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春来たり

作者: 秋花

 目を覚ます。全身の皮膚を寒気が突き刺してくる。体が凍ったように固まっている。

 影が深く、体にまとわりついていた。光が差し込んでくる気配はない。一呼吸するたびに、喉を空気が引っかく。静かだ。雪はまだ止んでいないのだろう。


「起きたか」


 どこにいるとも知れない女の声が、暗闇の向こうから飛んできた。

 衣擦れと木板が軋む音がする。誰かが立って近づいてきている。


「起きたなら早々に出ていけ」


 近づいた音はすぐ横で止んだ。扉が開き、光が射し込む。たったそれだけで、彼の周囲の全貌が見渡せた。人一人でも生活するには窮屈そうな寂れた小屋だ。竈一つなく、ほんの少しの間雨風から身を守ることにしか使えない。彼は入口近くで横になっていた。

 扉を開けたのは白い女だった。雪で人の形を作ったかのような、髪の先まで眩い女だ。己を抱きしめる両手を離せば一瞬でかじかむ空間で、女は陶器のような素足を晒していた。


「中で転がってるのも、家の前で転がっているのも迷惑だ」

「……おれ」


 白い息が出る。女にはない生き物の跡だ。


「おれは、冬を終わらせにきた」


 女は、不愉快そうに薄氷を貼りつけた瞳を細めた。

 その後に繰り広げられた出て行け嫌だの押し問答は、冬が春を待つよりもよっぽど長く感じるほどの稚拙な口争いになった。女の口は思いのほか悪かった。根を上げたのは女だ。彼女は粉雪を吐き出すと「好きにしろ」と外に出て行った。

 彼は自身を包んでいる掛け布を鼻まで上げ、息を吐いて暖をとった。吸った空気は冷たかったが、一瞬だけ温まった。女が帰ってくるまで、それを繰り返した。

 目が覚めてから二度目になる光が小屋の中に差し込んだ。

 薄目を開けると、真っ白な足が見えた。女が落とした小さな獣が足を隠す。死んだ狐だ。


「食え。食ったら出て行け」


 女が中に入ると、小屋の中はまた暗がりに沈んだ。彼は目を閉じた。食べる必要のない肉を食べる気にはならなかった。


「なぜ食べない」


 目を閉じていると、すぐ近くから声がした。雪を浴びているような呼吸だった。 


「あんたが冬を終わらせてくれないと、雪がやまない」


 舌打ちが聞こえる。女の呼吸があまりに冷たくて、彼は己を守る掛け布にしがみついた。


「誰がそんな世迷言を」

「みんながそう言う」


 だから正しいのだ。嫌か嫌でないかではなく、みんなが言ったことだから正しいのだ。

 女が鼻で笑った。


「ふん、馬鹿馬鹿しい。なぁお前、それならさっさと帰ってしまえ。眉唾物の噂に踊らされるなんて阿呆だよ。私がどうしようが雪はやまない。親の下に早うお帰り」

「親はいない。雪崩で潰れた」


 女は言葉に詰まった。


「雪が、ぜんぶ奪うんだって、みんなが言う」


 体温を、家族を、奪っていく。何も残っていない彼が村に渡せるものが今だった。


「……そりゃあ残念だ。残念だが私に責任はない。運が悪かったんだ」

「でも、雪を降らせてる」


 もう一度、女が鼻で笑った。息が彼の耳を凍らせる。カチカチとぶつかる音が口の中で響いた。寒い。


「私は息をしているだけだ。お前が呼吸するたびに私の肌を焼くように。お前が体を温めるたびに私の呼吸が詰まるように。お前は意図して行っているか? していないだろう。お前は無意識に行っている。そして、いつだって自分たちだけが痛がっているような話しぶりで私を糾弾する。いいやいいや、悪いことじゃない。人間は数が多いからな。数が多いと気が昂るのさ」


 女の口から出る冷気が彼の肌を刺す。目蓋を固くする。掛け布を頭まですっぽり覆うと、彼は「じゃあどうしたらいいの」と訊いた。


「知るか。私がお前に求めるのは、ここから出て行くことだけだよ」


 それ以上の言葉はなかった。そっと掛け布の間から手を出す。狐の肉に触ると、凍ったように冷たかった。



 女は日がな一日外に出ては、彼が食べられるものを持ってきた。多くは獣肉だったが、時に珍しい山菜も拾ってきた。

 数日の滞在で、彼は女の風貌に慣れた様子だった。ひだが黒いきのこを拾いあげる。


「これ、食べられるの?」

「齧ってみな」


 訝しげに一口齧ると、顔を顰めて思い切り吐き出した。苦かった。女は愉快そうに口の端を上げた。


「人間の食べ物なんて私が知るわけないだろう」


 不思議と、出て行け出て行けと言っておきながら女は無理に追い出すことはしなかった。互いに孤独だったのだ。異種族とはいえ、言葉を交わせる相手には飢えていた。


「村のみんなに話に行こうよ。わかってくれるよ」


 ある日の晩のことだった。二人は隣り合うことなく、小屋の隅と隅に座っていた。女は一瞥だけ向けると「わけのわからないことを」と言った。


「みんなで仲良くすれば、さぁ」


 女は笑った。笑って「お前はいつ自分を殺すのかもわからない者と住めるか?」と返してきた。


 時間が経つにつれて、互いの無意識が相手の肉体を消耗させていることが明確になっていった。彼は動きを鈍らせていた。女もそれがわかっていた。自分の身体に理解がなかったのは彼だけだった。


「住んでいた場所にお帰り、坊や」


 決して触れることはせずに、女は彼を諭そうとした。彼は首をゆっくりと振った。寒さで震えが止まらなかった。熱いのか寒いのか判断がつかなかった。


「自分の足で出て行くんだ。頼む、私は触れないんだ」


 もう一度首を振った。女は顔を顰めた。


「どうしてだ。自分がどれほど馬鹿をしているのか、わかっていないのか」


 帰る場所がないのだ。ここを出ても、帰る場所がない。決して触れ合うことはなかったにしろ、寒さに耐え、会話をし合ったこの場所は嫌いではなかった。人ではない女の近くは、息が苦しかったけれど居心地はよかった。

 声に出そうとしたが、掠れた声は震えていて形にならなかった。


「だから言ったんだ。出て行けと。子どもは嫌いなんだ。毎年そうだ。そうやって、私はいつも――」


 たまらなくなって、目を閉じる。女の声は途絶える。氷のように冷たい揺り籠の中で、彼は揺蕩う。氷像に抱えられるような、背筋が凍る冷たさが全身を包んでいる。だが、恐ろしくはなかった。寒くとも、冷たくとも、一人ではなかったから、恐ろしくはなかったのだ。


「――冬が終わるぞ!」


 歓声が聞こえた。目蓋を上げると、木目の天井を、鳶色の明りが照らしていた。部屋の中央では薪が燃えている。視界の隅に大きな水たまりが見えた。

 寒くない。暗くもない。指を動かすと、滑らかに動いた。

 歓声は外から響いている。彼は立ち上がり、戸を開けた。今までで最も眩い光が彼を迎えた。

 一面雪景色の中、外に出る。人々は彼を見つけると口々に「よくやった」と言った。踏みつける雪が潰れる。女は、もう足の下にしかいなかった。


 頬に、雪ではないものが落ちた。いや、雪ではある。だが、雨が混じっている。

 みぞれだ。

 次第に、雨だけになり雪が溶ける。寒くなるまで、雪の代わりに雨が降る。春が来る。


 今年の冬が、明けるのだ。


2019/08/24:微修正

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