境界線と憂鬱
業火の向こうで睨みを利かすマイン。対峙する兵士達の足は止まる。
兵士の数に気圧される気配も無く、淡々と睨むマインの瞳は、眼前の炎とは正反対に極めて冷静だった。
その業火も時間と共に小さくなり、焼け跡から細い煙が立ち上がる。燻りはすぐに雨が鎮火し、焼け跡が踏み越えては行けない境界線を描いた。
「退け」
短いマインの言葉が、兵士達の躊躇を煽る。柔らかな土だけではなく、その言葉も兵士の足を重くした。顔を見合わせては、兵士達は互いの出方を見やる。欲と命を天秤に掛け、どちらをとるべきか互いに逡巡していた。
降りしきる雨の中、気が付くとマインの後ろへ近づくいくつかの影。兵士達はざわめきだす、その影が自らの敵である事は明らかで、そこから感じる強者の圧は、掛けた天秤が命に傾くのに充分な圧だった。
「ここから先はクランスブルグ領⋯⋯ってのは分かっているんだよな。剣を収めて、その線を越えずに帰るなら、何もない。何も起こらなかったって事だ。もしその線を、剣を構えて越えるなら、ひとり残らず斬る。それが、勇者の役目ってやつだろう?」
ジョンの朗々と通る声が兵士達に向けられた。ジョンはゆっくりとマインの後ろに並び立つ。更にその後ろにパーティーのメンバー達が剣を抜き、続いた。
強者の圧。
淡々と数百の兵士を前にしても、滾る事も無く雨中に佇む。睨む部隊長の体は、わなわなと震え、思い通りにいかないもどかしさと怒りを見せた。
混迷する兵士と、思い通りにいかないもどかしさを見せる部隊長。その姿を無表情にジョンは眺める。
もう一押し必要か。
「次期、ラムザ帝国王女候補マイン・リカラーズに仇なす愚か者が、無事にラムザに帰れると思うな! 国を憂う心を持たぬ不届き者、その行く末に未来などはない!」
「⋯⋯次期? は?」
ジョンの言葉が響き渡る。マインは驚きの表情を向けると、ジョンは一瞥だけして、また前を向いた。困惑のまま前を向くマイン。それ以上に兵士達が混乱している。部隊長ですら、表情が固まりジョンの言葉を呑み込むのに時間を要した。
「妄言だけを垂れ流すだけの、現王制に未来を見据える目はない。その下らない妄言に何人の血がすでに流れた? もう一度言う、現ラムザ王の言葉に未来はない!」
ジョンの高らかな宣言ともいえる言葉。雨音に負けずに響き渡った。ざわつきと困惑は部隊全体へと広がり、統制はとうに消え去る。
「まだ、分からぬか。引き返して家族や友人の元へ帰り笑って暮らすか、ここで無残に斬られ死に行くか。それだけの話だ」
マインの静かな声色にひとり、またひとりと剣を収め始めた。
「おい、コラ! 待て! お尋ね者の言葉を鵜呑みにするのか!」
「部隊長、いい加減にするのだな。文句があるのなら、その線を越えて来い」
マインは部隊長に向けて、手の平を返すとゆっくりと手招きをした。
「お、おい! い、行くぞ! お前達!」
部隊長が直近の兵士達の背中を押していった。渋々と剣を構え、前を向く。その姿にマインとジョンは盛大に溜め息をついた。
「馬鹿者が⋯⋯」
マインも渋々と剣を構え、向かって来る兵士達へ切っ先を向ける。
「退け! これが本当の最後通告だ」
勝ち鬨を上げ一斉に向かってくる兵士達にマインの言葉は届かなかった。
マインの横一閃。呻きを上げ、次々に倒れ込んで行く。
こんなに剣が重く感じた事は無かった。
辛く、悲しい一振り。
怒りの矛先は、線の向こうで目を剥いている部隊長へと向く。マインの怒りの刃が部隊長を指した。
「あんたは動くな」
ジョンはマインの耳元で囁く。
狼人のアッカとエルフのリックル。パーティーのふたりは、この混乱に乗じて、部隊長の後ろへと迫っていた。膝から崩れ落ちる部隊長を確認する事無く、ふたりは混乱の中に再び身を隠す。
倒れた部隊長に部隊は更なる混乱が生まれ、統制は完全に失った。我先にと逃げ出す者がぬかるみを踏んで行く。マインとジョンはその姿を雨中の中ただただ見つめた。マインの前に転がる数人の兵士の躯が、マインの心を憂鬱にして行く。
血溜まりと体に跳ねた血。降りしきる雨がそれを流れ落として行った。
それはほんの数秒の出来事に違いない。だけどその数秒で、僕の焦りは頂点を極めた。
ユランの短い呻きと僕の震える指先が連動する。高鳴りが治まらない心臓が、今にも口から飛び出しそうだ。
僕はおぼつかない指先で筒のフタを開けていく。投げ捨てたフタの行方を見やり、アサトは僕に目を剥いた。口を開く間もなく、飛んでくる足先。僕はまたしても筒を盾としてその蹴りを受け止めたが勢いはそのまま、また壁に激しく背中を打ち付けた。
焦燥と痛みが動きと思考を鈍らす。ここで止まってはダメだ。動け。
「くっ⋯⋯」
痛みはすでに言葉にならない。僕は再び痛みを押し殺し、筒を開けていく。
心を黒く塗り潰せ。
余計な物は見えなくしてしまえ。
痛みも思考も黒く塗り潰し、感覚の外へと押し出した。
ノイズ混じりの残像。
思い出すあの光景。
美しかったルビー色の瞳が濁った瞬間。
何も出来ない自身を呪った瞬間。
心が黒く塗り潰される。アサトという狂人を前に僕の心は凪いでいく。首に下げている硬貨の入った袋を握り締め、筒から一枚の2M四方の布を取り出した。
「ああ? 何だそりゃ⋯⋯」
首を傾げるアサトの後ろからユランが足元を狙い飛び込んだ。足元に絡みつくユランに虚を突かれ、アサトはうつ伏せに倒れて行く。僕は床にその布を床に広げ、倒れ込むアサトに覆いかぶさった。僕とユランは布の上で暴れようとするアサトを必死に押さえ付ける。
「離せ! こんのクソが!」
刹那、布から蒼白い光が立ち上がる、浮かび上がる紋様が【魔法陣】である事を告げる。
アベールが嫌がりながらも禁忌の【魔法陣】を描いてくれた、リックルが僕の思いを汲み取り魔力を込めてくれた。
たった一度の好機。逃すな。意地でも放すな。
「あががggっががっがggっがggっが⋯⋯」
アサトの体が激しい痙攣を見せ、僕達はふたりがかりで必死に抑え込む。
アサトは逃げようと必死にもがくが、反発する力はどんどん弱くなり、痙攣する体はアサトの意に反した動きしか見せない。
剥がれろ。
消えろ。
この世界から消え去れ。
「て、てめえ⋯⋯こい⋯⋯つ⋯⋯は何⋯⋯あがgっがgっがgっがっががggg⋯⋯」
アサトは口から泡を吹き、痙攣を続ける。蒼白の顔から生のオーラは感じない。白目を剥き、もう僕達の事を見てはいなかった。
僕は力を抜いていく。ピクリとも動かないこの体にアサトの魂は宿ってはいない。
引き剥がせた⋯⋯。
横たわるのは、カルガの息子であるカイルの姿。ユランはその顔を拭い、目を閉じ、口端を少し上げて笑みを作った。やさしく微笑むカイルの顔。黒く塗り潰していた心に小さな穴が開く。その穴から顔を出すのは憂鬱。達成感など無く、虚しさだけが顔を出す。膝の力が抜け、へたり込んだ。隣を覗くと、盛大に顔を腫らしたユランの姿。その姿に虚しさが心を染めていく。
「ユラン⋯⋯巻き込んで、ゴメン⋯⋯」
ユランは口端を少しだけ上げ、何も言わず前を向いて佇む。
何を言えばいいのか分からず、頭を垂れた。溢れる涙は止まらない。悲しいわけではない、嬉しいわけでもない、感情の揺らぎはほとんど無かった。なのに、涙は止まらない。
僕は泣く、ただただ泣く。
いや、やっと泣けたんだ。
気が付くと僕は首から下げている硬貨を、服の上からギュッと力強く握り締め、ひたすらに涙を零した。
しっかりと大地に根を張る大木のように、瞬足を見せるアンの足にも動じない。ユウの構える剣が煌びやかな輝きを見せ、ユウの表情から焦りは微塵も無かった。
一瞬の隙は見せた、行くしかない。
アンは眼前を見つめ、低く、低く、ユウの懐へと飛び込む。階段を駆け上がり、一瞬で階上へと躍り出た。ユウは表情ひとつ変えずに振り下ろし、その太刀筋はキラキラと輝く。
直感がアンの背筋を凍らした。強引に足を止め横へ転がると、すぐ横を煌びやかな刃が床を叩く。大きく抉れた床に弾け飛ぶ床材。外した事にユウは少し渋い顔を見せたが、すぐに構え直し、二の太刀を振り抜いた。
キン。
高い金属音を鳴らし、アンの刃がユウの太刀筋を受け止める。態勢の崩れているアンに弾き返す力は無く、刃を滑らし、滑らかな動きで一度距離をとろうと跳ねた。
させないとユウの飛び込み、眼前がキラキラと輝く。
チッ!
アンは更に身を引いたが、力強い振りが胸から腹に掛けて傷を作る。
大丈夫、浅い。
振り下ろした態勢のユウへ、低い態勢から斬り上げる。のけぞるユウの顎を微かに掠っただけで、ダメージまではいかなかった。滲んだ顎の血を撫でるとすぐにまた構える。
動じないユウの姿にアンの表情は固い。
揺れない心を前に、緊張しているのが分かる。
自身の拍動の大きさを誤魔化す為にアンはあえて前を睨む。
手数で勝負するしかない。
獣人らしい長い手を使い、鋭い突きを見せていく。ユウは少し窮屈な態勢でそれを弾き、前へ出る。させないと、アンは素早い突きで応戦した。何度弾かれようとも手数を緩めない。
もっと早く。もっと早く、早く!
アンの刃が人の理を超えて行く。神速の突き。
ユウの体が一瞬後ずさる。
その様に、アンは更に速度を上げて行った。
行け!
キン!
弾かれたアンの刃。かち上げられた腕が、脇腹をガラ空きにした。煌めく刃がガラ空きの脇腹を抉る。
「ごぁっ⋯⋯」
刹那、後ろへと投げられるアンの体。ユウの刃が根元まで突き刺さる事は無かった。
決め切れなかったユウの頬がひくっと動き、少しばかりの苛立ちを見せる。
脇腹を押さえながら立ち上がるアンの眼前には、ユウと対峙するカルガの姿。
「何やってやがる。お前しかコイツとやり合えるヤツいねえんだから、しっかりやりやがれ」
「⋯⋯簡単に言うね」
「さて、んじゃまぁ、クズ退治と洒落込むか」
ユウは無表情でふたりを見つめてはいるが、その瞳は怒りに満ち溢れていた。




