第5話 妖狐の王
銀狼王スーラは、軽やかだが力強い足取りで森の中を進む。
王種同士の争いなどめったに起きないが、銀狼王スーラの魔力の支配力に陰りが見えたことを周囲の王種は見逃さなかった。
支配域が増えれば王種として力も増す。
『より強く』
魔獣の本能がスーラの内で囁く。
だが、既に魔獣の本能や他の王種のことなど興味はなく、エルマという正体不明のなにかに触られてから、己の内を巡る魔力は心地よく流れており、その流れを感じることに集中していた。
その魔力の流れは四肢にかつて無い力を与えており、既に他の王種が同格とは思えないほどだった。
物質体に宿る魔力量には1つの限界があり、魔力を多く取り込むためには、魔獣は巨大化していくしかない。
魔獣が王種という因子を得るために、10mを超える巨体が必要なのはそのため。
言い換えれば、魔力の総量で魔獣はランクが決まるということ。
銀狼王スーラの体長は15mをわずかに超えるほどで、王種というカテゴリの中では中クラス程度だったが、今の銀狼王スーラの身中を流れる魔力は王種のレベルをはるかに超えていた。
スーラは支配領域の北限近く、200mから300mはあろうかという巨木が疎らに立ち、数10mもの巨石がいくつも転がる、北の王種と幾度もの戦いを繰り広げた荒れ果てた地に立つ。
ひと際大きな巨石の上で銀狼王スーラを睨み付ける、3本の尾を持つ妖弧属の王種。
およそ、100mほどの距離を置いて相対する2頭の王。
王の後方には眷族が従い、付近には周辺に生息する魔獣たちがさまざまな思惑を胸にこの戦いを見守る。
妖弧オニキステイルが更に特殊変異を起こした個体。
漆黒の身体、紅く染まった頭部と3本もの尾を持つ炎狐王イグニス・レッドテイル。
固体名はハギノヒ、人からはレッドテイル、炎孤王と呼ばれ恐れられる狡猾なる王種。
銀狼王スーラとほぼ同等の体躯、僅かに若い固体であり、支配域を巡り幾度と無く争ってきた。
20年ぶりの邂逅。
炎孤王ハギノヒは勝利を疑わず、支配域の拡大で得られる魔力を想像し、涎をたらさんばかりに舌なめずりをする。
自信の源は20年の間に得た新たなる力。3本目の尾、マギテイル。
妖弧属は力を得るたびに新たなる尾を得ていく性質があり、かつて最強と謳われた神話の妖弧は九本の尾を持つという。
まだ2本の尾しかなかった20年前で互角だったのだ。
今は3本目の尾を得ており、更に宿敵は何があったのか弱体化している。
「クルルルル」
この戦闘後に得られる対価を考えるだけで喉から笑いが漏れる。
何より、魔獣の本能は闘争。だが王種が全力で戦える相手は王種のみ。
全能力を開放して戦うことなどめったに無いのだ。
炎孤王ハギノヒは3本目の尾の力を存分に発揮する機会を狙っていた。
『より強く強大に。飢えた獣よ、本能に身を任せ闘争の渦に身を投げよ』
「クカカカカカカカカカ!」
本能の囁きに身をゆだね、炎孤王ハギノヒはひと際高く嘶くと、挨拶代わりとばかりにいくつもの風の刃を銀狼王スーラに撃ち込む。
かつて幾度と無くその身を傷つけてきた風の刃を、銀狼王スーラはかわすことも無く悠然と受ける。
ドドドドドドドドドドッ!
轟音が響き、風の刃に巻き込まれた巨木がゆっくりと倒れ、あたりを土煙が覆う。
炎孤王ハギノヒが雄叫びを上げようとしたそのとき、銀狼王スーラが何事も無かったかのように土煙の中から現れる。
銀狼王スーラは軽く跳躍した、いや、したように見えた。
瞬間、炎孤王ハギノヒの前に銀狼王スーラが現れる。
余りのスピードに炎孤王ハギノヒは反応出来ない。
スーラの左前足からの強烈な1撃を横頬に受け、すさまじい勢いで地面に叩きつけられた。
一瞬の間に立場が逆転し、巨石の上から銀狼王スーラが炎孤王ハギノヒを見下ろす。
屈辱に塗れ、すさまじい怒りを表し炎孤王ハギノヒは立ち上がる。
炎孤王ハギノヒは銀狼王スーラを見下していた。王種の因子は力をもたらす。すなわち変化を。
妖狐であれば尾の増加。それは自身の魔力の総量を大幅に増やす魔力の塊。
王種の因子として現れた尾の属性は炎、狐火を操る能力。
その力は炎孤王ハギノヒの外見にも変化をもたらし、頭部と尾を朱に染めた。
銀狼王スーラはどうだ。
王種の因子を得たにも関わらず、外見に変化がないではないか。
つまり銀狼王スーラが得た力は肉体強化か眷属強化であろう。
魔獣の強さは魔力量に比例する。肉体強化では魔力量は変化せず、眷属強化だとしても、効果がある程の眷属を従えているわけではない。
より多くの魔力をその身に宿したものこそ強者、それが魔獣の理。
3本目の尾を得た炎孤王ハギノヒは、銀狼王スーラを力の獲得に失敗した愚かな王種と考えていた。
『魔力量は絶対』
そう囁く本能に身を任せ、炎孤王ハギノヒは怒りの感情を燃え上がらせる。
銀狼王スーラは炎孤王ハギノヒを見下ろす。
妖狐の王種は確かに強くなった。
その力をもたらしたのは凄まじい魔力の奔流を感じる、あの3本目の尾であろう。
かつて銀狼王スーラは王種の因子を得た際に、肉体強化を強く望んだ。
いや、生まれ落ちた時より強い肉体を望んできた。
最後の仔として生まれたその身は、か弱く、兄姉に大きく劣っていた。
そして、母の庇護を失ってすぐに、群れからも追い出される。
腐肉と骨を喰らい、ゴブリンすら避けて必死に生きてきた日々。
銀狼王スーラの群れは、弱き狼が寄り添い集った寄せ集めの群れ。
常に強大な魔獣に追われ、時に弱き群の中でリーダーの座を争う日々を生き抜き、スーラは王となった。
王種の因子は銀狼王スーラに望んだ力を与えたが、魔力量は王種としてギリギリのレベルに留まっていた。
だが。
弱き存在ゆえに魔力を練り束ねる魔力精錬を学び、常に周囲を警戒し生きる日々は強力な魔力操作を鍛え上げた。
そして王種の因子たる肉体強化は、エルマに与えられた魔力経路の強化を受け止める器として、十分なものであった。
『解放せよ委ねよ。知るが良い本能の渇きを。解き放ち血の海に立て!』
スーラは己の内から湧き出るどす黒い本能を抑え込み、炎孤王ハギノヒを見る。
炎孤王ハギノヒは怒りに打ち震え、銀狼王スーラを睨みつけている。
「クォオオオオオーーン」
大きく嘶くと10数個の狐火を自身の周囲に出現させた。
狐火による魔力障壁。
銀狼王スーラの一撃は、炎孤王ハギノヒのプライドを大きく傷つけていたのだ。
そして前足に風の刃をまとわせるやいなや、銀狼王スーラにとびかかる。
銀狼王スーラは、炎孤王ハギノヒの風刃爪を巨石や巨木の間を縦横に跳躍して躱していくが、銀狼王スーラが空中に逃れた瞬間を、炎孤王ハギノヒは見逃さなかった。
炎孤王ハギノヒ最強の風刃、巨大な10mはあろうかという巨大な風刃に狐火を乗せ、空中にあって身動きが取れない銀狼王スーラに向かって放つ。
そしてさらにもう一刃の風の刃を放ち、十字の炎刃として叩きつける。
「クカカカッ」
炎孤王ハギノヒは完全なタイミングでの、回避不能な渾身の一撃に昏い笑いを発する。
だが、銀狼王スーラは巨大な十字の炎刃にも臆さず、前面に魔力障壁を発生させると空を蹴り、十字の風刃に飛び込んでいく。
障壁は炎孤王ハギノヒの全力の炎刃とぶつかり弾き飛ばすものの、すべて防ぐことができず、炎刃の破片が銀狼王スーラの身体を切り裂いていくが、意にも介さない。
炎孤王ハギノヒは、あり得ない空中での跳躍を行った銀狼王スーラに驚くが、放った炎刃が銀狼王スーラを切り裂いたことに歓喜の意識を向ける。
しかし、切り裂かれたのは毛皮一枚、体内を巡る魔力の流れは炎孤王ハギノヒの炎刃の破片をたやすく弾き、ダメージは無いに等しい。
銀狼王スーラはさらに空を蹴り、炎孤王ハギノヒの喉元めがけて飛び掛かる。
反射的に右足を前に出した炎孤王ハギノヒ。
喉への一撃を回避したが、その代償は大きく、右足を食い千切られる。
炎孤王ハギノヒは大きく距離を取り、狐火で右足を焼き、血を止める。
歯が砕けんばかりに歯噛みするが、右足の痛みと肉の焼ける匂いは、炎孤王ハギノヒに冷静さを取り戻させた。
怒りと屈辱を飲み込み、濁った眼は冷静さを取り戻していく。
認めよう。銀狼王スーラは強い。
今の我よりも。だが、負けぬ!
その強き意志とともに炎孤王ハギノヒは大きく息を吸い込み、銀狼王スーラを見つめる。
「クカカッ!よかろう。わが覚悟を見せよう!」
小手先の技では銀狼王スーラには届かぬ。
大技は躱されるかもしれなかったが、何故か銀狼王スーラはすべての攻撃を回避しない。
おそらく銀狼王スーラも力を試したいのだ。
そう看破した炎孤王ハギノヒ。
「ゥオオイオオオオオオオオッ」
大きく雄たけびを上げ、炎孤王ハギノヒは己の尾を噛み千切る。
力の象徴であり、誇りの源たるマギテイルを。
それは炎孤王ハギノヒの覚悟。
求めるものはプライドではなく、力。
食い千切られた尾は、凄まじいまでの魔力を放出し始める。
巨大な魔力の塊たるマギテイルを触媒に、炎孤王ハギノヒは自身の力を超えた強大な魔法を放つ。