第8話 穏やかな日々
王種たちを退け、つかの間の平和が訪れた銀狼王スーラの支配域。
アイリスの身体は癒えつつあったが、いまだ体力は少なく、起きているわずかな時間を魔力操作の習得にあて、疲れては眠る日々。だが安らかな日々。
アイリスの1日は、木の実、薬草、魔獣の肉、花の蜜などをヴァルが魔力で練り合わせたものを食べることから始まり、エルマと魔力操作を身につけるための運動を行い、身体を整える。
その食べ物はアイリスの一族に受け継がれている食べ物、『蜜練』に似ていると漏らしたことから、ヴァルは『蜜練』と呼ぶようになった。
その後、ヴァルの指導による魔力操作を座学で学び、疲れるとシーザーの懐で、時にスーラに抱かれて眠り、目覚めると『蜜練』を食べ、体操と座学を繰り返していく。
そんな穏やかな、平和な日々は、2週間ほど続いていた。
アイリスはスーラの前脚にもたれかかり、シーザーに集めてきてもらった草花や花冠、エルマの蔦などを編み、花飾りを作っている。
ヴァルによる肉体の修復も終わり、四肢にあった青黒さはすっかり収まり指先まできれいな白い肌を取り戻していた。
ヴァルの助言もあり、様々な草花を編み込みながら、1つの魔力の流れが生まれるよう魔力の流れも組み込んでいく。
アイリスはふと、なぜ自分は花を編むようになったのか、思い出そうと編んでいた手を止める。
しかし、思い出すことができず、言い知れない不安に押しつぶされそうになったアイリスは必死に記憶の糸を手繰ろうとするが、記憶は空虚のまま。
アイリスの魔力操作がおろそかになり、身体の機能がすべて低下していく。
花飾りを持つ指から力が失われ、花飾りが地面に落ちると、白かった指先は少しずつ先端から青黒く染まっていく。
「むっ」
肩に乗っていたヴァルは異変を察知し、素早くアイリスの魔力の流れを整えていく。
アイリスは右手で胸を押さえながら左手でスーラの前脚を強く抱きかかえる。
エルマが花飾りを拾い、アイリスの手に戻しながら顔を覗き込む。
「大丈夫か?」
アイリスは、エルマの手を握り返し、弱弱しく微笑みを返す。
「なぜ花飾りを作れるのか、思い出せないんです。一緒に編んでいた母様の顔もおぼろげです。僕の思い出はまるで虫食いの本の様。エルマ、ヴァル、これはいったい」
目に涙をため、アイリスはエルマとヴァルを見る。
ヴァルが口を開こうとしたとき、アイリスは、胸の宝石が発熱し震えていることに気が付く。
アイリスが急いで宝石を袋から取り出すと、宝石はわずかに光りながら震えている。
ヴァルは静かに宝石を見つめてから、アイリスを見る。
「アイリス、貴方はその魂を救うために、自身を削り、分け与えておりますな。
魔界にて最初に魔素に分解されていくもの、それは生命として生まれた後に獲得するもの。記憶や知識、経験といったものでございます。それらが溶け込んだ魔素を赤子に分け与えていたのでしょうな」
エルマはそっと葉で宝石を撫でる。
「この魂は、アイリスの命を分け与えられたことを感謝し、自分の弱さに怒っている」
アイリスは震えながらそっと宝石を両手で包み込む。その目から涙がこぼれ落ちる。
「いいんです、君を助けると僕は誓った。君が生きていて良かった、本当に良かった」
アイリスは心底嬉しそうに宝石を握り締める。
「ディーン。君の母上、鬼人の女王イバラ姫は、そう名付けてくれと言い残して君を僕に託しました。僕は君がいたからこそ生き残れました。本当にありがとう」
宝石は一度大きく震えると静かに光を失っていった。
アイリスはまだ震える手で宝石を袋に仕舞い胸に戻す。
アイリスはほっとしたようにエルマとヴァルを見る。
「思い出を失ったことは悲しいけど良かった。この子がいなかったら、僕は魔界の地獄を耐えられませんでしたから」
へへへとアイリスが悲しみを吹き飛ばすよに笑う。
「僕はこの子に向かって王の宣誓をしたんです。もっと王様っぽく喋りたいんですけど、うまく喋れないです。魔界ではもうちょっとうまく喋れていたと思うんですけどね」
エルマは、アイリスの脇に座り散らばった草花を集めながら、その指を見る。
その指先は白さを取り戻しており、エルマは安心してアイリスの手に触れる。
「俺はこっちの喋りでいいぞ。」
ヴァルはアイリスの肩の上で顔を回している。
「ホホホ、失ったものは肉体に記憶された弱い情報のみでございます。
強い記憶は器に書き込まれていますゆえ、母君の思い出は、いつか思い出せましょう」
スーラは震えるアイリスを優しく見守る。
死に立ち向かい、前に進むアイリス。弱き存在でありながら、とても強い、矛盾した存在。
スーラはアイリスを我が子のように慈しんでいた。
日々は巡る。
「イチニッ、サンシっと。ところでさ、アイリス」
頭にヴァルを乗せて、大きく背伸びをしながらエルマがふと思いついたように、隣で同じように背伸びをするアイリスに語り掛ける。
「イチニッサンシッ、はい、なんでしょうか」
「アイリスはこれからどうするんだ?」
「これからですか」
アイリスは考え込む。
「イチニッサンシッ、イチニッサンシッ」
エルマは動きを変え、腕を振って足を曲げ伸ばしていく。
「アイリスの世界に戻ってきた。アイリスは何をしたいんだ?これからさ。まあ、そのなんだ」
「イチニッ、サンシッ」
アイリスは足を延ばしながら答えを探す。
「わかりません。僕の国を滅ぼしたウルスラ帝国。憎いという気持ちはあり、皆の仇を取りたいとも思います。でも」
「イチニッ、サンシッ」
エルマは腕を回しながらアイリスを見る。
「でも?」
「イチニッ、サンシッ」
アイリスも大きく腕を回していく。
「魔界に捧げられた皆の命を奪ったのは悪魔たちです。その仇はエルマが取ってくれました」
「おう」
「ウルスラ帝国との戦いは、世の習いでもあります。僕らは敗者でした。平和を享受し、腐敗におぼれ、政争に明け暮れ、一番大事な民を守るということすら出来なかった」
「イチニッ、サンシッ」
2人は胸を大きく反らす。
エルマが恐る恐る問う。
「復讐。とかはしないのか」
「わかりません。ウルスラ帝国は敵であり、憎い相手です。ですが、憎しみのために戦を起こす。僕には出来ません」
ヴァルがアイリスの肩に飛び乗ってくる。
「ホホホ、今のアイリスは、半精神半物質体。それ故に、肉体に左右される感情の揺らぎが少なくなっております。そういったことも関係しているでしょうな」
「イチニッ、サンシッ」
エルマは体を横に曲げる。
「まあ、アイリスが何をしようと俺たちはついていくぜ」
アイリスは少し困ったように2人を見る。
「でも、僕には2人に返せるものがありません」
「何言ってんだよ。報酬はもう貰ってんだよ、こっちゃあよ」
「そうでございますぞ」
体を前後に曲げながらエルマは思い出す。アイリスの覚悟の輝きを。
(スゴかったなー)
ヴァルは軽く羽ばたく。
「儂らは魔界で死んでいたも同然でしたのじゃ。アイリスが儂らを目覚めさせたのですぞ。感謝でございますな」
「そんなこと」
「あるのさ」
アイリスを遮りエルマが口を挟む。
エルマとアイリスが行っていた体操に、ヴァルも参加したのか3人で体をよじる。
「イチニッ、サンシッ」
「だから心配するなよ。アイリス」
「そうでございますぞ。アイリスがどのような道を歩まれようと、儂らはそれに付き従いましょう」
ニヤリとエルマが笑う。
「世界を滅ぼしたって、いいんだぜ」
いつの間にか、アイリスは切株の表情を読めるようになっていた。
腕を上下に伸ばす運動を始める3人。
「イチニッ、サンシッ」
「2人ともありがとう。でも世界は滅ぼさないですよ」
アイリスはさわやかに笑う。
「今の僕は何も持たず、世界を知らず、何が正しく何が誤りなのか、それすら判断できません」
空を見上げ、一族の皆に思いを馳せる。
「皆がつないでくれた僕の命、何を成したいのか、己すら定まっていません。
皇子だった僕の世界はとても狭かった。だから、世界を見てみたい」
「イチニッサンシッ」
身体を斜め下に曲げながらエルマが笑う。
「へへへ、いいぜ。アイリス、世界を見て回ろうぜ。俺も見てえんだ、世界」
「はい、国も、カシオペアもどうなったのか。僕は敗者ですが、王を名乗った以上、それを知らなければいけません。それにディーンも何とかしなくちゃいけないですし」
アイリスは胸に下げた袋から、白い半透明の宝石、ディーンを取り出し、そっと撫でる。
「ホホホ、ディーン。せっかく救いましたからな。何とか身体を用意してやりたいものですぞ」
「世界を見て回ってディーンの身体を作る!だな」
アイリスにはエルマがとても嬉しそうに見えた。
宝石を仕舞い、胸を反らしながら、アイリスはヴァルに話しかける。
「エルマは嬉しそうですね」
「ホホホ」
ヴァルはアイリスに答える。
「エルマはこちらの世界は初めてですしな、それにです。
復讐、そして憎悪、悪意、嫌悪、嫉妬、怨恨、侮蔑やら。これらは魔界で散々見てきました。魔界の悪魔どもは精神生命体にもかかわらず、負の感情に支配された生命ですからな」
アイリスには、ヴァルの目が少し悲しく見えた。
エルマは体を回しながらうっとりとしている。
「イチニッ、サンシッ。だからアイリスの感情が俺たちに届いたんだ。見たことのないきれいな光だったんだぞ。きれいだったなー」
両足で飛びながらエルマは満面の笑みを浮かべる。
「イチニッ、サンシッ、だから、アイリスには今の光のままでいてほしいんだよなー。へへ。今でもいい輝きなんだよ、アイリスは」
腕を振り足を曲げ伸ばしアイリスは答える。
「じゃあ、みんなで世界を見て回りましょう」
「おう」
「ホホホ」
アイリスは胸の宝石、ディーンも大きく脈動したことを感じとる。
3人は大きく深呼吸すると魔力体操を終えた。