手記です
誰にも、後悔があると思います。人生で少しの違和感がいつしか後悔になります。思い出せないくらいの思いも、脳裏によぎる思いもあると思います。
私は何度も小説、詩に救われました。日本に住む1人でもいいので私の言葉で救えたらと思いました。
『こんにちは。お元気ですか?
今更何だと思われるでしょう。あなたが今どこで何をしているか私にはわかりません。かつて恋人だった時に知っていた住所に手紙を送っています。
あの時から私は後悔をしています。だからなんだ、と思われるでしょう。本当に無神経なことをしたと思っています。
あれから3年ほど経ったと思います。私は今でもあなたが好きなのだと思います。
あなたは今何をしていますか。あの時感じたこと、今感じていることを知りたいです。私はあなたともう一度でもいいので話をしたいです。連絡を待っています。』
これまでの30年間、誰かに感謝せどされたことは無かった。ありがとうと言えど、言われたことは無かった。いつもほんのあと少しが足りず私はいつも後悔していた。後悔というには手に余る程の思いで、この世に生を受けたことさえ悔いてしまうほどだった。これもほんの少しの勇気が足りず、人生を閉じることさえできなかった。未知に勝てはしなかった。思えば、いつも逃げてばかりだった。しかしながら、私には数人の友人がいた。私は友人だと認識していた。
海と山に囲まれた田舎で生まれ、幼少期は大半を遊びに費やし、隣人の姉のような存在と毎日遊んでいた。今思えば毎日では無かったのかもしれないが、そう記憶している。よくある人形遊びをしたり、泥団子を作ったりしていた。時にはその母親と遊ぶこともあった。
小学校に上がってしまう前にその母親は生を終えた。あの頃は、お風呂で眠ってしまい溺れてしまったと聞かされていたが恐らく睡眠薬でも服用しての自殺だったのだろう。幼いながらに、大人たちの会話は聞こえ記憶しているものだ。初めての葬儀に困惑した。人間の死というものに触れたことがなかった。死ぬとは消えることだと思っていた。実体のない物が襲ってくる感覚がした。あの時に泣いたのは、死んだ女性のことを思ってではなく、いつか自分がこの何者かもわからない得体の知れないものに殺されてしまうんだという恐怖だった。
10年経って聞かされたが、あの時の女性は叔母だった。そういえば叔母はいつも家にいた気がする。夏でも冬でも、雨の降る日にも晴れた日にも家にいた。庭より外へ出たのを見たことはない。いつも美容院にいって1週間ほど経ったような自然で美しい黒髪を束ねていた。細いふちの眼鏡をかけ、アイロンのかかった白シャツを着ていた。色鮮やかな花柄のスカートを履いていることもあれば、グレーのチノパンを履いていることもあった。どれも新品のようであったが、丁寧に履きこなされたような洋服だった。
家に快く入れてくれるたび、夫には内緒にしてねと新しく買った本を見せてくれた。私には読めなかったが、嬉しそうに話す叔母と壁一面に飾られた本が私が本を好きになったきっかけのように思う。本は叔母の一部のようだと思っていた。叔母が亡くなって1ヶ月ほど経った時、本は全て捨てられた。叔父が見るのが辛いという理由だった。叔母の二度目の死も同然だと思った。叔母だと思っていたものは一冊残らず無くなり、全て裏庭で燃やされた。ただの骨になった叔母と、灰と煙にしかなれなかった叔母がやっと永遠になったのだ。
小学生になり、ランドセルを背負って学校へ通うようになった。全校生徒が100人にも満たない小さな学校だった。家から300mほどの学校へは歩いていくしかなかった。家から小学校は見え、毎日チャイムの音が聞こえていたのも憂鬱で小学校へ通うのは苦だった。
しかし、他の人と違うランドセルを背負うことだけは嬉しかった。黒、赤のランドセルが主流だったあの頃に私は紫がかった赤茶のランドセルだった。横に長く、半かぶせのものだった。他の人が持っていないということと、好きな色のランドセルを持つことは一種のステータスのように感じていた。
それをよく思わない者たちもいた。靴を隠すという低俗なものが流行っていたが、私は気に留めなかった。帰るときまでに見つかればよかった。そんなものに心動かされてしまう方が勿体ないと思っていた。幸い、中学受験をしようと思っていたため勉強ができた。たかが、小学生の模試だが県で1位になったこともあった。いじめられていると思ってはいなかったし、先生が嫌いなわけではなくむしろ好きだった。1人を除いては。
だが学校という組織が嫌いで、自らがそこに属するという事実が嫌で1週間に2日ほどは休んでいた。勉強に支障が出るわけではないし卒業できなくなるわけでもない。母親と父親は、無理に行って心が疲れてしまうより行きたくないものは行かなくて良いという親だった。それは義務教育が終わるまで言ってくれた。小学校5年生のときに、生徒会長を決めることになった。私は教師より推薦され全校生徒の4人を除いた全ての票が入り生徒会長となった。立候補時にマニフェストを言うことになっていた。確か、
「法律だけでなく、学校での取り決めをきちんと守れるような学校にしたい。ダメなものはダメだと言える空気を作りたい。個人の良いところをみんなで伸ばせるようになりたい。」
そう話した気がする。私をよく思っていなかった、同じ立候補者は4票しか票が入らず落選してしまった。そこから露骨に、所謂『いじめ』と言われるようなものが始まったと記憶している。
所詮、自分が劣るからいじめというものが起こるのだ。私は有利であるから、相手は大人数で集まってしようもないことをしている。頭ではわかっていたが、12歳の頃にに1日中誰とも話さず家に帰るというのは辛かった。何度か親に隠れて泣いた。他学校で行われるサッカークラブや陸上クラブ入っていたため、休みないほど弟と通った。辛そうになかったためか、いじめはより悪質さを増した。
ついには校長先生が私を校長室へ呼び出した。お菓子やお茶を出してくれたわいもない話をしてくれるようになった。あの頃好きな小説の話をするのは憚られていた。叔母のようなものだと思っていたため、勉学のため以外で好きと言ってはいけない気がした。だが校長先生には好きな話も、好きな理由も、好きでいてはいけない理由も話せた。いつかこの人になりたいとさえ思った。
先生だが、まるで生まれた時から知り合いだったかのような安心感と、流れるような話し方が私を魅了した。人間にここまで惹かれたのは初めてだった。私にどういじめられているのか聞いてくる唯一嫌いだった先生とは違い、いじめのことは一度も口に出さなかった。12の子供の小さなプライドを守ってくれていた。それは6年生の夏から卒業まで続いた。
卒業間際に、職員室のテレビで大きな津波が流れて家や人が流されていた。遠くの海沿いの街で地震が起き、津波が来ても漠然と見ているしかなかった。ただその事実を知っただけだった。卒業する日に校長先生に言われたのは、
「あなたは強い。強いが故に脆い。友達をつくりなさい。あの大きな津波で何もかも奪われた人もいる。あの人に寄り添えとは言わない。頼ってもらえるような人になれとも言わない。人を傷つけるような人にはならないでほしい。お互いで、できないことを補って歳を取れるような友達をつくりなさい。」
未だに一語一句覚えている。卒業から2年ほど経った時、その先生は亡くなった。自殺だった。その時に、私をいじめていた生徒の家に出向いてくれていたことを知った。知るには遅かった。あの時の校長室の空気とあの時の話したことは匂いと熱を帯びて思い出せた。そのことは誰にも話さないでおこうと決めた。私は、人生で2度目の死に触れた。
私の住んでいる町には中学校が1つあった。そこには腰パンをしたような男の子や、スカートの下にジャージを履いているような女の子がたくさんいた。私の正義は正しくあることだった。正しさが何かはわからないけれど、その時の私には大人の嫌がることをしないというの正しさが全てだった。
その中学校にはどうしても行きたくなかった。私がそうなりたくなかったし、そのような友人も持ちたくなかった。中学にあがるときにはサッカーを辞めていたが、陸上は続けていた。隣町の中学校では陸上が盛んだったためそちらへ通うことを決めた。
入学式翌日には陸上部へ行き、入部を決めた。サッカークラブで知り合った人も多くいたため、疎外感はあまり感じなかった。私はその陸上部で1人の女の子に目を惹かれた。小柄で目鼻立ちがはっきりとした可愛らしい子だった。その子は小学生のときにはバレーをしていたが、中学では陸上を始めた。バレー部の女の子たちからいじめを受けていた。私は他の学区から通っていたため、そんな内部事情は知らなかったし知っても変わらなかった。自分の意見を言える子だった。だから反感を持つ子がいたのだろう。私は彼女が好きだった。私の何もかもを話せたし、彼女も私にいろんな話をしてくれたと思う。家庭のことはよく知らない。話したくないことを無理に知りたいとも思わなかった。私から聞きはしないが、彼女が話したことは私の弟と同じ歳の弟がいること犬を飼っているということだった。
私たちは、中学校生活の3年間を一緒に過ごした。私は彼女が言うには強い故に弱かった。彼女もまた、強くて崩れやすかった。自分の理想とそうなれない自分に飽き飽きしていた。私は彼女の素直さと、可愛らしさが羨ましかった。彼女は私が聡明だと羨ましがっていた。みな、自分の持っているものより持っていないもので埋めたいのだ。手持ちのものに魅力は感じないが、持っていないものには魅力を感じてしまう。彼女は私に踏み入った質問はしない。私も彼女に踏み入った質問はしない。だが、お互い信頼できる。連絡も殆ど取らず、会おうと思ったときに連絡をとり4,5時間話してまた半年くらい会わない。距離感がちょうどよかった。私は彼女が好きだった。
幼い頃より、将来の夢は一つしかなかった。医師だ。テレビドラマで見た医師が主役のドラマに感銘を受けた。命を救う作品は余るほどあった。そうでなく、医師や病院の負っている負の部分。
言葉をを選ばなければ汚れた部分も見せてくれた。そして、医師の負の部分すら取り払い、初心を取り戻すというものだ。所詮はテレビドラマだとわかっているし、作り物なのもわかっている。だが、5歳や6歳の子供にはそれが衝撃だった。その医師と同じ心臓外科医になるとまで決めていた。そのくらいのテレビドラマだったのだ。何シリーズも出ていた。そのテレビドラマには原作があり、それも読んだ。だが、テレビドラマのその作品が好きだった。あまりに良すぎた。私は医師になることを中学生になっても夢見ていた。高校は理系のコースがあるところに決めていた。
だが、大学までエスカレーター式に行ける附属高校とも迷っていた。どちらも家からは1時間以上かかる場所にあった。模試の結果で決めようと思っていた。附属高校の判定はBだった。もう一つの高校はAだった。Bでも合格射程圏内だったが、落ちてしまうというのが怖かった。何かに認められないという事実を受け入れられるとは思わなかった。結局、理系コースのある高校を選び、小論文と面接で合格した。人生で初めて何かから逃げた瞬間だった。人は一度逃げてしまうと二度と逃げることからは逃げられない。
高校生へ入ると、理系クラスは科学部の何かのコースへ属さなければならなかった。科学部には、数学コース、化学コース、物理コース、地学コース、生物コースがあった。私は生物コースへ入った。医師になりたいという夢への何かしら手助けとなると思った。
生物コースへ入るという1年生は10人ほどいた。大抵は理数コースの生徒が入るのだが稀に普通コースからも何人か入る。私の年には3人いた。なんでもない研究を5人で進めて発表をしたこともあった。そんなことは高校生活の断片にもならないほどだった。
私はその部活動に入るとき、話したことのない同級生から連絡が来た。
『入部するなら明日説明があるらしいから来てね』
この一言だけだった。名前すら書いていなかった。ありがとうとだけ返事をした。次の日、髪を2つに束ねた女の子が近づいてきた。私は顔も名前も知らなかった。
『ちゃんと来たんだね』
猫のような顔をした彼女は芸能人と言われても納得するくらいの顔立ちだった。背は私と変わらないか少し小さいくらいだったが、華奢だった。スカートからでる脹脛や、踝が白くしなやかだった。
『連絡くれたからね。名前は?』
彼女の名前を知らなかったので聞いた。
『マツダでいいよ』
彼女は、マツダは、高校を卒業しても私に寄り添い続けた。最早友人と軽々しく口に出せるものではなかった。彼女は美しかったが故に恋人が絶えなかった。悪い男もいい男も引き寄せてしまっていた。老若男女関わらず彼女に惹かれてしまう。外側だけの美しさだけでなく、話す言葉がやたらに含みを持たせ、意味を持たせてしまう。マツダの話す言葉は好きだった。悲しい時も嬉しいときも救われた。私が私で居て良いのだと思えた。
恋人が16歳の冬にできた。音楽も、本も、服も、話す言葉も、全てが好きだった。恋人も私を、尊敬してくれ、尊重してくれ、愛してくれていた。私は恋人の全てが好きだった。我儘をたくさん言った。我儘をたくさん言われた。好きだったところもたくさん言った。好きだったところをたくさん言われた。恋人が好きだった。私は恋人を認められなかった。私を愛しているという証拠もなかった。信じることができなかった。恋人は私を愛してくれていた。私は恋人を愛していた。それで良かった。それでも信じられなかった。それだけでよかった。それでも私は恋人を愛していた。
恋人に初めて出会ったのは年末だった。SNSで知り合い、好きなアーティストのグッズの代行をお願いした。そのグッズを受け取り、代金を支払うために待ち合わせた。少し話をしようと決めていた。年末ということもあり、人は多く人の流れがとても早かった。私にだけ空気が違う感覚がした。迷子にならないよう、私たちはCDショップで待ち合わせた。
私は白いニットを着てチェックのチェスターコートを着ていた。少し早く着いてしまったため、jazzのコーナーで新譜をチェックしていた。恋人は黒いパーカーを着ていた。少し寒そうにしている姿を覚えている。イヤホンを外して、
『寒くない?ごめんね待たせて』
そう言ったことを覚えている。
『待っていないよ。初めまして。思ったより柔らかく話すんだね』
そう答えた。そう思ったからだ。後から知ったが、それより半年前ほどに1度知っていた。友達の友達だったのだ。お互い後から思いだした。すこしCDショップで好きな音楽を話して外へ出た。クリスマスを過ぎていたが、イルミネーションはまだ残っていた。薄暗い日暮れに明るすぎる木々の間を通り過ぎた。
『ごめんね、もう今日は帰らなきゃ。』
恋人はそう言って電車に乗った。席に座って、動く電車を見つめながら私は帰路についた。家に帰ってからも連絡を取り合った。元旦に2人で初詣に行くことにした。
『ご利益って信じる?』
恋人の顔を見ずに、答えた。
『あってもいいけど、無い方がおもしろいよね』
『そうだよね、君も好きでいてくれたら良いなとか思っちゃったんだけどあれって信じれるかな』
『神様は信じなくても良いけど、君に好意を抱いているってことは信じて欲しいと思ってるよ』
私は話してすぐに顔を背けた。恋人は手を握った。私も握り返した。そんなことが続くと思っていた。私は恋人が好きだった。
2人で映画を見に行った。美術館に行った。あらゆる展示にも、ライブも、お祭りも、花火大会も。幸い好みが似ていた。好きなものより嫌いなものの方が似ていた。恋人に不満を持ったことはなかった。自然に元からいたように、ぬるりと私の中へ入り溶け込んだ。私は恋人が好きだった。
私は高校3年生の時にアルバイトを始めた。そこには、23歳のアルバイトが2人、17歳の高校生のアルバイトが1人いた。出会ったことのないような人物ばかりでとても魅力的だった。私は4歳年上の人を好きになってしまった。好きになるという表現はおそらく正しくない。その人に惹かれてはいなかった。今まで出会ったことのない人で、物珍しかっただけなのだろう。恋人がいるのにも関わらず、だ。私はすごく恋人が好きだったが故に。好きすぎたのだ。理解されないことではあるが私には好きすぎたが故に気持ちを整理できなかった。3年弱付き合っていた恋人とお別れすることになった。そのことをずっと後悔している。22歳になった今でもだ。16歳から10年間、私は恋人だった人を好きでいる。
私は30年という長くもあり、短い人生を過ごした。時間の感覚は、幼い頃の方が長く、歳を重ねるごとに短く感じると言われている。20歳時点での10年は2分の1。50歳時点での10年は5分の1。体感での人生の時間の流れでいえば、20歳の時にはもう人生の半分ほど過ぎているらしい。
私には2人友人と呼べる人がいる。1人は中学生の頃に出会った。もう1人は高校生の頃に出会ったシミズだ。
友人だったが疎遠になった2人をマツダとリョウとしよう。