混迷と空(から)
後ろ姿はまるで、眠っている少女に語りかけているかのように、優しさを映した。その姿からは、別れを嘆くというより、静かに別れを告げているようにアンとデニスは感じる。やがてジョンは膝に手をつくと、すっと立ち上がり、ミヒャを大事に抱えた。
「行こう」
ジョンはそれだけ言って、ミヒャと共に出口へと向かった。アンとデニスもそれに続く。
「こちらを飲むといい」
アンは素直に差し出された小瓶を一気に飲み干す。顔を盛大にしかめ、デニスの方を向いた。
「効きそうな味だ。ありがとう」
「どういたしまして」
デニスは少し大仰に返事をして見せる。ジョンは黙ったまま真っ直ぐ前を向いていた。出口に辿り着くと、アンの方を向く。
「アン・クワイ。一緒に来てくれないか? 話したい事がある」
ミヒャをゆっくりと座席に寝かし、布を被せながら口を開いた。
「ああ⋯⋯オレも聞きたい事があるんだが、ラムザでやり残している事があってな。とりあえず戻りたいんだが、その後ではダメか?」
「⋯⋯分かった。んじゃ、ラムザの近くまで送ろう。その道中で話し合うってのは、どうだ?」
「そいつは願ったりだな」
「決まりだ。て、事でデニス、頼むよ」
「承知」
デニスの手綱で、馬車はゆっくりと動き始めた。
「それで、アーウィンとユランは大丈夫なのか?」
「ああ⋯⋯」
ジョンはその時の様子を、アンへ話し始めた。
「くたばれ」
アラタは口端が醜くせり上がった。その様にユランは顔をしかめる。
「ユラン!!」
アラタは後方からの知った声に顔をしかめた。飛び込んで来た細身の男を見やり、盛大な舌打ちをして見せた。
「おい! ミランダのとこのエルフ! 手を貸せ!」
「それは無理な話ですね」
聞き覚えのない老人の静かな声色に振り向くと、エルフの首が地面に転がっていた。そして、見知らぬ老騎士がひとり剣を構え佇んでいる。想像していなかった、いきなりの形勢逆転にアラタの動揺は隠せない。
「アサト。勝てると思うなよ、本気で行く」
「クッ⋯⋯」
盾と大剣を構えるジョンの姿に、アラタはさらに落ち着きを失っていく。忙しなく視線を動かし、スキルを発動させる。
「【加速】」
ジョンとデニスの間を瞬速で駆け抜けて行く。馬と馬車とを繋ぐハーネスを引きちぎると、馬に跨り森の中へと消えて行った。
「ジョン、待て!」
顔をしかめ、追う素振りを見せるジョンに、ユランが叫ぶ。ジョンは足を止め、ユランへ振り返る。
「何でだ?!」
「中で狼人が劣勢を強いられている。手を貸してやってくれ。それと⋯⋯」
「それと?」
「ミヒャが殺られた。すまん⋯⋯」
ジョンは驚きのあまり目を剥いた。ユランの言葉に肌の粟立ちが止まらない。悲しみや怒り、困惑と混乱。ユランの言葉を一瞬、理解出来なかった。
「わかりました。急ぎましょう。あなた方は安全な所に身を隠して下さい」
デニスはすぐに頷き、ジョンの腕を引いた。
ユランもアーウィンを抱え、痛む体を引きずりながら暗い森へと溶けて行く。
悲しみが心を覆い尽くす。
「そうか。ふたりは逃げおおせたか」
「ああ。うまい事逃げたと思う」
アンはラムザの現状を、ジョンに伝える。ジョンは黙って頷いた。行動を始めたアサトとユウに最大の懸念を見せる。避けるべきはクランスブルグとラムザの全面戦争、それだけは絶対に避けなければいけない。
「クランスブルグでは、その布石は打ってきた。次期王候補を口説いている最中だ。彼が王になってくれれば戦争になる事もないし、召喚も二度と行われない。今はオレ達の行動が信用出来るか、お試し中って所だ。デニスはそのお目付け役。こんなに強いとは思わなかったけどな」
ミヒャを隣にして話すジョンは、どこか寂し気に見える。時折、ミヒャを見つめては感傷的になっていた。
「ラムザの方は、ちょっと厳しい状況ではあるが何とかするさ。潜っているカルガも次に向けて準備しているはずだ」
「次とは?」
「子供達の解放。【憑代】として監禁されている子供達を解放する」
「その後は?」
「まだ、そこまでしか考えていない」
「なぁ、アン。ひとつ提案がある。オレの個人的な意見なんだが、どう思うか言ってくれ」
「個人的? 分かった」
「ラムザの現王はユウだ。王位に関して現ラムザは、王族にこだわる必要はないわけだ」
「うん? まぁ、そうか」
「ならば⋯⋯」
続くジョンの言葉に、アンは驚愕の表情を見せた。真剣な眼差しを見せるジョンに口端を上げて見せる。
「本気みたいだな」
「もちろん」
アンは何度も頷いて見せると、ジョンは静かに目を閉じ、安堵したのかひとつ息を吐き出した。
遠ざかる事だけを考えた。ユランは重い足を必死に動かして行く。暗闇は方向感覚を失う。
月が出ている方へ、それだけを考え前に進んだ。足に絡みつく草葉すら重く感じる。どこまで行けばいいのか、どこに行けばいいのか、答えが見えないままの逃避行に疲労感は増していった。
俯き歩く。たまに顔を上げて月を確認するその繰り返し。ずっと歩いているのか、少ししか歩いていないのか、時間の感覚は疲労と闇に吸い込まれる。
「ユラン⋯⋯ユラン⋯⋯!」
囁くような女性の叫びに、ユランは辺りを見渡して行く。暗闇に大きな帽子が揺れているのが分かる。
「⋯⋯アベール」
「無事だったのかい、良かった。アーウィンは? 大丈夫か? ふたりとも怪我が酷いな。どれヒールを当てよう。《キュアオーブ》」
柔らかな緑光に、痛みが引いていく。
「あんたも無事で良かった。みんなの所に行かなかったのか?」
「逃げ出した兵士をちょろちょろと見かけたんで、大人しくしていたのさ。で、これはどうした? まるで抜け殻みてえになっているぞ」
アベールは抱えられているアーウィンを指差した。ユランは大きく嘆息して、口を開いていく。
「ミヒャが死んでしまった」
その一言にアベールは深く頷き、理解を示した。
力の抜けた体に、焦点の合っていない光を失った瞳。アーウィンは支えを失い、深い心の沼へ沈んでいる。
「この先にアーウィンを良く知る男がいる。そこで少し休ませて貰おう。ユラン、お前さんも休まないと。どれ、私も肩を貸そう」
アーウィンはユランとアベールに抱えられ、森を進んで行く。
暗闇は視界を塞ぐ。おぼつかない足が絡まる。
この時の状況を僕はほとんど覚えていない。
空っぽになった心がじわじわと黒く塗り潰されて行くと、僕の意識は覚醒していく。気が付けば、アウフの家の前に立っていた。
アウフは僕の境遇を嘆き、ミヒャの死を憂いて見せる。
僕の涙は枯れた。大きく穴の開いた心がじわじわと黒く覆われていく。
黒く塗り潰してしまえと心がざわつく。
嘆き、苦しむくらいなら全てを黒く塗りつぶせばいい。
心も世界も黒く染まっていく。沸々と心の中が黒く泡立つ。
感情は抜け落ち、出来た心の隙間を黒く塗る。べったりと黒一色に塗っていった。
心は気持ち悪い程落ち着きを取り戻し、冷静な思考がやるべき事を導く。
僕のするべき事⋯⋯。
心の芯が冷たく燃え上がる。
ユランは見た事のないアーウィンの鋭い眼光に危うさを感じていた。何をしようとしているのか⋯⋯。だが、あの時の無力な自分と重ねてしまい止める事は出来ない。
こんな時も無力を感じるのだな。ユランは黙って、前方を睨むアーウィンを見つめた。
「⋯⋯アベール」
「どうした、アーウィン。大丈夫か?」
「アベール、手を貸して」
アーウィンの唐突な申し出に、アベールは少しばかり驚いた。先ほどまで俯いていたアーウィンがしっかりと顔を上げていた。復活するには早過ぎると感じるが、アーウィンの瞳はしっかりとアベールを見つめている。覇気が感じられないのはミヒャを失ったせい? 何かが違う。覚える違和感にアベールは少しばかり、難しい顔をして見せた。
「手を貸すのはやぶさかではないが⋯⋯、一体何をしろと言うんだ?」
アーウィンは生気のない冷めた微笑を口元に浮かべる。その冷淡な笑みにアベールは背筋に冷たいものすら感じた。
「お前さん、本当にアーウィンか?」
あまりの変貌ぶりに、アベールは訝しげにアーウィンを覗いた。




