第1話 帰還
しばらくは毎日更新したいと考えています。
19時前後と思いますのでよろしくお願いいたします。
ザーシェラ大森林。
広大な樹海でありながら、神々の遺産と呼ばれる極大迷宮の一つ。
魔の領域であり人類の支配を許さない、魔の理が支配する弱肉強食の世界。
その大森林の中層、苔むした大地、鬱蒼としげる樹木の隙間に、わずかにひらけた空間。
木漏れ日が優しく溢れ、苔の絨毯が柔らかく敷き詰められた、ゆっくりとした時間が流れる不思議な空間。
その空間に、アイリスは倒れ伏していた。
魔界に落とされた少年は、どのような運命をその身に定めたのか、自身の世界へ帰還を果たしていた。
アイリスは、何も身につけず、裸のまま身体をくの字に曲げ、胸に手を重ね何かを守るように倒れている。
少し長めの肩までかかるほどの銀髪、骨が浮き出るほどに痩せ衰え、白い肌は透き通りそうなほど青白いが、四肢は上腕と太ももまで青黒く染まる。
その身体には、傷やあざ、ほくろすらなく、神々が生み出した彫刻にも見えるが、眼窩は窪み、頬はこけている。
その横顔は少女にも見えるほど整い、美しい。
死者にも見えるが、長い睫毛が時折揺れ、痛みを堪えるように身体が痙攣を起こしており、生きていることが見て取れる。
アイリスの目がゆっくりと開いていく。
焦点が定まらないのか、何度も瞬く濃い藍色の眼に太陽が映る。
力が入らない身体を精一杯動かし、仰向けになると右手をゆっくりと上げ、太陽をその手に握る。
痩せ衰えた身体の中で、強い輝きを放つその目から、一筋の涙が溢れる。
「僕は……帰って来た」
胸に置いた左手を強く握り締めたアイリスは、そこにある筈の、護ると決めた大切な存在が失われていることに気づく。
魔界で託された赤子、ディーン。
ディーンを受け取ったとき、アイリスは命を懸けて守ると誓った。
慌てて辺りを見回し、立ち上がろうとするが、弱った身体に力は入らず、起こした身体ごと再び倒れ伏す。
それでもアイリスは、思うように動かない身体を動かそうと、必死に身体に力を入れる。
アイリスの身体はあり得ないほどに弱り、動いていない臓器すらあるほどだった。
生きていることが不思議なほどにダメージを受けたその身体を動かそうと、必死にもがく。
次元転移。
アイリスは、カシオペア皇国と呼ばれた大国の皇帝の末子、だが、カシオペア皇国は北の軍事国家ウルスラ帝国の侵略を受け、滅ぼされた。
アイリスの一族と親族、臣下の数万人は、物質界には存在しない根源たる魔素、強大なエネルギーを魔界から物質界に流し込むために、魔界へ生贄として捧げられた。
そして如何なる運命の元にあるのか、アイリスは再び元の世界に戻って来た。
だが、その代償は大きく、命は限界まで削り取られ、アイリスは、今にも消えそうなほど儚い存在となっていた。
アイリスは近くにあった木に這い寄ると上半身を起こし、幹に持たれかかると、息を整えて立ち上がろうと木にすがる。
「ヴァル!これはやばい!やばいぞーーー!」
「確かにこれはまずい!まずいですぞエルマ!」
そこに大騒ぎしながら飛び込んできたのは、四肢にも見える枝と根を持った、動く切株と、小さなフクロウだった。
切株がフクロウに叫ぶ。
「ヴァル!アイリスが気付いている!頼む!俺はディーンの魂を何とかする!」
「承知でございますぞ!エルマ、アイリスはお任せくだされ!」
切株は、そのフクロウをヴァルと呼び、アイリスを託すと手に持った輝きを抱え込む。
ヴァルと呼ばれたフクロウが、アイリスの肩に止まるとその身体がうっすらと光り出す。
徐々に、アイリスの身体にその光が移り、全身が覆われていく。
光とともにアイリスの身体に力が戻り、体の傷が癒され、意志の力が四肢に満ちていく。
だが、アイリスは自身の身体など気にも留めず、よろよろと切株に近づき、エルマと呼ばれた切株が手にしている、小さな光を見つめる。
アイリスは、不思議なことに、その光が魔界で必ず助けると誓った赤子だと気づいていた。
今にも消えそうなわずかな光、揺らぎながら、か細くなっていく光を抱え込む切株。
切株、エルマは、針のような光の筋や霧のような光、渦巻く光、漆黒の筋などを次々と出現させ、消えゆくわずかな光にアクセスしていく。
切株の身体が、バキバキと音を立て割れ始める。
思わず手を出そうとするアイリスを、ヴァルが止める。
「お待ちくだされ。手出しは無用でございますぞ」
そしてヴァルはつぶやく。
アイリスに向かってと言うより自分に向かって。
「この世界は、魔素にて在る世界。根源たる魔素。最小であり、万物の素であり、絶対の理。その絶対の外側にある存在」
ヴァルは言葉を区切り、感慨深げに切株に目を向ける。
「それが魂」
ヴァルは首を傾げ、大げさに羽を広げる。
「魔素ではなく、魔素を構成するなにか、そのなにかで直接構成されたもの、魂。
魔素と魂は、同質の存在でありながら全く異なる存在。
すなわち魂とはこの世界で生み出されたものではございませぬ」
ヴァルは、顔を切株に向けたまま身体を回し始める。
「故に、儂には手が出せませぬ。神々であろうと不可能な秘儀が、今ここにあります。なんと素晴らしいことか。ですが、おそらく、世界の禁忌に触れるものでありましょう。儂らは、神罰を受けるやもしれませぬ。御覚悟を」
アイリスは、肩に乗ったフクロウ、ヴァルを見つめて答える。
「はい、もとより覚悟は済んでいます。ですが、よいのですか?これはつまり、世界の理に逆らうということなのでしょう」
「ホホホ、儂らは、アイリス。貴方を助けると決めました。世界であろうと、神々であろうと、理であろうと、ですぞ」
「ありがとう」
アイリスはヴァルに感謝する。
(僕はそれに値するのでしょうか)
アイリスは声に出さず思う。
「でも、エルマとヴァル、あなたたちは何者なんですか?この世界の理に無い操作を行っている。エルマとはいったい」
「ホホホ、何者でしょうな」
切株、エルマは抱え込んだ光を観察する。アイリスが救おうとした赤子だったもの。
か弱き存在である物質体、産まれたばかりの赤子への次元転移のダメージはすさまじく、肉体は失われ、器は半壊、魂そのものにもダメージが及ぶ。
このままであれば魂は崩壊し、死よりも恐ろしい虚無に囚われよう。
魂の崩壊、それは何よりも避けるべき事象、それこそが禁忌。
エルマの本質はそう告げていた。
この生命体の肉体は未熟な赤子ゆえ、再構成に耐えられなかった。
だが無垢たる赤子ゆえに、魂は救えるとエルマは考える。
幾重にも重なる光と闇。
中心にある大きな光の塊が魂、外周部で破れ、砕け、バラバラになりながらも、その光を守っているものは器であろうか。
物質体。
魂は、この世界に存在するための情報を器と呼ばれる容器に書き込まれて、この世界に生み出される。
そして器の情報をもとに、肉体という殻が作られ、殻で魂を包むことで、ようやく生命として成り立つ。
次元を越えたことによるダメージは大きく、中心部は幾筋もの亀裂が入り、割れんばかりだが、ギリギリ無事の様子とみる。
だが、外周、器は欠損が激しく、形を保っているのが奇跡と思えるほど。
エルマは、器を魔素に分解すると、この世界で最小の存在である魔素を、更に解き解していく。
解かれた魔素は、見ることも感じることもできないが、エルマは事もなげに扱い、魂の欠損を補充、修復していく。
世界の理に無い魔素を超える操作、それは完全な状態でのエルマでも不可能な御業。
なぜ出来るのかは理解できていないが、やると決めた。
この世界に渡るときに、ほぼすべての魔素を使い果していたが、わずかに残った魔素を惜しむことなく分解し注ぎこんでいく。
魂の改変は世界の禁忌、だが魂の存続のために行う修復であればギリギリの線か……
(一線を越えれば世界ごと抹消されそうだなーコレ。やってみたいけど。ダメだって。いやしかし!)
「ホホホ。エルマ、今何か悪いことを考えておりましたな」
ビクッ!
「ヴァル!魔素が足りない!」
エルマは、ごまかすようにヴァルを呼ぶ。
「ホホホ」
ヴァルはエルマに飛び移り、魔素を分け与えていく。
器の還元、そしてエルマとヴァルが残していた僅かな魔素だけでは足りず、2人は自身の存在を削り始める。
それは彼らが蓄積してきた巨大なデータであり、彼らそのものであった。
いつしか、光は白い半透明の結晶に包まれ、そして静かに輝きを失っていった。
どさり
パタリ
切株とフクロウが、その場に倒れ伏す。
「あ、あぶないとこだったぜ」
「ホホホ、な、なんとかなりましたな」
倒れた切株、エルマがアイリスに差し出した枝の先に、白色の半透明の宝石が握られていた。
アイリスがその宝石を受け取ると、それはほのかに暖かく、かすかに脈動し、命を主張しているようだった。
エルマは転がったままで、宝石を抱きしめ涙ぐむアイリスに声をかける。
「魂だけになったけど救えた。今はこれが精一杯だぜ」
「ホホホ。ですが、物質体としての情報をもつ器が失われました。この魂は、世界に生まれるための殻、すなわち肉体が作れませぬ。器の再生は我らにとっても困難。これは少々時間がかかりますな」
「はい、ありがとう。エルマ、ヴァル。救えた。今はそれだけで十分です」
アイリスは涙を止めることなく、宝石にぬくもりを感じながらやさしく抱きしめ続ける。