リンゴの木
57歳で始めたマスターズ陸上は、はや60台も過ぎ去り、今年(2023年)は15年目のシーズンに入った。
中学は1年、高校は2年、大学も2年とやめた理由はそれぞれ違いはするものの、私は陸上部を途中で三度も退部したれっきとした落ちこぼれランナーである。
その私が高齢者の範疇に含まれる年齢になった今、「ひとり部活」では15年も続いている姿は、持続力と克己心が徹底的に欠落していた若い時の自分に見せてやりたいほどだ。
その「ひとり部活」で私が円盤や砲丸を投げるのは広島市を流れる太田川のひとけのない河川敷。
約60年前、この川の下流は私の子供時代の遊び場だった。
当時一緒に遊んだ友人たちの姿はないが、70台になった今もなお、同じ川のほとりで私は一人寂しく、かつ楽しく遊んでいる。
この河川敷で全くの自己流で腕に磨きをかけ、多い時には年に6回ほど日本各地で行われるマスターズ陸上の試合に出ている。
これは「ひとり部活」と称して、嬉々として遊ぶ70台のアスリートの日常である。
2022年11月に神奈川で行われた東日本マスターズ陸上選手権を終え、11月は例年通り完全休養した。完全休養とはいえ運動して汗を流すことが長年の習慣となっているので週に三回、ルームサイクルを一時間こぐことだけは続けてきた。
暖房をつけ、手袋をし、ウインドブレーカーを着込んで1時間自転車をこぐと
冬でも約1キロ汗を流すことができ、寒い時期にあってもビールをうまく飲めるという副産物もある。
しかしダンベルなどを使った筋トレなどを止めると、一週間で筋肉がしぼんだことがはっきりと分かり、一ヶ月を過ぎると確かにあったはずの胸や腕の筋肉がまるで蠟が溶けるように消えてしまう。風呂上がり鏡に映った自分の姿を見るとあたかも冬枯れの枯野を見ているような寂寥感に襲われ目をそらしたくなる。
一方、一か月の完全休養で良い事もあった。
10月までは絶えずあった首、肩、腕のコリと痛み、体の深いところに感じていた慢性的な疲労感が消え去り、久しぶりにフレッシュな体を感じた。
12月から今年(2023年)3月までの4ヵ月は屋外で砲丸や円盤を投げることはせず、もっぱら室内と庭で体作りに充ててきた。
いわゆる冬季練習というやつだ。
今回の冬季練習は円盤の飛距離を生み出す決め手になるバネのある強靭な下半身を作ることを主眼にし、強いだけでなく切れのあるシャープな動きが出来る体を作ることを主眼に置いてきた。
ある時、ふと思いつい後ろ向きでの走りをやってみた。
公園でやるには人目があって何となく気恥ずかしいので庭でやるのだが、狭い庭なので走るのは10歩ほどだ。
後ろ向きに走ることなど50年ほどやらされたことがなかった私の足は大いに驚き、もつれそうになり、私は危うく後ろ向きにひっくり返りそうになった。
(君子危うきに近寄らず)とまず歩くことから始めることにした。10歩後ろに歩いては元に戻り、また後ろ向きに進む、それを10回ほど繰り返した。
三日ほどすると慣れて来て、一週間目には後ろ向きの走りでスムーズに足がさばけるようになってきた。
今まで前に押し出すことしか知らなかったつま先が、後ろに押し出すことを覚えた。
後ろ向き走の効用をネットで検索してみると、フランスのスポーツ科学者であるヤン・ル・ムール氏は以下3つを挙げている。
そのまま引用すると
1)怪我の確率を減らす
2)筋肉の機能性を高める
3)代謝を高める
ムール氏によれば、前向き走と逆方向への動きを行うことによって下半身の関節への負荷を減らすと同時に、小刻みで速いステップを習得することでスピードと瞬発力を高めるとのこと。さらに前向き走と同等、あるいは低い強度と反復回数であっても後ろ向き走のエネルギー消費量は大きく、代謝能力を高めることに繋がるそうな。
いいことばかりではないか。
50年間後ろ向きに走ったことがなかった私の足に、一週間で新しい神経回路が出来たことになる。
大げさに言えば今まで私が知らなかった、あるいは子供の時にはあったものの長いこと忘れていた感覚を下半身に感じた。春が再び戻って来たかのようだ。
私の体には18世紀のアメリカ大陸さながら未開の地がまだ残されていたのだ。フロンティアスピリットをもってこの荒野に乗り出せば。50代、60台で投げた円盤より71歳で投げる今年の円盤がさらに遠くへ飛んでいきそうな、71歳で自己新記録が出せそうな、自分をアッと驚かせることが出来そうな予感を感じている。
作家の開高健は色紙を求められるとしばしば次の言葉を書いたそうな。
明日世界が
滅びるとしても
今日、あなたは
リンゴの木を植える
私も2023年のシーズンに向けて、今日、リンゴの木を植える