第3話 銀色の狼
エルマが集めた枯葉を敷き詰めた、苔の大地。
魔界でアイリスに生きる勇気を与えた赤子ディーン。その魂で出来た、白い宝石を胸に抱きしめて丸くなって眠るアイリス。
この2日ほど、アイリスは深く眠って過ごしていた。
次元転移のダメージはあまりに深く、魔界の住人であり、精神生命体たるエルマとヴァルでは物質体を治療する知識に乏しく、いまだアイリスの身体は癒えていない。
ヴァルは、周囲の魔力をわずかずつ吸い上げながら、起こさぬように、そっとアイリスの魔力の流れをコントロール、同時に、アイリスを中心とした空間を、魔力で満たしている。
魔界の環境に曝されたアイリスの身体を、物質界の環境に徐々に慣らしていくつもりなのだろう。
眠りにつくアイリスの周りの温度や湿度などを操作し、快適な環境を作り出しながら、肉体の機能と状況を把握している。
エルマは、アイリスを見つめる。
精神生命体たる自身に比べ、余りに脆い物質生命体。
身体に大きなダメージを受けたアイリスは、更に儚く脆く、か弱い存在。
ほんの僅かに、運命の天秤が傾くだけで死んでしまうであろう。
だがエルマは知っている。アイリスの強さは肉体ではなく、意志にあることを。
ヴァルは片目をあけアイリスを見守っている。
エルマはそっと枝……手をアイリスの銀の髪に沿わせ、優しく、くしけずる
不滅のエルマとヴァルにとって、物質体の寿命などほんの一瞬のこと。
だがその僅かな一瞬を輝き、生きようと抗う魂。
その輝きは、エルマに初めてといっていいほどの衝撃と感動を与え、色のなかったエルマの生を一変させた。
故に、アイリスを救い、力を貸すと決めた。
エルマは、アイリスをしばらく見つめた後、あたりを見渡すと、うろうろと周辺を歩き始めた。
アイリスと赤子の魂に触れたこと、ヴァルからの情報、魔界で死んだ人々の魂の残滓から得た情報の断片、それらにより物質界をおぼろげに理解し始めていたが、エルマにとって初めての物質界であり、すべてが新鮮で光り輝いて見えていた。
きょろきょろしながら辺りを徘徊し、木や岩や大地を触り物質界を満喫。
小さな虫や草や花に触れ、ときに体に乗せて遊ぶ。
そして木に登ると空を見つめ流れる雲を追い、風に乗り、匂いに触れ、太陽が沈むことに驚き、魔界に似た夜に安堵し、3つの月を見つめ、再び昇る太陽に焦り、自分の影を追いかける。
綺麗な石を見つけると切株の身体に開いたうろに大事にしまう。
静謐な空間を、緩やかに時が過ぎていく。
エルマは身体を色々動かし、身体の操作を確認する。腕を前から上げて大きく背伸びの運動、さん、はい!
突如ヴァルが警告を発する。
「エルマ」
「おう」
エルマはすでにアイリスのもとに駆け寄っている。
「アイリス、起きてください」
ヴァルは寝ていたアイリスを起こす。
「ん、どうしましたか、ヴァル」
アイリスはよろよろと身を起こす。
エルマは手を突きながらようやく身体を支えているアイリスを庇う様に前に立つ。
ヴァルはアイリスの肩に止まり森を見つめる。
「何者かは不明ですが、敵意を持ったものが近づいております。
巨大な存在と同質の小型の存在が多数。何らかの群れのようですな」
エルマが腕を回していたが、違和感を覚えたのか首をかしげる。
「んー、ヴァル」
「はい。エルマ」
エルマは少し萎れている。
「もしかして魔素を使えないって事は、だ。武器を生み出したり、力をぶつけたり、できないのか?」
ヴァルも首をかしげる。
「それはそうでございますな」
エルマは腕を組んで首をかしげる。
「魔力ってやつで同じことをやれるのか?」
ヴァルも羽根を組んで首をかしげる。
「おそらくですが可能かと」
「どうやるんだ?」
「さて?」
「だよな」
「ですがエルマ、あなたはすでに魔素をすべて失い、魔力はほぼ空、身体を動かす程度しかありませんぞ」
エルマは振り返りニヤリとうなずく。
「その件については、なんとなく気付いている」
ヴァルは首を回す。
「エルマ、お気をつけを。儂らの依代たる物質体、これが破壊されれば、今の儂らでは新しい依代に移るにも時間がかかるかと。依代がなければこの世界で我らは無力。
再び依代を得るための魔力、これを得るには相当な時間がかかりましょうぞ」
エルマは頭をポリポリとかく。
「アイリスが生きてるうちには無理だよな」
「物質体の及ぶべくもございませぬな」
「今の俺たちってさ」
「この世界では、ただの切株とただの小動物でございますな」
「アッハッハ、勝てないか。やはり魔界とは勝手が違うなー」
エルマは腹を抱えて笑う。
ひとしきり笑うと、キリッとする。
「ヴァル、正念場だな、いざとなれば俺で吹っ飛ばす」
ヴァルがうなずく。
「承知しましたぞ」
アイリスが不安そうに声をかける。
「エルマ、ヴァル」
「心配しなくてもいいぞ、アイリス。傷などつけさせはしない。ヴァル、アイリスを頼む」
「お任せを」
エルマは左手、40cmほどの長さの枝をもぎ取り、右手に握ると何度か振る。
「よし」
満足げにつぶやく。
ヴァルは目をつぶり魔力を練り始めたが、アイリスの肩が震えていることに気付く。
「アイリス、ご心配なく。儂らにお任せを」
身体をアイリスの頬に擦りつけると、集中とともにヴァルの身体は少しずつ細くなり木の枝のようになっていく。
気配を感じさせず、音も立てず、鬱蒼と茂る深い木陰から突如、巨大な銀色の狼が出現した。
僅かに青みがかり、鈍く銀色に輝く毛並み、全長は15mを超える巨大な狼。
青く輝く双眸は感情なくアイリスを射抜く。
いつの間にか全長3mほどの銀色の狼達がアイリスたちの周囲を囲んでいる。
強大な意志の力が空間を支配し、目に見えぬ凄まじい圧力がアイリスを襲う。
「王種」
起こした上半身をよろめく手で支えながら、アイリスは巨大な狼を見てつぶやく。
王種、それはエリアを支配する特殊な因子を得た魔獣。
支配圏の魔力を吸い上げ、通常の魔獣をはるかに超える巨大な体躯と力と魔力を誇る。
ザーシュラ大森林では人による開拓が過去何度も行われてきたが、すべて支配権を持つ王種の逆鱗に触れ破滅してきた。
都市レベルの騎士団や魔術師団ではほとんど歯が立たず、討伐には国家騎士団クラスの戦力が必要なほどの力を持つ。
アイリス、エルマ、ヴァルの頭に、直接何者かの意思が流れ込む。
『人よ、ザーシェラ大森林のこの地は、銀狼が一族の地、踏み入ることは許さぬ。
今すぐ立ち去れ、さもなくば死ぬがいい』
ヴァルは青黒く染まったアイリスの四肢を見つめる。
「アイリスはまだ動かせませぬ、動かせば肉体を維持できませんぞ」
エルマはうなずくと、アイリスの1歩前に出て銀狼の王に答える。
「銀狼の王よ、我らはエルマ、ヴァル、そして我らが護りしアイリス。
我らは迷いこの地に至った。そしてアイリスは傷つき、今はこの地を動くことができない。身体が癒えるまで僅かでいい、温情を頂きたい」
「ナラヌ!」
銀狼の王の脇から、ほかの狼より大きな全長5mほどの狼が前に出で叫ぶ。
「既ニ温情ハ与エタ。スグニ噛ミ殺サヌコト、アリガタクオモエ」
そして唸りを上げ、牙を剥き出す。
エルマは頭を下げるともう1度頼む。
「そこを推して願う。アイリスに温情を」
歩み出た狼が、エルマに飛びかかろうと四肢に力が漲らせたそのとき。
アイリスはよろめき、エルマにすがりながらも、漸く立ち上がるとエルマの前に出る。
エルマは手を伸ばしアイリスを止めようとするが、アイリスの強い意志を感じ、その姿を見守る。手を伸ばしたままに。
アイリスは大きく深呼吸をすると、まっすぐに銀狼の王を見つめる。
瞬間、周囲を支配していた銀狼の王の意志力を抑え、アイリスの意志が空間を支配していく。
「僕はアイリス。いいえ、あなたは王。ならば名乗るべき名は……我は亡国カシオペア皇国が最後の皇帝、アイレイ・ライラ・ウルトゥール。カシオペア皇国第54代皇帝なる」
つい先ほどまでふらついていた身体を微塵も感じさせることなく、銀狼の王と相対する。
銀狼の王の蒼い目を臆することなく見据えると、右手を胸に当て頭を下げる。
「この地の王、銀狼の王よ。無断で王の支配地に足を踏み入れし我らに対し、大きな温情痛み入る。王の温情に縋り、我らは今すぐこの地より去ろう。
数日とはいえこの地に置いてくれたこと、感謝に絶えぬ」
「アイリス!」
「アイリス!」
エルマとヴァルが同時に叫ぶ。
アイリスは振り返り、エルマを、ヴァルを見つめて答える。
「僕はここで死ぬわけにはいかない。何があろうとも生き抜いてみせます」
アイリスは覚悟を決め爽やかに笑う。
(ああ、なんていい輝きなんだ)
エルマはアイリスの魂を見つめる。
自分に感情はないがあえて表現すれば、恍惚としているのだろう。
(ホホホ、儚いから?違いますな。良き魂でございますな)
ヴァルはアイリスの魂に直接触れ、その心地よい暖かさにうっとりとする。
そして銀狼の王も、魂の輝きを視ていた。
銀狼の王の眼は、僅かに魂を見ることのできる魔眼を宿していた。
垣間見えただけだが、眼前にあるのは3つの強大な魂。
銀狼の王が自らこの地に出向いたのは僅かな胸騒ぎ。
数日前から感じていた違和感。
この地で3人を前にして、違和感の正体に気づいた。
カシオペア皇帝なるものを名乗る少年に従う2体の魔物。
トレントの類とも異なる植物の魔物と、魔獣ですらない小鳥にしか見えない魔物。
支配者たる自分に流れ込むはずのこの地の魔力が、僅かだがこの2体の魔物に流れ込んでいる。
遠くにいた昨日の話ではなく、今も同じ量の魔力を吸い上げている。
支配者の自分をはるかに上回る、魔力への強制力。
すなわち、この2体の魔物は我よりも支配力を持つということ。
王たる我よりも……
そして皇帝を名乗る少年の存在は大きく揺らぎ、儚く脆く見えるが、魂の輝きは見たこともない、とてつもない輝き。
今にも死にそうなほどに弱っているにもかかわらず、この空間の魔力の支配を奪うほどに王としての格を見せた。
足元の銀狼が吼える。
「ナラバ出テイクガヨイ!」
そう叫ぶ銀狼を王は止めた。
「よい」
止められた銀狼は怪訝な目で王を見上げる。
銀狼の王はかつてか弱く、幾度となく生死の境を彷徨ってきた。
そのときに見た死の気配。
銀狼の王は死の気配を恐れ、逃れ、時に食い破り、生きてきた。
その死の気配は、今この場にも存在していることに銀狼の王は気付く。