歳のHさんに若い選手が果敢に挑戦するならまだしも、Sさんは55歳であり、同じ県のアスリートとしてHさんとの力の差を十分に承知しての追走だ。
(オーバーペースだ)
とスタンドで観戦する私には思えた。
2周目も同じ展開が続き、1000mの通過は「5分13秒」であると場内アナウンスが告げた。単純に3倍すると3000mは15分39秒となり、HさんにとってはいつものペースだろうがSさんにとってはあまりに早すぎるだろう。
9月上旬の雲一つない炎天下、競技が行われている正午のグランドレベルの気温は35度を超えていただろう。
2000m付近でHさんはコース上に用意されたテーブルから水の入ったコップを取って頭にかけた。
Sさんはまだぴったりと後ろを追走している。
2人の距離は開くことがないまま、ラスト一周の鐘が鳴り、ペースはさらに上がった。
最後の直線100m、初めてSさんはHさんの横に出た。
2人の肩がぶつかり合うほど接近しながらのラストスパート合戦。
互いにもつれるようになりながら、最後にわずかに差し切ったのはSさんだった。
Sさん16分20秒61、 Hさん16分20秒75。
0,14秒の差は距離にして約30センチ。
3000mで普段の記録より1分以上も記録を短縮するということはまずありえないこと。
Sさんはこのレースで化けた。
2分以上の力の差がある選手についていくという「暴挙」をSさんは何故やったのか?
遠い昔の記憶が私に蘇ってきた。
高校時代、陸上部を途中で退部した私は大学に入学して、今度こそは真剣に陸上競技に取り組もうと、高校時代の短距離から心機一転、自分の適性を深く考えることもなく、今振り返ればあきれることに長距離パートに所属した。
5000mの初めてのタイムトライアルは19分台、二度目は18分をわずかに切った。
私の大学の陸上部のレベルは低くはあったが、それでも15分台の記録を持っている先輩が三人いた。
ある日、グランドからロードを一時間集団で走り、そこから帰ってくるという練習があった。
往きは京都洛北の山中に向かっていくコース、上りを苦手としていた私は途中から集団についていけず脱落した。
一時間が過ぎ、前方から集団が引き返して来た。集団から脱落したのは私だけなのが分かった。
上級生が
「お前もここで引き返していいから」
と言ったので私はこれ幸いと集団の最後尾についた。
帰りは自由走だった。
5000mで15分台のタイムを持つ先輩のひとりが飛び出した。
誰もついていかない。
往路の汚名を挽回しようという気持ちが働いたのだったろうか、チーム最弱の私は彼を追いかけて行き、やがてその背後に追いついた。
そしてその日だけ、私は走力の全く違う先輩のハイペースについて行き、やがて彼と並走し、ついに彼を振り切ってグランドに戻って来た。
あの日、私は自分の中に隠れていた私自身が知らない自分の力を発見した。
強い先輩について行くことで、未知の世界に足を踏み入れたのだ。
遅れて帰ってきた先輩が
「我慢比べに負けた」
と私に言った。
(やればできるじゃないの)
毛虫が蝶に脱皮したような、キラキラする高揚感を感じたものだ。
化けたままでいたかったのだが、私がランナーとして化けたのは20歳のそのロード練習一度きりだった。
化けた自分が信用出来なかったのか、あの日のような別次元の走りが再び私に訪れることはなく、自分がどれほどのランナーでありえたのか分からないまま、2度と化けることなく、マスターズ陸上に戻ってくるまでの約40年間、私は陸上競技から遠ざかり、それを外から眺めるだけだった。
55歳で化けたSさんは今年も化けたままでいて欲しいと思う。
妻の今年(2024年)の初戦は5月5日の福岡県マスターズ陸上選手権。
その3000m競歩でもう一度HさんとSさんのしびれるようなレースを見てみたい。
そのお化け屋敷のレースで、二人と同走する妻も化けることがあれば嬉しいのだが。
そして、同じスタジアムのフィールドで私もまた化けることが出来れば、さらに嬉しいのだが。