第98話 エメラルド辺境伯
ザーランド王国の北部の国境付近、ギダンは独りで3頭の大型の走竜を走らせていた。
後ろを走る走竜2頭に積んだ荷の中に隠した、鮮やかな緑に染め抜かれた反物をポンダルト伯爵領で見られるわけにはいかず、大きく迂回して王都に直走る。
いったん北上し、エメラルド辺境伯領に出てから、険しい山岳地帯の北方街道を東進しており、王都まで通常の3倍の日数がかかる計算の行程だったが、少しでも早く王都につく必要があった。
ポンダルト伯爵領の中央街道を東進する場合は、平坦な平地を走ることから、およそ1200キロ、10日程度の行程だが、山岳地帯を大きく迂回する北方街道を使う場合、およそ2500キロ、40日程度の行程となる。
乗っている走竜が疲れを見せると、荷を積んでいない走竜に荷を移し、乗り換えながら昼夜を徹し街道を駆けていく。
走竜にはアイリスが作った練蜜を食べさせながら走っていたが、それでも走れなくなった走竜は途中の街で従魔ギルドに預けて走り続け、通常の半分の20日ほどで王都に到着した。
早朝、外周の城門の入門許可を待っている間、1頭だけになった走竜、疲弊し座り込んだまま動けない走竜にアイリスから渡された練蜜を食べさせ、自身もアイリスから渡された果実水を飲む。
不思議と疲れが癒され、走竜もようやく活力を取り戻したように立ち上がる。
ギダンは走竜を労り、汚れを落としながら入門の順番を待つ。
青狼ギルドの王都支所は、小さいながらも主要道路の一角に構えられている。
細長く、3階は住居を兼ねる古い建物で、それでも主要道路に面していることから家賃は高めで、住人であり支所長のエレアドの頭痛の種である。
少し垂れ気味の茶色の目と髪、髪の毛を後ろでまとめ、眼鏡をかけた学者然の優男、エレアドは、ゆったりとしたシャツとズボンを身に着け、ローブを羽織って優雅に朝のお茶を楽しもうとお湯を沸かしていたが、ドアが開く音を聞き、剣を掴むと玄関に向かう。
「ギダン?」
「おう、エレアド、入れねえんだ。助けてくれよ」
大きな荷物を背負い、入り口の扉に引っ掛って、もがいているのは誰あろう青狼旅団団長ギダンだった。
「来るって連絡は無かったろう」
エレアドはギダンの荷物を引っ張りながら確認する。
「極秘だ、それに急に決めたもんでな」
エレアドは声を潜める。
「エメラルド辺境伯か?」
ギダンはうなずき、一階の倉庫の机の上に背負った荷を下ろしてエレアドを見ると、にやりと笑い荷を広げていく。
数個のスケイルメイル、魔獣の毛皮類、厳重に梱包された荷を解くと、巻かれた厚手の布をを取り出すとギダンは布を数枚掴んでめくり、そこに隠すように挟まれていた反物をエレアドに見せる。
エレアドは驚愕しギダンと目を合わせる。
「お、おい、ギダン、これは、まさか」
美しく翡翠色に染まった反物を、エレアドの指がなぞる。
「思ったより時間がねえんだ、エレアド。エメラルド辺境伯にすぐにでも食い込みてえ。伝手は使えるか?」
「商人に流して、針に食いつくのを待つ時間はないってことか。それほどにレイセア、伯爵領はやばいのか。王都じゃ逆にそこまでの機微は掴めないな」
エレアドは右手であごを触りながら反物を見つめ、しばらく考え込んでいたがうなずいてギダンを見る。
「フォレストボアの毛皮を出した商人、アレンナ商会のバザーの誘いを数回受けている。そこに席を確保出来るかもしれん」
「アレンナ商会?エメラルド辺境伯の商隊襲撃を受けた商会だな。調査依頼を受けた甲斐があったぜ。なるほど。夫人は来るか?」
「このところは毎回顔を出しているな。だが俺たちはポンダルトの支配下だ。警戒されるのは間違いないぞ」
ギダンはほっとため息をついて、エレアドの肩を叩く。
「この布が目にさえ留まればなんとかなるはずだ」
「確かにこれほどの緑は見たことは無いが、どうやったギダン?」
「それも含めて意識合わせだ、エレアド、しばらくは忙しくなるぜ」
ギダンは疲れを見せずエレアドと王都での動きを話し合う。
その日の午後、アレンナ商会の副会頭の1人、ジエイラは商会の自室で一枚の申請書を眺めていた。
中肉中背で良い仕立てのシャツとズボン、髪も短く切りそろえて商人らしく清潔感を見せる。
商会主催のバザーへの参加申請。紹介状もあり参加資格は十分に満たしている。
申請内容は鎧などの防具類、魔獣の毛皮など素材類、反物など。
商会が派遣した商隊襲撃の件について調査依頼をこなした縁から、幾度か取引を行っている。
殊に、白い猪の毛皮、しかもフォレストボアのものであり、質も程度も最高級品と言っていい商品の取引があった青狼ギルドからの申請書であり、商会からもバザーの参加について幾度か打診を行っている。
青狼ギルドとの取引は非常に満足が行くものだったが、ジエイラは引き出しから青狼ギルドと青狼旅団の調査書を取り出し、詳細に見ていく。
ひいきにしてくれるエメラルド辺境伯と犬猿の仲のポンダルト伯爵領の傭兵団の申請、ポンダルト伯爵との取引も当然あるが、慎重にならざるを得ない。
報告書には、青狼旅団は獣人を嫌うポンダルト伯爵領下で非常に厳しい立場にあり、エメラルド辺境伯とのつながりを欲している可能性が言及されている。
だが、罠の可能性もあり、ジエイラは断る気でいたが、報告書の補足にふと目を止める。
今、王都の最大の話題、巨大な大角猪、王国権利品を討伐した可能性があると書かれたその補足を見て、ジエイラはつばを飲み込む。
しばらく考え込んでいたジエイラは報告書と申請書を掴み、会頭の元へ向かう。
そこで次回のバザーは警備が増やされ、青狼の席は目立たない片隅に置かれることが決定され、エメラルド辺境伯家にも報告が入れられる。
エメラルド家の王都屋敷、その広大な庭を眺め、庭先で揃いの緑色の服を着る壮年の男性と初老の女性が優雅にお茶を楽しんでいた。
緑のローブをゆったりと腰帯で締め、痩せているが引き締まった身体と芯が通った背筋から、武人であることが見て取れる。
薄くなりかけた髪を後ろに流し、肩ほどで切揃え、口髭とあご髭は尖らせて整えられている。
向かいの婦人を優しく見つめる眼は、エメラルドの様な美しい翡翠色。
武人の男性はエメラルド辺境伯その人である。
婦人はエメラルド辺境伯夫人、マリアンヌ夫人。白のシャツに足首までの緑のフレアスカートという質素な服装だが、時折、服に流れる光から上質な素材で仕立てられていることが見て取れる。
小柄で痩せているが血色良く、緩く編んだ金色の長い髪を肩から前に流し、楽しそうに、最近あった王都の話題をエメラルド辺境伯に話している。
家宰がエメラルド辺境伯の後ろにそっと近寄り、耳打ちをする。
エメラルド辺境伯の眉がわずかにひそめられ、じろりと家宰を一瞥する。
「殿様、どうされました?」
マリアンヌ伯爵夫人が首をかしげ微笑みながら、エメラルド辺境伯を見つめている。
「無粋よ。コリンめ、仕事の話を持ち込みよったわ」
コリンと呼ばれた家宰はマリアンヌ伯爵夫人に頭を下げる。
「すまんな、マリアンヌ。ちと仕事じゃ。続きは夕食のときにでも聞こうか」
「約束ですよ」
マリアンヌ伯爵夫人は優しく微笑み、エメラルド辺境伯は申し訳なさそうに、あご髭をしごく。
執務室に入ったエメラルド辺境伯は、家宰コリンから書類を受け取ると、目を通していく。
「青狼旅団、だと?」
「は、次回のアレンナ商会のバザー。奥様の参加、取りやめることはできないでしょうか」
「あれが楽しみにしているバザーだぞ。儂に止められるものか」
「ではアレンナ商会に参加を拒否するよう、申し伝えましょう」
書類に目を通していたエメラルド辺境伯は、あご髭をしごきながらしばらく考え込む。
「50年ぶりの大角猪を討伐したと思われる傭兵団か。アレンナ商会も乗り遅れたくは無かろうな。影警護を増やせ。それでよい」
「よろしいのですか」
「商人は利を取るものじゃ。押さえつければいつか我らに跳ね返ろう。ここは恩を売るべきじゃな。それに、単なるバザーへの出店であろう、そう警戒するものでもあるまい」
家宰コリンは恭しく頭を下げると執務室から出ていく。